【安芸毛利家】毛利元就と家族・家臣一覧

    安芸毛利家のアイキャッチ画像

    謀神

    毛利 元就(もうり もとなり)

    毛利元就の肖像画
    出典:Wikipedia:紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵)
    生年1497年
    没年1571年
    主君安芸毛利家第12代当主
    拠点・知行安芸
    官位・役職従四位上、右馬頭、治部少輔、陸奥守、相伴衆
    幼名松寿丸
    法名
    別名少輔次郎、多治比殿、謀神

    家族構成

    毛利弘元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室妙玖(吉川国経の娘)
    側室乃美大方(乃美弘平の娘?)、三吉氏(三吉隆亮の妹)、中の丸(小幡元重の姉)
    隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    親族

    逸話

    生涯

    • 1497年、生誕
    • 1500年、多治比猿掛城へ住居を移す
    • 1506年、父弘元死去。家臣であった井上元盛に所領を奪われ、多治比猿掛城から放逐される。養母であった杉大方に育てられる
    • 1511年、兄興元の許しを得て元服。多治比元就を名乗って分家を立てる
    • 1516年、兄・毛利興元死去。毛利家の家督は興元の嫡男、幸松丸が継ぐが幼少のため、父方の叔父元就と母方の祖父高橋久光が後見役となる
    • 1517年、有田中井出の戦い。武田元繁が有田城を攻め、有田城の救援のため吉川元経や高橋弘厚と共に挙兵する。有田城下で元繁を討ち取る
    • 1523年、鏡山城の戦い。天野興定・平賀弘保を味方にして鏡山城を包囲する。しかしながら鏡山城は難攻不落な山城であり、攻略には苦心する。そこで鏡山城代・蔵田房信の叔父で事実上の城代である蔵田直信に蔵田家の家督を継がせることを条件に調略で鏡山城を攻略する
    • 同年、尼子経久の命令で幼少ながら鏡山城の戦いに参加させられていた幸松丸は体調が悪化し9歳で死去する。経久は毛利家を取り込むため孫・尼子豊久を幸松丸の養子にし、毛利家の家督を継がせようとするが、毛利家臣の反発に合う。毛利家重臣・志道広良らの推挙により家督を相続し以後、毛利元就を名乗る
    • 1524年、家督相続に不満を抱く坂氏・渡辺氏など家臣の一部が尼子経久の指示の下、異母弟の相合元網を擁立して反乱を起こす。しかしこの計画はあらかじめ放っていた忍により露見しており、家中を平定させるために首謀者を粛清する
    • 1525年、尼子氏との関係を断って大内義興に従属する
    • 1529年、以前尼子氏に通じて相合元網を擁立しようとした高橋興光を討伐し、高橋氏の持つ安芸から石見にかけての領土を支配下に収める
    • 1535年、備後・多賀山通続を降伏させる
    • 1537年、長男・毛利隆元を大内氏へ差し出し、嫡男を人質に出したことで大家氏から大きな信頼を得る
    • 1540年、吉田郡山城の戦い。尼子経久の後継者である尼子詮久率いる3万の軍勢に吉田郡山城を襲撃される。自軍はわずか3000ほどだったが、宍戸氏の援軍、遅れて参陣した大内義隆の家臣・陶隆房の奮闘もあって勝利する
    • 1542年、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する。だが吉川興経の裏切りや補給線・防衛線の寸断、富田城・塩谷口の戦いでの敗戦もあり、大内軍は敗走する。この敗走戦で息子・毛利隆元と共に殿を務め、絶体絶命に追い込まれるが家臣・渡辺通が身代わりとなって戦死すると危機を脱して安芸に帰還する
    • 1544年、竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出す
    • 1545年、妻である妙玖と養母の杉大方を相次いで亡くす
    • 1546年、隠居し嫡男・毛利隆元に家督を譲る
    • 1547年、正室・妙玖の実家である吉川家へ次男・毛利元春を養子に出す
    • 1550年、家中で横暴なふるまいをしていた井上元兼とその一族30名を粛清する。
    • その後すぐに家臣団に毛利家へ忠誠を誓う起請文に署名させる
    • 1553年、尼子方の江田氏の守る備後の高杉城、旗返山城を攻略し、尼子晴久の安芸への侵攻を撃退する
    • 1555年、厳島の戦い。村上水軍を味方につけ、陶晴賢を自刃に追い込んだ
    • 1556年、忍原崩れ。尼子晴久と小笠原長雄が大内方・山吹城を襲撃。迎撃に出るが、忍原で尼子晴久に敗れ石見銀山は尼子氏の所有となった
    • 1557年、防長経略。大内氏の内紛に乗じて、当主・大内義長を討ち大内氏を滅亡させる
    • 1562年、出雲への進行を開始する
    • 1563年、当主・毛利隆元が死去する。隆元の嫡男・幸鶴丸が家督を相続するが11歳だったため、後見人となり、政治・軍事を執行する二頭体制を敷く
    • 1566年、月山富田城に籠城した尼子義久に兵糧攻めを行い降伏させる
    • 大病を患い、将軍足利義輝の派遣した名医である曲直瀬道三の治療を受ける
    • 1569年、立花城の戦い。病にかかるものの、快方に向かったのを確認した上で出陣。これが生涯最後の出陣となる
    • 1571年、病のため吉田郡山城にて死去。享年75

