江戸幕府の創始者
徳川家康の子
徳川四天王
徳川十六神将
三河徳川家の武将
徳川 家康(とくがわ いえやす)
生年 | 1543年 |
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没年 | 1616年 |
主君 | 江戸幕府初代征夷大将軍 |
拠点・知行 | 武蔵江戸城 |
官位・役職 | 従五位下・三河守、左京大夫、従五位上・侍従、正五位下、従四位下・右近衛権少将、従四位上、正四位下・左近衛権中将、従三位・参議、権中納言、正三位、従二位・権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、正二位・内大臣、従一位・右大臣、征夷大将軍、太政大臣 |
幼名 | 松平竹千代 |
法名 | |
別名 | 松平元信、松平元康、松平家康、次郎三郎、蔵人佐、大御所 |
徳川家康の家族構成
父 | 松平広忠 継父:久松俊勝 |
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母 | 於大の方(伝通院。水野忠政の娘) |
兄弟 | 松平忠政、家康、樵臆恵最、松平家元、内藤信成、松平康元、松平康俊、松平定勝 |
正室 | 築山殿(関口氏純の娘) 継室:朝日姫(豊臣秀吉の異父妹) |
側室 | 西郡局(蓮葉院。加藤義広の娘、鵜殿長忠の養女)、於万の方(長勝院。永見貞英の娘)、於愛の方(西郷局、竜泉院、宝台院。戸塚忠春の娘、西郷清員の養女)、於竹の方(良雲院。市川昌永の娘)、於都摩の方(下山殿、妙真院。秋山虎康の娘、穴山信君の養女)、於久の方(茶阿局、朝覚院)、於亀の方(相応院。志水宗清の娘)、於久の方(普照院。間宮康俊の娘)、於万の方(養珠院。正木頼忠の娘、江川英長の養女)、於梶の方(英勝院。太田康資の娘)、於富の方(信寿院。山田氏の娘)、於夏の方(清雲院。長谷川藤直の娘)、於六の方(養儼院。黒田直陣の娘)、於仙の方(泰栄院。宮崎泰景の娘)、於梅の方(蓮華院。青木一矩の娘)、於須和の方(阿茶局、雲光院。飯田直政の娘)、於牟須の方(正栄院。三井氏の娘?)、於松の方(法光院)、三条の方(三条氏の娘)、松平重吉の娘 |
子 | 松平信康、結城秀康、秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、平岩仙千代、義直、頼宣、頼房 養子:松平家治(奥平信昌の子)、松平忠政(奥平信昌の子)、松平忠明(奥平信昌の子)、八宮良純親王(後陽成天皇の皇子) |
親族 |
徳川家康の逸話
徳川家康の生涯
- 1542年、岡崎城にて生誕
- 1547年、今川家の人質として駿府へ移送途中に捕らわれ、尾張・織田家へ送られる
- 1549年、今川家と織田家の間で人質交換が成立し、駿府へ送られる
- 1555年、駿河・川義元の下で元服し、次郎三郎元信と名乗る
- 1556年もしくは1557年、今川義元の姪・築山殿を正室に迎える
- 1558年、祖父・松平清康の一字をとり、名を元康と改める
- 1560年、桶狭間の戦いにて、大高城の兵糧入れを成功させる。今川義元が織田信長に討たれると岡崎城に入り独立を図る
- 1561年、織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対する
- 1563年、名を家康と改める
- 同年、同盟の証として嫡男・竹千代と織田信長の娘・五徳が婚約する
- 1564年、三河一向一揆が起こる。家中が真っ二つに分かれるが鎮圧に成功する
- 1566年、苗字を徳川に改める。従五位下・三河守に叙任される
- 1567年、嫡男・信康と信長の娘・五徳との政略結婚が結ばれる
- 1568年、信長の上洛に合力し、左京太夫に任命される
- 1570年、本城を岡崎城から曳馬城に移し、曳馬を浜松と改名する
- 1572年、武田家との抗争が本格化し、二俣城を奪われ、三方ヶ原の戦いで大敗するが、武田信玄の病死により武田軍は撤退する
- 1574年、武田勝頼に東美濃・明智城、遠江・高天神城を奪われる
- 1575年、長篠の戦いで織田信長と連合し大勝する。この頃から織田家に同盟ではなく従属の色が濃くなる
- 1579年、北条家と同盟を結ぶ。正室・築山殿と嫡男・松平信康に武田家との内通容疑がかかり、築山殿を殺害、信康を切腹させる
- 1581年、武田勝頼から高天神城を奪還する
- 1582年、天目山の戦いにて武田家が滅亡
- 同年、本能寺の変にて信長が明智光秀に討たれると、堺にいた家康は伊賀を抜けて三河へ帰還する。混乱を極めた甲斐・信濃・駿河を併呑し、三河・遠江と合わせ5か国の大名となる
- 1584年、小牧・長久手の戦いにて織田信雄と連合し羽柴軍を打ち破るが、外交戦の末、羽柴家優勢で和睦する
- 1585年、上野国沼田をめぐり真田家と衝突し、第一次上田合戦が勃発する。知将・真田正幸に翻弄され上田城を落とせないまま撤退する。石川数正が出奔し羽柴秀吉に仕える
- 1586年、前年に関白となった豊臣秀吉の懐柔策により、秀吉の妹・朝日を正室に迎え豊臣家に臣従する。正三位に叙任される。本城を浜松城から駿府城へ移す
- 1587年、従二位・権大納言に叙任される。その後、左近衛大将・左馬寮御監に任ぜられる
- 1590年、正室・朝日姫が死去する。小田原征伐で北条家が滅亡すると、遺領の武蔵・相模・伊豆・上総・上野・下野一部・常陸一部へ転封となり250万石の大大名となる
- 1591年、豊臣秀次を総大将とする奥州仕置軍に加わり、各地で一揆の鎮圧に協力する
- 1592年、朝鮮出兵がはじまる。家康は渡海せず名護屋城で在陣する
- 1596年、豊臣秀吉の推挙で内大臣に任じられる
- 1597年、2度目の朝鮮出兵。家康はまたも渡海はせず
- 1598年、秀吉が病に倒れると五大老に任命される。秀吉が没すると朝鮮から軍を引き上げる。伊達家・福島家・加藤家・蜂須賀家・黒田家と婚姻をおこなう
- 1599年、前年の婚姻を合議を通さずおこなったため、堀尾吉晴ら問罪使に詰問されるが、逆に恫喝し追い返す。福島正則・加藤清正らに襲撃された石田三成を匿い両者を仲裁、三成は失脚し本領の佐和山で隠居する
- 1600年、関ヶ原の戦いにて東軍総大将となり西軍に勝利し、天下人としての地位を確立する
- 1601年、伏見城で政務を執るようになる
- 1603年、征夷大将軍・右大臣・源氏長者に任命される。二条城を本拠とし将軍就任の祝賀の儀をおこなう
- 1605年、将軍職を嫡男・徳川秀忠に譲る
- 1607年、駿府城に移り大御所政治を開始する。李氏朝鮮と国交を回復する
- 1608年、朝廷に働きかけ大阪方が豊臣秀頼を左大臣にしようとするのを察知し阻止する
- 同年、右大臣・九条忠栄を関白に推挙する
- 1610年、足尾銅山を開山する
- 1611年、九男義直・十男頼宣を参議中将に、十一男頼房を少将に叙任させ御三家体制の構築に動く。二条城にて豊臣秀頼と会見をおこなう。スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る
- 1612年、九条忠栄を左大臣に、鷹司信尚を関白に推挙する
- 1613年、イングランド国王ジェームズ1世の親書と献上品を受け取る
- 1614年、大阪冬の陣を優位に運び和睦を結ぶ。大坂城の堀を埋める
- 1615年、大坂夏の陣で勝利し豊臣家を滅亡させ、日本全国を支配下に置く
- 1616年、鷹狩りの最中に病で倒れる。太政大臣に任ぜられる。駿府城にて病のため死去する。享年75
徳川家康の息子