    毛利元就の兄弟

    毛利 興元(もうり おきもと)

    生年1493年
    没年1516年
    主君安芸毛利家第10代当主
    拠点・知行安芸吉田郡山城
    官位・役職治部少輔
    幼名幸千代丸
    法名
    別名少輔太郎

    家族構成

    毛利弘元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室高橋久光の娘
    側室
    幸松丸
    親族

    逸話

    生涯

    相合 元綱(あいおう もとつな)

    生年不明
    没年1524年
    主君毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸船山城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名少輔三郎、相合四郎、今義経

    家族構成

    毛利広元
    相合大方
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室
    側室
    敷名元範
    親族

    逸話

    生涯

    北 就勝(きた なりかつ)

    生年不明
    没年1557年
    主君毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職式部少輔
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    毛利広元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室北之大方?
    側室
    養子:吉川元春(毛利元就の子)
    親族

    逸話

    生涯

    見付 元氏(みつけ もとうじ)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    毛利広元
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    三本の矢

    毛利 隆元(もうり たかもと)

    毛利隆元の肖像画
    出典:Wikipedia:毛利隆元像(常栄寺蔵)
    生年1523年
    没年1563年
    主君安芸毛利家第13代当主
    拠点・知行安芸吉田郡山
    官位・役職備中守、従四位下、大膳大夫、相伴衆、周防・長門・安芸・備後・備中守護
    幼名
    法名
    別名少輔太郎

    家族構成

    毛利元就
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室尾崎局(大内義隆の養女、内藤興盛の娘)
    側室
    輝元、徳鶴丸
    親族

    逸話

    生涯

    • 1523年、生誕
    • 1537年、大内氏へ人質として送られる
    • 同年、元服。主君・大家義隆から一字を譲られ、以後隆元を名乗る。嫡男を人質に出したことで毛利氏は大家氏から大きな信頼を得る
    • 1540年、大内義隆から吉田郡山城へ戻るのを許可される
    • 1542年、父・毛利元就と共に月山富田城攻めに参戦
    • 1546年、家督を相続し、毛利家第13代当主となる
    • 1549年、大内義隆の養女で、大内氏重臣の内藤興盛の娘・尾崎局と結婚する
    • 1550年、元就の主導で、領内で横暴を振るう井上元兼とその一族を粛清する
    • その後、毛利家の行政組織として隆元直属の五奉行制度が発足
    • 1555年、厳島の戦い。父と共に陶晴賢を自刃に追い込む
    • 1560年、諸町幕府第13代将軍・足利義輝により安芸の守護に任じられる
    • 同年、尼子晴久が急死すると幕府の仲介を利用し、豊後・大友宗麟と和議を結ぶ
    • 1562年、幕府から備中、備後、長門の守護に、翌1563年には周防の守護に任じられる
    • 1563年、尼子攻めに参加するための準備中、備後の国人である和智誠春に招かれもてなしを受ける。だが宿に戻った後に急病となり急死。享年41。死因は食傷とも毒殺ともいわれている