松平 信康(まつだいら のぶやす)
生年 | 1559年 |
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没年 | 1579年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 三河岡崎城 |
官位・役職 | |
幼名 | 竹千代 |
法名 | |
別名 | 次郎三郎、岡崎三郎 |
松平信康の家族構成
父 | 徳川家康 |
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母 | 築山殿(関口氏純の娘) |
兄弟 | 松平信康、結城秀康、秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、平岩仙千代、義直、頼宣、頼房 |
正室 | 徳姫(織田信長の娘) |
側室 | 日向虎頭の娘 |
子 | 萬千代 |
親族 |
松平信康の逸話
松平信康の生涯
- 1559年、生誕
- 1567年、織田信長の娘・徳姫と結婚し、共に岡崎城で暮らす。
- 同年、元服し、織田信長から信の字を与えられ信康と名乗る
- 1570年、正式に岡崎城主となる
- 1573年、足助城攻めで初陣を飾り、続いて武節城を攻める
- 1575年、長篠の戦いに従軍する
- 1577年、武田家との横須賀の戦いでは撤退時に殿を務める
- 1578年、小山城攻めに従軍する
- 1579年、父・徳川家康が岡崎城を訪れた翌日に岡崎城を離れ大浜城に移されると、続いて堀江城、さらに二俣城に移され、家康の命により切腹させられる。享年21
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)
生年 | 1579年 |
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没年 | 1632年 |
主君 | 江戸幕府第2代征夷大将軍 |
拠点・知行 | 武蔵江戸城 |
官位・役職 | 従五位下・侍従、蔵人頭、正五位下・武蔵守、従四位下、正四位下・右近衛少将、参議、右近衛中将、従三位・権中納言、権大納言、従二位・右近衛大将、正二位・内大臣、征夷大将軍、従一位・右大臣、太政大臣 |
幼名 | 長松、長丸、竹千代 |
法名 | |
別名 | 江戸中納言、江戸右大将、相国様 |
徳川秀忠の家族構成
父 | 徳川家康 |
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母 | 於愛の方(西郷局、竜泉院、宝台院。戸塚忠春の娘、西郷清員の養女) 養母:於須和の方(阿茶局、雲光院。飯田直政の娘) |
兄弟 | 松平信康、結城秀康、秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、平岩仙千代、義直、頼宣、頼房 |
正室 | 小姫(織田信雄の娘) 継室:江姫(浅井長政の娘) |
側室 | |
子 | 長丸、家光、忠長、保科正之 |
親族 |
徳川秀忠の逸話
徳川秀忠の生涯
- 1579年、生誕
- 1590年、小田原攻めの際に人質として上洛する。上洛中に元服し、秀忠と名乗り豊臣姓を与えられる。さらに織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫と祝言を挙げると豊臣秀吉の許しを得て帰国するなど他大名の妻子とは別格の待遇を受ける
- 1591年、小姫が病死する
- 1592年、文禄の役では名護屋へ赴いた父・徳川家康の替わりに関東領国の統治を榊原康政・井伊直政の後見を受けながら行う
- 1595年、豊臣秀次に謀反の疑いが生まれ、豊臣秀吉に切腹を命じられると、豊臣秀頼が秀吉の後継者となる。秀頼の生母・淀殿の妹・達子を秀吉の養女として継室に迎え再婚し、秀吉から羽柴姓を与えられる
- 1600年、関ヶ原の戦いでは当初は上杉に対する備えとして宇都宮に陣を敷くがその後、真田軍に対する部隊の指揮を命じられる
- 1603年、父・徳川家康が朝廷に働きかけ、右近衛大将に任命される
- 1605年、将軍職を父・徳川家康から譲られ第2代征夷大将軍となる
- 1614年、右大臣となり官位で豊臣秀頼に追いつき、位階は従一位となり正二位の秀頼を超える
- 同年、大坂冬の陣では土井利勝を徳川家康のもとへ派遣する。また冬の陣の講和後、大阪城の堀埋め立ての現場指揮を担う
- 1615年、大坂夏の陣ではは豊臣家重臣・大野治房に本陣を混乱状態に追い込まれるが反撃する
- 同年、豊臣家滅亡後、徳川家康と共に武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定する
- 1616年、キリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定する
- 1623年、将軍職を嫡男・徳川家光に譲ると、父・徳川家康に倣って大御所として二元政治を行う
- 1626年、水尾天皇より太政大臣に任じられる
- 1632年、死去する。享年52
徳川四天王
酒井 忠次(さかい ただつぐ)
生年 | 1527年 |
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没年 | 1596年 |
主君 | 松平広忠→徳川家康 |
拠点・知行 | 三河吉田城 |
官位・役職 | 従四位下・左衛門督 |
幼名 | 小平次 |
法名 | 一智 |
別名 | 小五郎、左衛門尉 |
酒井忠次の家族構成
父 | 酒井忠親 |
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母 | |
兄弟 | 忠善、忠次、恒城 |
正室 | 碓井姫(松平清康の娘) |
側室 | 山県昌景の娘?、小山十兵衛の娘? |
子 | 家次、本多康俊、小笠原信之、松平久恒、忠知 |
親族 |
酒井忠次の逸話
- 忠次愛用の槍は甕通槍、刀は猪切という
- 海老すくいという踊りを得意とし、宴席で披露することがあった
- 長篠の戦いでは信長から「徳川の片腕」と称賛された
酒井忠次の生涯
- 1527年、生誕
- 元服後、松平広忠に仕え、徳川家康の今川人質時代は家康に同行する。家康より16歳年上である
- 1556年、居城の福谷城に侵攻した織田家臣の猛将、柴田勝家を敗走させる
- 1560年、桶狭間の戦いの後、徳川家家老となり、三河一向一揆でも家康に従う
- 1564年、吉田城を無血開城させ、吉田城主となり東三河の統制を任される。また、甲斐・武田信玄との同盟の間は徳川方の交渉窓口となる
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍に突撃し戦陣の火蓋を切る
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、小山田信茂を撃破
- 1575年、長篠の戦いでは、鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出後、川窪信実を討ち取り、有海村の武田勢をい大いに打ち破る
- 1579年、信康事件では、忠次は大久保忠世とともに信長への弁明の使者に立てられるが弁護できず、信康は切腹に追い込まれたとされるが、近年では信康の切腹は家康と不仲であったため、家康の意向である説が有力である
- 1582年、本能寺の変の後は、信濃統制を担当する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、森長可を敗走させる
- 1585年、同格とされる石川数正が出奔すると、徳川家筆頭の重臣とされ、翌1586年には家中で最高位である従四位下、左衛門督に叙位任官される
- 1588年、家督を嫡男・酒井家次に譲り、隠居する。眼病により目が見えなかったことが理由のひとつとされる。豊臣秀吉から1000石の在京料を与えられ、出家して一智と号したと伝わる
- 1596年、京都にて死去する。享年70
私見
ナギサさん(大森南朋)のおかげで、2023年、一気に市民権得そうな予感(笑)結構長生きですね
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
生年 | 1548年 |
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没年 | 1610年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 上総大多喜城 |
官位・役職 | 従五位下・中務大輔 |
幼名 | 鍋之助 |
法名 | |
別名 | 平八郎、三河の鹿 |
本多忠勝の家族構成
父 | 本多忠高 |
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母 | 小夜(植村氏義の娘) |
兄弟 | |
正室 | 於久の方(見星院。阿知和玄鉄の娘) |
側室 | 乙女の方(月量院。松下弥一の娘) |
子 | 忠政、忠朝 |
親族 |
本多忠勝の逸話
- 忠勝の本多家は徳川本家の最古参の譜代家臣の家柄
- 徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将のひとり
- 妹の栄子は長束正家室。娘の小松は真田信之正室
- 黒糸威胴丸具足を身にまとい、鹿角脇立兜をかぶって、愛槍、蜻蛉切を手に戦場を駆け回った
- 愛馬の三国黒は徳川秀忠より賜ったが、関ヶ原の戦いの際、島津勢に銃撃され死亡した
- 生涯で57回の合戦に参加し、一度も傷を負うことがなかった
- 信長から、「花も実も兼ね備えた武将である」と賞された
- 秀吉から、「日本第一、古今独歩の勇士」と賞された
- 榊原康政とは同い年で仲が良い
- 本多正信を嫌っている
本多忠勝の生涯
- 1548年、生誕
- 1549年、父の忠高が戦死、叔父・本多忠真に育てられる
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れにて、初陣を飾ると同時に元服する
- 1563年、三河一向一揆では、一向宗から浄土宗に改宗し家康に従う
- 1566年、19歳の時、旗本先手役に抜擢される。以降は常に家康の居城の城下に住む
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍1万に対して単騎駆けを決行し、朝倉軍撃破の契機を作る。猛将・真柄十郎左衛門と一騎打ちで戦う
- 1572年、一言坂の戦いでは、大久保忠佐と殿軍を務め、武田家臣の名将・馬場信春から徳川家康を守る
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは武田家臣の猛将・山縣昌景を撃破する。長篠城攻めでは榊原康政とともに武田軍を撃破し長篠城は陥落する。その後長篠城守備の任にあたる
- 1582年、本能寺の変の際、徳川家康を守り伊賀越えを行い、堺から三河への撤退に成功する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、留守を任されていたが徳川軍不利の報を聞き、500騎で豊臣軍16万の前に立ち塞がる。この振る舞いにより豊臣軍の士気は下がり勝機を失った
- 1586年もしくは1588年、従五位下・中務大輔に叙位任官される
- 1590年、家康の関東移封の際、上総国大多喜10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、榊原康政も同じく10万石を与えられた
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、吉川広家を調略、本戦では僅かな手勢で90の首級を上げ、伊勢国桑名10万石に移封、上総大多喜10万石の内5万石を次男・忠政に与えられ、結果親子で15万石となる
- 1604年頃から、病がちになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかる
- 1607年、眼病に罹る
- 1609年、家督を嫡男本多忠政に譲る
- 1610年、桑名にて死去する。享年63
榊原 康政(さかきばら やすまさ)
生年 | 1548年 |
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没年 | 1606年 |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 上野館林城 |
官位・役職 | 従五位下・式部大輔 |
幼名 | 於亀、亀丸 |
法名 | |
別名 | 小平太 |
榊原康政の家族構成
父 | 榊原長政 養父:榊原一徳斎 |
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母 | 道家氏の娘 |
兄弟 | 清政、康政 |
正室 | 大須賀康高の娘 |
側室 | 周光院(花房氏の娘) |
子 | 大須賀忠政、忠長、康勝 養子:職直(花房職秀の子) |
親族 |
榊原康政の逸話
- 榊原家は松平家の陪臣の家柄。三河仁木氏の一族と自称している
- 徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり
- 幼い頃より勉強熱心であった。また、達筆であった
- 本多忠勝とは同い年で仲が良かった
- 井伊直政とも仲が良かった
- 指揮官としての能力は、井伊直政とともに家中一の評価だった
- 隊旗には「無」の一字
- 松平信康を威圧したことがある
- 兄に清政がいるが、兄を差し置いて家督を相続している。理由は諸説ある
- 小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉の織田家乗っ取りを非難し、秀吉から10万石の賞金首とされた。が、後に秀吉は康政の態度や行動を称賛し和解している
- 元々が陪臣の家柄で立場が低かったため、家臣が少なく、館林10万石の運営は非常に困難であった
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師や家臣を派遣したが、回復には至らなかった。関ヶ原の戦いでの恩に報いる厚い待遇だった
榊原康政の生涯
- 1548年、生誕。13歳の時、徳川家康の小姓となる
- 1563年、三河一向一揆では、初陣を果たし、家康から「康」の字を与えられる
- 1566年、元服する。本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢される
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍を側面から激しく攻撃し大きな戦功を挙げる
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、浜松城撤退の前に、武田軍に奇襲を行い一矢報いる