    吉川 元春(きっかわ もとはる)

    吉川元春の肖像画
    出典:Wikipedia:吉川元春像(早稲田大学図書館蔵)
    生年1530年
    没年1586年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸小倉山城
    官位・役職従四位下、治部少輔、駿河守
    幼名
    法名
    別名毛利元春、少輔次郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:吉川興経
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室新庄局(熊谷信直の娘)
    側室
    元長、繁沢元氏、広家、松寿丸
    親族

    逸話

    生涯

    • 1530年、吉田郡山城で生誕
    • 1540年、尼子晴久の侵攻による吉田郡山城の戦いで、元就の反対を押し切り元服前ながら出陣し、初陣を飾る
    • 1543年、兄である毛利隆元の名から元を賜り元春を名乗る
    • 1544年、実子のいない父の弟・北就勝と養子縁組をし、死後に所領を譲り受ける契約を行う
    • 1547年、自らの希望で熊谷信直の娘・新庄局と結婚
    • 同年、母方の従兄である吉川興経の養子となる
    • 1550年、父・毛利元就により養父・吉川興経が隠居させられ、元春が家督を継ぎ、吉川家当主となる。その際、吉川興経とその息子千法師は元就の調略で熊谷信直らに殺害される
    • 1555年、厳島の戦い。弟の小早川隆景と協力し、陶晴賢が率いる大内軍を撃退する
    • 1562年、病にかかるが、元就の命を受けた領内、京都の名医・大和晴元の治療を受ける
    • 1565年、第二次月山富田城の戦い。主力として参戦し、翌1566年に尼子義久を降伏させる
    • 1569年、布部山の戦い。尼子再興を誓う山中幸盛らと戦い撃破する
    • 同年、大内輝弘の乱。大友宗麟の下に身を寄せていた大内輝弘が周防国に進軍。これを迎え撃ち、輝弘を自害させる
    • 1571年、尼子勝久の末石城を攻略し勝久を敗走させる
    • 1577年、織田信長の命令で羽柴秀吉が播磨国に侵攻しこれを迎撃する
    • 1578年、上月城の戦い。尼子勝久を自刃に追い込む
    • 1582年、備中高松城の戦い。備中高松城が秀吉の侵攻を受けたため、毛利輝元・小早川隆景と共に援軍に向かう。戦線が膠着している間に本能寺の変が起きる。秀吉の本能寺の変を隠しながら行った調略で毛利側は疑心暗鬼になり、和睦を受諾する
    • 同年、家督を嫡男・吉川元長に譲り隠居
    • 1586年、九州平定。秀吉の要請を受け小早川隆景・毛利輝元の説得で参戦する。しかし病に蝕まれており、出征先の備前小倉城で死去。享年57

    小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)

    小早川隆景の肖像画
    出典:Wikipedia:小早川隆景像(広島県・米山寺蔵)
    生年1533年
    没年1597年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元→豊臣秀吉
    拠点・知行安芸高山城
    官位・役職中務大輔、左衛門佐、従五位下、侍従、従四位下、正四位下、従三位、参議、権中納言、中納言
    幼名毛利徳寿丸
    法名
    別名又四郎、筑前宰相、三原中納言

    家族構成

    毛利元就
    養父:小早川興景
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室問田大方(小早川正平の娘)
    側室
    養子:秀包(弟、毛利元就の子)、秀秋(豊臣秀吉の甥)
    親族

    逸話

    生涯

    • 1533年、吉田郡山城で生誕
    • 1541年、竹原小早川家当主の小早川興景が佐東銀山城攻め中に病死。興景には後継ぎが無かったため、竹原小早川家の重臣は隆景を養子に求める。大内義隆の後押しもあり、父・毛利元就は了承する
    • 1544年、竹原小早川家の当主となる
    • 1547年、神辺合戦。大内義隆の備後国神辺城攻めに従軍し、龍王山砦を小早川軍単独で落とすという戦功を挙げ初陣を飾る。またこの頃に元服し、兄・毛利隆元から元の字を与えられ元春と名乗る
    • 1550年、小早川本家の沼田小早川家の家中で病弱な当主小早川繫平派と隆景擁立派が対立する。大内義隆と毛利元就が共謀し、尼子氏との内通の疑いで繫平を隠居させる。その後繫平の妹・問田大方と婚姻し沼田小早川家の家督を継ぎ、沼田・竹原両小早川家を統合する
    • 1552年、新高山城の築城を開始する
    • 1555年、厳島の戦い。実兄の吉川元春と協力し、陶晴賢が率いる大内軍を撃退する
    • 1557年、防長経略に従軍し大内家を滅ぼす
    • 1563年、兄・毛利隆元が急死する。家督を継いだ幼少の甥・毛利輝元を兄・吉川元春と共に補佐する
    • 1566年、第二次月山富田城の戦い。宿敵だった尼子氏を滅亡させる
    • 1567年、毛利氏の伊予出兵。伊予国の大洲城を攻め、宇都宮豊綱を降伏させる
    • 1571年、備前児島を狙って兵を動かした浦上宗景と村上武吉と戦う。村上方の本太城を落とし、児島にも粟屋就方を送り込むが浦上宗景と三好氏配下・篠原長房により就方は敗北する
    • 1575年、三村元親が織田方と通じ、裏切ったため、討伐し、豊後・大友宗麟が織田信長と通じて攻め込んでくると水軍を指揮して戦う
    • 1576年、兄・吉川元春と共に、第二次信長包囲網の一角として織田方と戦い、第一次木津川口の戦いで、小早川水軍・村上水軍を主力とした毛利水軍が、織田信長の九鬼水軍を破る
    • 1578年、第二次木津川口の戦いで鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗北、制海権を失う
    • 1579年、辛川崩れ。備前・宇喜多直家が織田信長側へ裏切ったため総大将として備前辛川へ進軍するが、宇喜多忠家・戸川達安に敗北し撤退する
    • 同年、加茂崩れ。伊賀久隆の守る虎倉城を攻めるが、下加茂で奇襲を受け連敗する
    • 1580年、石山本願寺が信長と和睦し大阪から離れ、信長包囲網が崩れる
    • 1582年、備中高松城の戦い。備中高松城が秀吉の侵攻を受けたため、輝元、元春と共に援軍に向かう。戦線が膠着している間に本能寺の変が起きる。秀吉の本能寺の変を隠しながら行った調略で毛利側は疑心暗鬼になり、和睦を受諾する
    • 同年、新高山城から三原城に居城を移す
    • 1583年、秀吉に従属し、異母弟で養子・小早川元総を人質として差し出す
    • 1585年、秀吉から四国攻めの後、伊予国の拝領を約束される。
    • 1586年、九州征伐。戦後に秀吉から筑前、築後、肥前を与えられるが、既存の所領と合わせると、公役がうまく果たせないため辞退を望んだ。しかし認められず、結果として豊臣方に組み込まれる契機となった。
    • 1590年、小田原征伐。徳川家康の三河岡崎城を預かる
    • 1592年、朝鮮出兵・文禄の役に従軍し1593年、碧蹄館の戦いで明軍本隊を立花宗茂と共に撃退する
    • 1594年、秀吉の甥である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎える
    • 同年、秀俊と輝元の養女だった古満姫を婚姻させる
    • 1595年、従三位権中納言となる
    • 同年、小早川秀俊、改め小早川秀秋に家督を譲り、三原へ隠居する
    • 1597年、死去。享年65

    毛利元就の息子

    穂井田 元清(ほいだ もときよ)

    穂井田元清の肖像画
    出典:Wikipedia:来福寺所蔵
    生年1551年
    没年1597年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行備中猿掛城
    官位・役職伊予守、治部大輔、従四位、侍従
    幼名
    法名
    別名毛利元清、穂田元清、少輔四郎