- 1575年、長篠の戦いでは、武田家臣の名将・内藤昌豊の決死の突撃を本多忠勝とともに防ぎ徳川家康を守る
- 1581年、高天神城の戦いでは、先鋒を務める
- 1582年、徳川家康の伊賀越えに同行する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀次軍を壊滅させる
- 1586年、従五位下・式部大輔に叙位任官される
- 1590年、小田原攻めでは、先陣を務める。家康の関東移封の際、上野国館林10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、本多忠勝も同じく10万石を与えられた
- 1599年、宇喜多家中で派閥抗争が起きた際、宇喜多家臣の縁者を側室としていた関係で調停役として遣わされる。また前提として、政務実務能力の高さに定評があった
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の軍監として従軍する。秀忠の上田城攻撃の中止を進言する。本戦に遅参となり徳川家康は秀忠に激怒するが康政がとりなすことで収まる。秀忠からは大変な感謝をされたと伝わる
- 1603年、近江国5000石を在京料として加増される
- 1606年、毛嚢炎が悪化し死去する。享年59
井伊 直政(いい なおまさ)
生年 | 1561年 |
---|---|
没年 | 1602年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 上野高崎城 |
官位・役職 | 従五位下、従四位下・修理大夫、侍従 |
幼名 | 万千代 |
法名 | |
別名 | 虎松、松下虎松、井伊の赤鬼、人斬り兵部 |
井伊直政の家族構成
父 | 井伊直親 継父:松下清景 |
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母 | ひよ(奥山朝利の娘) 養母:井伊直虎(井伊直盛の娘) |
兄弟 | 吉直?、直政 |
正室 | 花(松平康親の娘、徳川家康の養女) |
側室 | 印具道重の娘 |
子 | 直勝、直孝 |
親族 |
井伊直政の逸話
- 井伊家は遠江国井伊谷を本貫とする領主の家柄。直政は徳川家中では外様である
- 徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり
- 大変な美男子であり、家康の寵童であったと伝わる
- 小姓の頃、大久保忠世に同僚や部下を思いやる大切さを諭されたことがある
- 心優しく、もてなしが丁寧であったため、外交役を多く任された
- 妻は家康の養女、花
- 恐妻家だった
- 榊原康政と仲が良かった
- 長宗我部元親と親交があった
- 秀吉の母、大政所から、大層気に入られていた
- 若い新参の直政は徳川家中での嫉妬は相当なものであった
- 関ヶ原の戦いでは、先陣の抜け駆けをしたと伝わるが賛否ある
井伊直政の生涯
- 1560年、桶狭間の戦いでは、井伊家当主・井伊直盛が戦死する
- 1561年、生誕
- 1562年、父・井伊直親が今川氏真に謀反の嫌疑をかけられ謀殺されると、直政も今川家より命を狙われる。紆余曲折を経て、1575年、家康に小姓として仕える
- 1581年、高天神城の戦いに参加し戦功を立てる
- 1582年、元服する。徳川伊賀越えに同行する。天正壬午の乱では、北条家との交渉役を任ぜれらる。徳川家が武田家を併呑すると、旗本先手役の侍大将となり、武田家臣の多くを麾下の置くこととなる。直政の軍は「井伊の赤備え」と呼ばれる
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、初めて赤備えを率いて戦功を立て、その名を内外に轟かせる。修理大夫に任官される
- 1585年、真田攻めを行った軍の撤退を指揮する
- 1586年、徳川家が豊臣家に臣従する。秀吉より従五位下に叙位され、豊臣姓を与えられる
- 1588年、聚楽第行幸の際、侍従に任官され、徳川家臣の中で唯一、昇殿を許される
- 1590年、小田原攻めでは、夜襲をかけ小田原城内に攻め込む。城内に入った唯一の将として高く評価される
- 1591年、九戸政実の乱では、先鋒を務める
- 1598年、豊臣秀吉が没すると、多数の豊臣系大名と交渉を行い、味方に引き入れることに成功する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、家康本陣に随行、本多忠勝とともに東軍の軍監に任ぜられる。また、稲葉貞道、加藤貞泰、京極高次、関一政、竹中重門、相良頼房、犬童頼兄を調略する。本戦終盤では島津豊久を討ち取るが、足を狙撃される。決戦後、負傷した身でありながら、戦後処理に尽力する。西軍総大将の毛利輝元との交渉役を任ぜられ、毛利家の周防、長門の安堵を取りまとめ、毛利家より厚い信任を受ける。また、島津家、真田家との交渉も行っている。これらの軍事的、外交的実績から、近江国佐和山18万石を与えられ、従四位下に叙位される
- 1602年、関ヶ原の戦いでの鉄砲傷が原因で死去する。享年42
私見
こういうタイプの方、会社にもいますね。若くてイケメンでめっちゃ仕事できて上司や取引先に気に入られる。同僚から嫌われる要素しかありません。おそらく相当な嫌がらせを受けたことだと思います。一見、華やかな人生に見えますが、悩みの多い人生だったのではないでしょうか
それでも屈せず、圧倒的な実績を作って家中で大出世を遂げる。素晴らしいですね
後世、人気が出るのも当然です
徳川十六神将
米津 常春(よねきつ つねはる)
生年 | 1524年 |
---|---|
没年 | 1612年 |
主君 | 松平広忠→徳川家康 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 藤蔵 |
米津常春の家族構成
父 | 米津勝政 |
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母 | |
兄弟 | 常春、政信 |
正室 | |
側室 | |
子 | 正勝、春親、春忠 |
親族 |
米津常春の逸話
- 米津家は松平家の譜代の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 生涯で戦功は18度、一番槍は13度、手傷73か所
- 3000石を領した
- 若い頃に眼病を患い、後年失明した
米津常春の生涯
- 生年不明
- 1549年、安城合戦では、織田信長の兄・織田信広を捕縛したといわれる
- 1560年、桶狭間の戦いでは丸根砦攻めの際に徳川家康の護衛を務める
- 1564年、赤坂の戦いに従軍する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従う
- 1612年、江戸にて死去する
高木 清秀(たかぎ きよひで)
生年 | 1526年 |
---|---|
没年 | 1610年 |
主君 | 水野信元→織田信秀→水野信元→織田信長→徳川家康 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | 善次郎 |
法名 | |
別名 | 主水助 |
高木清秀の家族構成
父 | 高木宣光 |
---|---|
母 | 酒井正信の娘 |
兄弟 | 清秀、清方 |
正室 | 水野元氏の娘 |
側室 | |
子 | 光秀、一吉、正次、守次 |
親族 |
高木清秀の逸話
- 徳川十六神将のひとり