    家族構成

    毛利元就
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室松渓妙寿(村上通康の娘)
    側室
    宮鶴丸、秀元、宮吉丸
    親族

    逸話

    生涯

    • 1551年、生誕
    • 1566年、元服する
    • 1568年、村上水軍との結びつきを強くする狙いもあり、村上通康の娘である松渓妙寿と婚姻する
    • 同年、宇喜多直家が裏切り、攻め落とされた松山城、猿掛城を父である元就の命令で三村元親と共に奪い返す
    • 1569年、大友氏との対立で発生した立花山城の戦い・門司城の戦い・多々良浜の戦いに相次いで出陣する
    • 1570年、安芸桜尾城を与えられる
    • 1571年、再度、庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共に攻め込み、庄高資を討ち取り、松山城を奪還する
    • 1574年、備中兵乱。毛利氏が敵対していた宇喜多直家と同盟を結んだため、宇喜多氏に恨みを持つ三村元親が離反する。この討伐に兄元春、隆景と共に出陣。翌1575年に元親を切腹に追い込み、さらに残党の残る杠城を攻め落とす。子の戦功により、猿掛城を預かる城番になり、居城を移す。この頃に猿掛城のあった穂田郷の名にちなんで穂井田姓を名乗る
    • 1576年、麦飯山の戦い。宇喜多基家と戦う
    • 1577年、児島の戦い。織田信長に通じた宇喜多直家を撃退する
    • 1578年、上月城の戦い。弟の天野元政と共に上月城を攻め落とす
    • 1582年、備中・鴨城で羽柴秀吉の軍勢と戦う
    • 同年、備中高松城の戦い。毛利氏は秀吉と和議を結び、以降は秀吉に従属した毛利氏の下で従軍する
    • 1585年、四国攻めに従軍する。
    • 同年、嫡男・毛利秀元が輝元の養子になったため、自身も名字を毛利に戻す
    • 1587年、九州平定に出陣する
    • 1589年、広島城の築城とその城下町の建設を二宮就辰と共に指揮する
    • 1591年、毛利輝元から一万二千石の知行地を与えられる
    • 1592年、朝鮮出兵。文禄の役では病に倒れた輝元に代わり毛利群の総大将を務める
    • 1597年、桜尾城にて死去。享年47

    毛利 元秋(もうり もとあき)

    生年1552年
    没年1585年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行出雲月山富田城
    官位・役職刑部大輔
    幼名
    法名
    別名椙杜元秋、富田元秋、少輔十郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:椙杜隆康
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室三沢為清の娘
    側室
    千満丸
    親族

    逸話

    生涯

    出羽 元倶(いずは もととも)

    生年1555年
    没年1571年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行石見出羽
    官位・役職
    幼名鶴法師丸
    法名
    別名孫四郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:出羽元祐
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    天野 元政(あまの もとまさ)

    天野元政の肖像画
    出典:Wikipedia
    生年1559年
    没年1609年
    主君毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下、掃部頭、讃岐守
    幼名毛利千虎丸
    法名宗休
    別名右田元政、少輔六郎、六郎左衛門尉

    家族構成

    毛利元就
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室天野元定の娘
    継室:阿曽沼広秀の娘、木梨隆盛の娘、長島氏の娘
    側室
    毛利元倶、天野元以、阿曽沼元理、天野元雅、天野就員、元嘉
    親族

    逸話

    生涯

    末次 元康(すえつぐ もとやす)

    生年1560年
    没年1601年
    主君毛利輝元
    拠点・知行出雲末次城
    官位・役職従五位下、兵部大輔、大蔵大輔
    幼名少輔七郎
    法名
    別名毛利元康、富田元康、七郎兵衛尉

    家族構成

    毛利元就
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室杉原盛重の娘
    継室:矢野局(吉見広頼の娘)
    側室心性院
    毛利元宣
    親族

    逸話

    生涯

    毛利 秀包(もうり ひでかね)