- 石瀬合戦では石川数正と7度槍を交えたという
- 松永攻め、有岡攻めでも活躍したという
- 長篠の戦いでは武田家臣の猛将、真田昌輝と槍を合わせたと伝わる
高木清秀の生涯
- 1526年、生誕。はじめは水野信元に仕える
- 1548年、織田信秀家臣として第二次小豆坂の戦いで戦功をあげた。その後、再び水野信元に仕え、歴戦する
- 1563年、三河一向一揆では、水野信元に従い一揆勢と奮戦し、その功により徳川家康からも報償を与えられる
- 1574年、第三次伊勢長島攻めでは、嫡男・高木光秀を失うも、敵方の首魁である盛林坊を討ち取り武名を轟かせる
- 1575年、水野信元が武田内通により信長に誅殺されると、織田家臣・佐久間信盛の与力となる
- 1576年、大坂攻めでは、佐久間信盛に従い天王寺城に入り一揆勢と戦う
- 1580年、佐久間信盛が織田家より追放されると、織田家直臣となったと推察される
- 1582年、本能寺の変にて、信長が死去したのを契機に徳川家康の家臣となる
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍する
- 1590年、小田原攻めに従軍し、5000石を与えられる
- 1594年、家督を三男・高木正次に譲り、相模国海老名で隠居する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、隠居の身であったが、徳川秀忠に伺候し羽織を賜ったとされる
- 1610年、死去する。享年85
私見
変わった遍歴。めっちゃ強かったんでしょうね
内藤 正成(ないとう まさなり)
生年 | 1528年 |
---|---|
没年 | 1602年 |
主君 | 松平広忠→徳川家康 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | 四郎左衛門 |
法名 | |
別名 | 甚一郎 |
内藤正成の家族構成
父 | 内藤忠郷 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 忠村、正成、忠政 |
正室 | 石川十郎左衛門の娘 |
側室 | 牧野康成の娘 |
子 | 正貞、正成、本多正盛 |
親族 |
内藤正成の逸話
- 徳川十六神将のひとり
- 徳川家中随一の弓の使い手で、「軍神四郎左兵衛門」と畏怖された
- 一矢で2人を射抜いたことがあるという
- 武田家からも恐れられていた
- 武功に対して俸禄が少ないのは家中の文治派との政争に敗れたからと考えられる
- 本多忠勝を「かす」と罵ったことがある
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師、久志本右京亮常衡を付ける。破格の待遇であったが回復には至らなかった
内藤正成の生涯
- 1528年、生誕
- 1548年、第二次小豆坂の戦いで戦才をみせ、織田方200名を死傷させ戦局を左右させたと伝わる
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れに従軍する
- 1563年、三河一向一揆では、徳川家康に従い、自身の舅である石川氏を弓で射る。また、一揆方の勇将、渡辺高綱を討ち取る
- 1573年、三方ヶ原の戦いに従軍する
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国埼玉郡に5000石を与えられる
- 1602年、病のため死去する。享年75
大久保 忠世(おおくぼ ただよ)
生年 | 1532年 |
---|---|
没年 | 1594年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 相模小田原城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 新十郎、七郎右衛門 |
大久保忠世の家族構成
父 | 大久保忠員 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 忠世、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠教、忠元 |
正室 | 近藤幸正の娘 |
側室 | |
子 | 忠隣、忠基、忠成、忠高、忠永 |
親族 |
大久保忠世の逸話
- 大久保家は松平家の最古参の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 戦で崖から落とされたことがある。が、そのまま這い上がり敵兵3人を一度に切った
- 本多正信の帰参を助けた
- 月に7日間、絶食をし倹約に努めた
大久保忠世の生涯
- 1532年、生誕
- 1563年、三河一向一揆では、徳川家康に従い戦功を挙げる
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは、既に勝敗は決していたが、夜に武田軍の陣に銃撃を行い混乱に陥れ、武田信玄より賞賛されたと伝わる
- 1575年、長篠の戦いでは、弟・大久保忠佐とともに戦功を挙げ、織田信長から賞賛され、徳川家康からほら貝を与えられる。また、二俣城の城主に任ぜられる
- 1582年、本能寺の変後、徳川家康が甲斐、信濃を攻略すると、信州惣奉行として小諸城に在番する
- 1585年、上田合戦では、真田昌幸に大敗を喫する
- 1590年、徳川家康の関東移封の際、相模小田原4万5000石を与えられる
- 1594年、死去する。享年63
大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)
生年 | 1537年 |
---|---|
没年 | 1613年 |
主君 | 松平広忠→徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 上総茂原 |
官位・役職 | |
幼名 | 弥八郎 |
法名 | 道喜 |
別名 | 治右衛門 |
大久保忠佐の家族構成
父 | 大久保忠員 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 忠世、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠教、忠元 |
正室 | |
側室 | |
子 | 竹丸、忠兼 養子:青山宗祐(青山忠俊の子) |
親族 |
大久保忠佐の逸話
- 徳川十六神将のひとり
- 兄の忠世とともに、敵にまとわりつくという意味で、「膏薬」と賞された
- 戦場で傷を負ったことがない
- 息子2人が早世したため、後継ぎがおらず、沼津藩は改易となった
大久保忠佐の生涯
- 1537年、生誕
- 1572年、一言坂の戦いでは、本多忠勝と殿軍を務める
- 1575年、長篠の戦いで戦功を挙げる
- 1584年、小牧・長久手の戦いで戦功を挙げる
- 1590年、徳川家康の関東移封の際、上総国茂原5000石を与えられる
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従い、真田昌幸に翻弄される
- 1601年、駿河国沼津2万石を与えられ、沼津城を居城とする
- 1613年、死去。享年77
蜂屋 貞次(はちや さだつぐ)
生年 | 1539年 |
---|---|
没年 | 1564年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 三河六名城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 法心 |