    毛利秀包の肖像画
    出典:Wikipedia:毛利秀包肖像(玄済寺所蔵)
    生年1567年
    没年1601年
    主君豊臣秀吉→毛利輝元
    拠点・知行伊予大津3万5千石
    官位・役職従四位下、筑後守、侍従
    幼名才菊丸
    法名
    別名大田元綱、小早川元総、秀直、秀兼、藤四郎、市正、内記

    家族構成

    毛利元就
    養父:大田秀綱、小早川隆景
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室桂姫(大友義鎮の娘)
    側室
    元鎮、元貞、小早川能久
    親族

    逸話

    生涯

    五大老・安芸中納言

    毛利 輝元(もうり てるもと)

    毛利輝元の肖像画
    出典:Wikipedia:絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
    生年1553年
    没年1625年
    主君安芸毛利家第14代当主
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下・右衛門督、 右馬頭、従四位下・ 侍従、参議、従三位・権中納言、相伴衆
    幼名幸鶴丸
    法名幻庵宗瑞
    別名少輔太郎、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言

    家族構成

    毛利隆元
    尾崎局(大内義隆の養女、内藤興盛の娘)
    兄弟輝元、徳鶴丸
    正室南の大方(宍戸隆家の娘)
    側室二の丸殿(宍戸隆家の娘)、於松(羽根山城守の娘)、於千(井上河内守就正の娘)、於鶴(花房太郎左衛門尉某の娘)、於さな(児玉小左衛門真友の娘)
    秀就、就隆
    養子:秀元(穂井田元清の子)
    親族

    逸話

    生涯

    • 1553年、生誕
    • 1563年、父・毛利隆元死去。家督を相続
    • 1565年、吉田郡山城で元服し毛利輝元と名乗る
    • 同年、月山富田城の戦いで初陣を飾る
    • 1569年、大内輝弘の乱。旧主家だった大内氏の生き残り大内輝弘が大友氏の支援を得て周防に侵入した
    • 1570年、大内輝弘の乱を鎮圧する
    • 同年、布部山の戦い。尼子氏を破り、山陰から駆逐する
    • 1572年、第15代将軍・足利義昭の仲介で備前・浦上宗景、宇喜田直家と和睦
    • 1573年、第15代将軍・足利義昭の推挙で朝廷より右馬頭に任命される
    • 1575年、芸但同盟成立。尼子氏を支援していた但馬の山名裕豊、堯熙父子との同盟を結ぶ
    • 1576年、第15代将軍・足利義昭が領内の備後・鞆へ移ってくる。織田家との同盟を破棄し、義昭から副将軍に任じられる
    • 同年、上杉謙信と本願寺が講和し、毛利氏、上杉氏、本願寺による三者同盟が成立。第三次信長包囲網を築く
    • 1578年、尼子氏残党が残る上月城を包囲し、降伏させる
    • 1579年、輝元が上洛を断念したことと、信長の懐柔により宇喜田直家が毛利家から離反する
    • 1580年、羽柴秀吉が播磨を平定し、播磨の毛利勢力は壊滅する
    • 1582年、八浜合戦。宇喜多基家を討ち取る
    • 同年、同盟を結んでいた武田勝頼が甲州で織田信長に敗れ自刃。上杉家の衰退も重なり、信長包囲網は崩壊する
    • 同年、本能寺の変。秀吉から信長の死は伏せたまま講和の申し出があり、秀吉から毛利側諸侯の大部分が調略を受けていると知らされ、講和を受けざるを得なくなる
    • 1583年、柴田勝家が近江へ進軍すると義昭から加勢するよう命じられるが吉川元春・小早川隆景の意見を尊重し事態を静観する。結果秀吉が勝利する
    • 1584年、秀吉の養子である羽柴秀勝と輝元の養女である内藤元種の娘の婚礼が大阪乗で行われる
    • 1585年、秀吉との国境画定に応じ、正式に講和する
    • 同年、秀吉の紀州攻めに協力し、毛利水軍を派遣、続いて四国攻めにも協力し先陣として小早川隆景らの軍勢を派遣する
    • 1586年、秀吉の九州攻めに参加する
    • 1588年、秀吉と聚楽第で対面。豊臣姓と羽柴の苗字を与えられ羽柴安芸宰相と称され秀吉に従属する
    • 1589年、広島城の築城を開始する
    • 1590年、秀吉が小田原征伐に向かうと京都の守備を任される
    • 1591年、秀吉から知行目録を与えられ、112万石の所領を賜る
    • 1592年、朝鮮出兵。渡海し、慶尚道において朝鮮軍と戦う
    • 1593年、朝鮮側の援軍である明との講和が進むと帰国
    • 1595年、徳川家康らとともに秀吉から五大老に任じられる
    • 同年、嫡嗣である秀就生誕する
    • 1597年、2度目の朝鮮出兵。壱岐まで向かうが病のため秀吉の命令で帰還する
    • 養子の秀元が代わりに渡海する
    • 1598年、伏見城に招かれ、秀吉から秀家の後見を任される
    • 同年、秀吉死去。秀吉の死後、大名間の政治的抗争が激しくなる
    • 輝元、家康ら五大老と、石田三成ら五奉行は起請文を交わし、事態を沈静化する
    • しかし、家康と五奉行の対立は続く
    • 1599年、前田利家の死後、福島正則、加藤清正らが石田三成を襲撃。三成から大阪に対するため尼崎方面に陣を構えるよう要請される。この件は三成が佐和山城へ隠居することで解決するが、調整には同じ五大老の上杉景勝、筆頭の徳川家康との調整が必要だった
    • 同年、家康と起請文を交わし、そこで家康を兄とすることで屈服する。その後、家康の介入で小早川隆景の遺領を含む所領の再分配が行われ秀元、広家と共にこれを受け入れる。しかし毛利家中の事情に家康が介入したことは遺恨を残す
    • 1600年、上杉景勝が上洛を断り、これを理由に家康が会津へ進軍。その後、三成が挙兵。さらに大阪の諸将もそれに続き、三成の画策と諸将の推挙により、家康に対抗する西軍の総大将となる
    • 同年、関ヶ原の戦い。吉川広家と小早川秀秋の裏切りもあり、1日で敗北。自身は吉川に抑えられ、合戦することなく大阪へ撤退。軍勢は無傷だったが家康からの講和の書状を受け、所領の維持を条件に合戦派の意見を押し切り、大阪からも撤退する
    • 同年、防長厳封。家康が大阪へ入った際、西軍の総大将として指揮していたことが明らかとなり、所領維持の約束を反故にされる。さらに改易と領地没収の上、吉川広家に毛利家の家督を継がせるよう迫られる。しかし、広家と井伊直政の上申により避けられる。結果、所領は周防、長門の二か国となり、自身は出家し、幻庵宗端と名乗り、家督を嫡男の秀就に譲る
    • 1601年、側近の一人だった張元至を、嫡男・毛利秀就の乳母と密通したとして切腹させる
    • 1603年、防長厳封後、初の帰国を許される
    • 1604年、萩城の築城を開始する
    • 1614年、大坂冬の陣。出陣するが、航海の疲労で病にかかったこともあり、さほど合戦に参加しないまま、徳川方と豊臣方は講和する
    • 1615年、大坂夏の陣。本多正純の依頼で息子・毛利秀元を先鋒を命じ、宍戸元続・毛利元倶・毛利元宣・毛利元鎮を従軍させる
    • 1616年、家中融和ために一人娘・竹姫を吉川広正に嫁がせる
    • 1617年、繁沢元景の仲介により、次男・毛利就隆と毛利秀元の長女・松菊子を婚約させ、1622年に婚姻させる
    • 1619年、上洛していた将軍、徳川秀忠に面会するため病身ながら萩城を発ち上洛する
    • 1623年、嫡男・毛利秀就が江戸から帰国すると正式に家督を譲る
    • 1625年、病のため死去。享年73

    毛利十八将

    福原 貞俊(ふくばら さだとし)

    福原貞俊の肖像画
    出典:Wikipedia:福原出羽守貞俊(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1512年または1519年
    没年1593年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職左近允、出羽守
    幼名
    法名
    別名弥五郎、内蔵人