別名 | 半之丞 |
蜂屋貞次の家族構成
父 | |
---|---|
母 | |
兄弟 | |
正室 | 大久保忠俊の娘 |
側室 | |
子 | 養子:源一郎 |
親族 |
蜂屋貞次の逸話
- 蜂屋家は美濃源氏の一族という
- 徳川十六神将のひとりとされる場合がある
蜂屋貞次の生涯
- 1539年、生誕
- 1560年、桶狭間の戦いでは、徳川家康に従って織田家臣・佐久間盛重の守る丸根砦を攻める。織田方の水野信元が侵攻してきた際、反撃して戦功を挙げる
- 1563年、徳川家康の吉田城攻めでは、渡辺守綱とともに戦功を挙げる。三河一向一揆では、渡辺守綱とともに一揆方に加勢する。徳川方の水野忠重と戦う
- 1564年、徳川家康に許され再び従属するが、第二次吉田城攻めで鉄砲で撃たれ負傷し戦死する。享年26
植村 家存(うえむら いえさだ)
生年 | 1541年 |
---|---|
没年 | 1577年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 栄政、家政、新六郎、出羽守 |
植村家存の家族構成
父 | 植村氏明 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 家次 |
親族 |
植村家存の逸話
- 植村家は土岐家の末裔と称する
- 徳川十六神将のひとりとされる場合がある
- 酒井忠次、石川家成、石川数正らとともに、家老、旗本先手役の立場にあった
- 上杉家、武田家に勇名が轟いていた
植村家存の生涯
- 1541年、生誕
- 1549年、徳川家康に仕える
- 1552年、父、植村氏明の死去に伴い家督を相続する
- 1562年、清州同盟の際、徳川家康の護衛で清州城に同行する。家康の刀を持って入室しようとし、織田方の警固役に咎められるが一喝し、織田信長から、前漢の猛将・樊噲に似ていると称賛され二振りの太刀を与えられる
- 1572年、織田家と上杉家の同盟の仲立ちを行い、上杉謙信から刀と具足を贈られる
- 1577年、死去する。享年37
鳥居 元忠(とりい もとただ)
生年 | 1539年 |
---|---|
没年 | 1600年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 下総矢作城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 彦右衛門尉 |
鳥居元忠の家族構成
父 | 鳥居忠吉 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 忠宗、本翁意伯、元忠、忠広 |
正室 | 松平家広の娘 |
側室 | 馬場信春の娘 |
子 | 康忠、忠政、成次、忠勝、忠頼、忠昌 |
親族 |
鳥居元忠の逸話
- 鳥居家は松平家の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 一説では、元忠の「元」の字は今川義元から偏諱を与えられたと考えられている
- 家康の三河統一後、旗本先手役に任ぜられた
- 散り様は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と賞賛された
- 元忠の子孫には問題を起こす者が2人いたが、いずれも元忠の勲功に免じて断絶は免れた
鳥居元忠の生涯
- 1539年、生誕
- 1551年、徳川家康が今川氏の人質時代に側近として仕える
- 1558年、寺部城攻めに従軍する
- 1570年、姉川の戦いに従軍する
- 1572年、家督を相続する
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、足を負傷し、障害が残る
- 1575年、長篠の戦いでは、石川数正とともに馬防柵を設営する
- 1581年、高天神城の戦いに従軍する
- 1582年、天正壬午の乱では、北条氏忠・氏勝軍1万を2000の兵で撃退する。戦後、甲斐都留郡与えられる
- 1585年、上田合戦では、真田昌幸に大敗する
- 1590年、小田原攻めに従軍する。家康の関東移封の際、下総矢作4万石を与えられる
- 1599年、領国矢作で検地を行う
- 1600年、伏見城の戦いでは、戦略上、囮とした伏見城を預かり、少ない手勢で西軍と奮戦し戦死する。享年62
鳥居 忠広(とりい ただひろ)
生年 | 不明 |
---|---|
没年 | 1573年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 直忠、四郎左衛門 |
鳥居忠広の家族構成
父 | 鳥居忠吉 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 忠宗、本翁意伯、元忠、忠広 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
鳥居忠広の逸話
- 徳川十六神将のひとり
鳥居忠広の生涯
- 生年不明
- 1563年、三河一向一揆では、一揆方に加勢し徳川家康に敵対する。戦後に帰参する
- 1573年、三方ヶ原の戦いで、殿軍を務め、武田二十四将の土屋昌続と一騎打ちの末、討ち取られる
渡辺 守綱(わたなべ もりつな)
生年 | 1542年 |
---|---|
没年 | 1620年 |
主君 | 徳川家康→徳川義直 |
拠点・知行 | 武蔵比企 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 忠右衛門、半蔵、槍半蔵 |
渡辺守綱の家族構成
父 | 渡辺高綱 |
---|---|
母 | 渡辺義綱の娘 |
兄弟 | 守綱、政綱 |
正室 | 平岩親重の娘 継室:岡部真幸の娘 |
側室 | |
子 | 重綱、宗綱、成綱 |
親族 |
渡辺守綱の逸話
- 三河渡辺家は松平家譜代の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 家康とは同い年
- 同じ半蔵である服部正成とよく引き合いに出される
渡辺守綱の生涯
- 1542年、生誕
- 1562年、三河国八幡の合戦では、殿軍で奮戦し、槍半蔵と呼ばれることとなる
- 1563年、三河一向一揆では、蜂屋貞次とともに一揆方に加勢するが敗北し、再び徳川家康に仕える
- 1570年、姉川の戦いでは旗本一番槍を挙げるなど戦功を重ねる
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、先鋒を務める
- 1575年、長篠の戦いでは先鋒を務める。山本勘助の嫡子・山本管助を討ち取る
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務める
- 1590年、徳川家康の関東移封の際、武蔵比企3000石を与えられる
- 1600年、長年の功績により1000石を加増。騎馬同心30人の給分6000石を付属させられ足軽100人の組頭となる
- 1608年、徳川家康の9男・義直の付家老に任ぜられ、尾張岩作5000石、三河寺部5000石を加増される。以降寺部城を居城とする
- 1614年、大坂冬の陣では徳川義直の後見として従軍する
- 1615年、大坂夏の陣でも徳川義直の後見として従軍する
- 1620年、名古屋にて死去する。享年79
平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)
生年 | 1542年 |
---|---|
没年 | 1612年 |
主君 | 徳川家康→徳川義直 |
拠点・知行 | 上野厩橋城 |
官位・役職 | 従五位下・主計頭 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 七之助 |
平岩親吉の家族構成
父 | 平岩親重 |
---|---|
母 | 天野貞親の娘 |
兄弟 | 正広、親吉、康重、康長 |
正室 | 石川正信の娘 |
側室 | |
子 | 伯耆守、堀隼人正重 養子:松平仙千代 |
親族 |
平岩親吉の逸話
- 平岩家は松平家の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 家康とは同い年
- 私欲が無く、豊臣秀吉からの黄金100枚の祝儀を受け取らなかった。本多忠勝と、井伊直政は受け取り、榊原康政は受け取るべきか家康に相談した
- 正直で、私心がなく、家中での人望は厚かった
- 親吉には嗣子がおらず、家康の8男、仙千代を養嗣子としてもらい受けたが、仙千代は1600年に夭折した
平岩親吉の生涯
- 1542年、生誕
- 1547年、徳川家康の小姓として駿府へ送られる
- 1558年、初陣を飾る
- その後、三河、遠江攻略で戦功を立て、徳川信康が元服すると傅役となる
- 1579年、松平信康が切腹すると、責任を感じ蟄居する。後年、徳川家康により直臣として復帰する
- 1576年、三河大樹寺にて、水野信元親子を誅殺する
- 1582年、本能寺の変後、甲斐国甲府城の築城を始める。また、甲斐の郡代を任じられる
- 1590年、小田原攻めで戦功を挙げる。徳川家康の関東移封の際、上野厩橋3万3000石を与えられる
- 1601年、甲斐甲府6万3000石に移封される
- 1603年、幼少の徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、代理として現地の統治を行う
- 1607年、徳川義直が尾張藩主となると附家老を任ぜられ藩政を執る。尾張犬山12万3000石に移封される
- 1611年、名古屋城にて死去する。享年70
服部 半蔵(はっとり はんぞう)
生年 | 1542年 |
---|---|
没年 | 1597年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 遠江 |
官位・役職 | 石見守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 正成、弥太郎、半三、鬼半蔵 |
服部半蔵の家族構成
父 | 服部保長 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 保元、保俊、保正、勘十郎、久太郎、半蔵、正刻 |
正室 | 長坂信政の娘 |
側室 | |
子 | 正就、正重、正廣、康成 |
親族 |
服部半蔵の逸話
- 服部家は松平家の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 本人は忍者ではない。また、伊賀忍者の頭領でもないが、忍者を思わせる戦闘術の使い手であった
- 同じ槍の名手として、よく渡辺守綱の引き合いに出される
- 父、保長が伊賀出身の忍者であったため、伊賀同心が徳川家に召し抱えられた際に統率する立場となった
- 伊賀同心は徳川家の直臣ではなく、服部家の家臣となることを不満に思っていた
服部半蔵の生涯
- 1542年、生誕
- 1548年、大樹寺に預けられる
- 1551年、出家を拒否。以後7年間の消息は不明
- 1557年、上ノ郷城を夜襲し戦功を挙げたと伝わるが、どのような戦功かは不明。この戦功により槍を拝領する
- 1560年の桶狭間の戦い以降、渡辺守綱と同じく、旗本馬廻衆に属する
- 1563年、三河一向一揆では、一向宗であるにも関わらず、徳川家康に従い一揆方と戦う
- 1569年、掛川城攻めに従軍する
- 1570年、姉川の戦いでは、若い将兵の育成を任される。また姉川堤で一番槍の戦功を立てる
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは、大須賀康高隊に属し一番槍の戦功を挙げる。戦には敗戦したが奮闘を称えられ槍二穂を拝領し、伊賀衆150人を預けられる
- 1574年、武田勝頼が遠江へ侵攻して来た際、板垣信通の家臣や小菅元成を迎撃している
- 1575年、長坂信政の娘を正室に迎える。高天神城攻めに従軍する
- 1579年、徳川信康が自刃に追い込まれた際、検使に遣わされる。介錯を命じられたが感情的に遂行できなかった。このことで、徳川家康からはより一層の信用を受けた
- 1582年、徳川家康の伊賀越えに同行し、先祖の縁から、伊賀・甲賀の土豪との交渉役を務める。一揆の襲撃に遭い家康を守り大怪我を負う。天正壬午の乱に従軍し、天神ヶ尾砦の陥落に功があり家康から賞賛される
- 1590年、小田原攻めでは、鉄砲奉行として従軍し18の首級を挙げる
- 1592年、肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する
- 1597年、病のため死去する。享年55
松平 康忠(まつだいら やすただ)
生年 | 1546年 |
---|---|
没年 | 1618年 |
主君 | 徳川家康→徳川信康→徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 源斎 |
別名 | 源七郎、上野介 |
松平康忠の家族構成
父 | 松平政忠 |
---|---|
母 | 碓井姫(松平清康の娘) |
兄弟 | |
正室 | 矢田姫(松平広忠の娘) 継室:松平信定の娘 |
側室 | |
子 | 康直、直隆、直宗、直之 養子:直信(松平忠直の子) |
親族 |
松平康忠の逸話
- 徳川十六神将のひとりとされる場合がある
- 松平張忠の子で同姓同名の武将がいる
松平康忠の生涯
- 1546年、生誕
- 1560年、桶狭間の戦いでは、父・松平政忠が戦死すると、母・碓井姫は酒井忠次と再嫁する
- 1562年、元服し三河国宝飯1810貫文の知行を受ける
- 1570年、姉川の戦いでは、義父・酒井忠次に属して従軍する
- 1575年、長篠の戦いでも、義父・酒井忠次に属して従軍し、長篠城を開放する
- 1579年時点では、徳川信康の家老であったが、信康の自刃により蟄居。後に許され徳川家康の直臣となる
- 1582年、徳川家康の伊賀越えに同行する
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍する
- 1588年、嫡子・松平康直に家督を譲り京都で隠居する
- 1593年、嫡子・松平康直が急逝すると、生後間もない家康の7男、松千代が康直の養子となる
- 1599年、松千代が6歳で夭折。松千代の兄・松平忠輝が後を継ぐ
- 1618年、死去する。享年73
松平 家忠(まつだいら いえただ)
生年 | 1555年 |
---|---|
没年 | 1600年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 武蔵忍城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 又八、又八郎、主殿助 |
松平家忠の家族構成
父 | 松平伊忠 |
---|---|
母 | 鵜殿長持の娘 |
兄弟 | 家忠、忠勝、伊長、玄成、松意 |
正室 | 水野忠分の娘 |
側室 | |
子 | 忠利、忠貞、忠一、忠重、忠隆 |
親族 |
松平家忠の逸話
- 徳川十六神将のひとりとされる場合がある
- 家忠の記した「家忠日記」は貴重な資料として現存している
- 忠吉の成人後は下総国小見川に移封された
松平家忠の生涯
- 1555年、生誕
- 1575年、長篠の戦いでは、父・酒井忠次に従い参加するが忠次が戦死し、家督を相続する。その後も主要な合戦には従軍するが、戦闘よりも、付城の普請などを担当することが多かった
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国埼玉1万石を与えられる。また、幼少の松平忠吉の忍城を預かる
- 1600年、伏見城の戦いで戦死する。享年46
三河徳川家の家臣
石川 数正(いしかわ かずまさ)
生年 | 1533年 |
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没年 | 1592年または1593年 |
主君 | 徳川家康→豊臣秀吉 |
拠点・知行 | 信濃深志城 |
官位・役職 | 従五位下・伯耆守 |
幼名 | 助四郎 |
法名 | 箇三寺 |
別名 | 康輝、吉輝、与七郎、伯耆守、出雲守 |
石川数正の家族構成
父 | 石川康正 |
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母 | 松平重吉の娘 |
兄弟 | 数正、小隼人 |
正室 | 内藤義清の娘 継室:松平家広の娘 |
側室 | |
子 | 成綱、康長、康勝、政令、康次、定政 |
親族 |
石川数正の逸話
石川数正の生涯
- 1533年、生誕。徳川家康が駿河・今川義元の人質となっていた頃から近侍として仕える
- 1560年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、徳川家康が独立すると、今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻す
- 1561年、徳川家康が織田信長と石ヶ瀬で争った際は先鋒を務める
- 1562年、織田信長と交渉し、清洲同盟成立に貢献する
- 1563年、三河一向一揆が起こると、父・石川康正は徳川家康を裏切るが、自身は浄土宗に改宗して家康に変わらず仕え、戦後に家康から家老に任じられる。また石川家の家督を叔父・石川家成から家康の命令で継ぐ。松平信康が元服するとその後見人となる
- 1569年、西三河の旗頭となる
- 1570年、姉川の戦いに従軍する
- 1572年、三方ヶ原の戦いに従軍する
- 1575年、長篠の戦いに従軍する
- 1579年、松平信康が切腹すると岡崎城代となる
- 1582年、本能寺の変後に羽柴秀吉の存在感が大きくなると徳川家康の命により、秀吉との交渉役を担う
- 1582年、小牧・長久手の戦いに従軍し、徳川家康に羽柴秀吉との和睦を進言する
- 1585年、この頃までに康輝と名乗る
- 同年、徳川家康から羽柴秀吉の下へ出奔し、家臣として仕える。この時通称を出雲守に改め、吉輝と改名し、出雲守吉輝を名乗る
- 1590年、小田原攻めで北条氏が滅亡すると豊臣秀吉より信濃松本10万石に加増移封される
- 1592年、もしくは1593年に死去する。享年60もしくは61
本多 正信(ほんだ まさのぶ)
生年 | 1538年 |
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没年 | 1616年 |
主君 | 徳川家康→松永久秀→徳川家康 |
拠点・知行 | 相模玉縄 |
官位・役職 | 従五位下・佐渡守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 正保、正行、弥八郎、本多佐渡 |
本多正信の家族構成
父 | 本多俊正 |
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母 | 松平清康の侍女? |
兄弟 | 正信、正重、青野重定、十助 |
正室 | 寿林尼 |
側室 | |
子 | 正純、政重、忠純 |
親族 |
本多正信の逸話
本多正信の生涯
- 1538年、生誕
- 1560年、桶狭間の戦いでは今川義元の命令で丸根砦を攻める徳川家康に従い、その戦いで膝に傷を受け、以後足を引きずるようになる
- 1563年、三河一向一揆が起きると一揆方として弟・本多正重と共に徳川家康と敵対し、一揆が鎮圧されると徳川家を出奔し加賀へ移り住む。
- 1570年、姉川の戦いの頃に、大久保忠世の仲介により徳川家に帰参する
- 1582年、この頃には徳川家康の信任を取り戻す
- 同年、本能寺の変が起き、徳川家康の伊賀越えに従う
- 同年、天正壬午の乱後に家康が旧武田領を併合すると奉行に任じられ、甲斐・信濃の統治を担当する
- 1586年、徳川家康が豊臣秀吉に服属したのに伴い秀吉の推薦で従五位下・佐渡守に叙任される
- 1590年、小田原攻めの後、徳川家康が関東に移ると相模玉縄で1万石の所領を与えられ大名となる
- 1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍勢に従う。戦後の軍議では長男・本多正純と共に結城秀康を支持することを表明する
- 1601年、徳川家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力する
- 1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと側近として仕える
- 1605年、徳川家康が隠居して大御所となり、徳川秀忠が第2代将軍になると、秀忠のもとで幕政に加わる
- 1607年、徳川秀忠付きの老中となる
- 1614年、徳川家康が死去すると家督を長男・本多正純に譲り、政務から離れ隠居し、そのまま死去する。享年79
夏目 広次(なつめ ひろつぐ)
生年 | 1518年 |
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没年 | 1573年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 三河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 正吉、吉信、廣次、次郎左衛門尉 |
夏目広次の家族構成
父 | 夏目吉久 |
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母 | 水野家の娘 |
兄弟 | 吉信、吉重 |
正室 | 松下之綱の娘 |
側室 | |
子 | 吉治、吉季、信次、吉忠、吉次 |
親族 |
夏目広次の逸話
夏目広次の生涯
- 1518年、生誕
- 1561年、三河長沢城攻めで戦功を挙げる
- 1562年、板倉重定を攻めた三州八幡合戦では今川家の攻撃で松平家康が窮地に陥った際は殿を務める
- 1563年、三河一向一揆では一揆方に付き、松平家康と敵対する。松平伊忠に捕らわれたが、乙部八兵衛の助命嘆願によって許され、伊忠が家康に請願して帰参を許される
- 同年、三河・遠江両国の郡代となる
- 1573年、三方ヶ原の戦いにおいて敗色が濃厚になると徳川家康を逃がすために、家康に扮して武田勢の追手に突入し戦死する。享年55