    家族構成

    福原広俊
    兄弟貞俊、宮庄元正
    正室
    側室
    元俊、俊秋
    親族

    逸話

    生涯

    • 1512年、もしくは1519年、生誕
    • 1550年、毛利家に対する功績や実直な性格を元就に評価されて筆頭重臣の地位を与えられる
    • 1555年、防長経略。長門の且山城攻略時に内藤隆世と大内義長を自刃に追い込む
    • 1567年、伊予出兵に従軍する
    • 1569年、大内輝弘の乱に従軍する
    • 1571年、元就の死後は輝元を補佐し、元春、隆景、口羽通良と共に四人衆を務める
    • 1584年、高齢のために隠居し家督を嫡男である元俊に譲る
    • 1593年、死去。享年75または82

    口羽 通良(くちば みちよし)

    口羽通良の肖像画
    出典:Wikipedia:口羽刑部少輔通良(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1513年
    没年1582年
    主君毛利元就
    拠点・知行石見琵琶甲城
    官位・役職刑部大輔、下野守
    幼名志道才徳丸
    法名
    別名志道通良

    家族構成

    志道元良または志道広良
    兄弟志道広良?、通良
    正室福原広俊の娘
    側室
    広通、春良、元司、宗立
    親族

    逸話

    生涯

    • 1513年、生誕。最初は志道の名字を使っていたが、石見国邑智郡口羽村を与えられ、それから口羽を名乗る
    • 1534年、元就からの命令で塩治興久の処遇で尼子氏と溝が生まれた山内直通に近づく。その際に 通の字与えられ、以後通良を名乗る
    • 1557年、兄である志道広良が死去し、兄に代わって重用され主に吉川元春を支える
    • 1571年、毛利元就の没後は四人衆として輝元を補佐する
    • 1582年、死去。享年70

    宍戸 隆家(ししど たかいえ)

    宍戸隆家の肖像画
    出典:Wikipedia:宍戸安芸守隆家(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1518年
    没年1592年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下・安芸守
    幼名
    法名
    別名元家、弥三郎、左衛門尉

    家族構成

    宍戸元家
    山内直通の娘
    兄弟
    正室五龍局(毛利元就の娘)
    継室:小河内繁継の姉
    側室
    元秀
    親族

    逸話

    生涯

    児玉 就忠(こだま なりただ)

    児玉就忠の肖像画
    出典:Wikipedia:児玉三郎右衛門尉就忠(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1506年
    没年1562年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名小次郎、三郎右衛門

    家族構成

    児玉元実
    養父:児玉家行
    兄弟就兼、就忠、就方
    正室久芳賢直の娘
    側室
    元良、小方元信、春種、内藤元輔
    親族

    逸話

    生涯

    桂 元澄(かつら もとずみ)

    桂元澄の肖像画
    出典:Wikipedia:桂能登守元澄(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1500年
    没年1569年
    主君毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸桜尾城
    官位・役職左衛門尉、能登守
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    桂広澄
    兄弟元澄、元忠、就延、保和
    正室福原広俊の娘
    継室:志道広良の娘
    側室
    元延、元貞、元親、景信、広繁、元盛、元時
    親族

    逸話

    生涯

    粟屋 元秀(あわや もとひで)

    粟屋元秀の肖像画
    出典:Wikipedia:粟屋備前守元秀(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年不明
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名弥三郎、縫殿允、備前守

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    元宗
    親族

    逸話

    生涯

    志道 広良(しじ ひろよし)

    志道広良の肖像画
    出典:Wikipedia:志道上野介広良(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1467年
    没年1557年
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸志道城
    官位・役職
    幼名
    法名瑞如
    別名太郎三郎、上野介、大蔵少輔

    家族構成

    志道元良
    兄弟広良、口羽通良?
    正室
    側室
    広長、坂元貞、口羽通良?
    親族

    逸話

    生涯

    吉見 正頼(よしみ まさより)

    吉見正頼の肖像画
    出典:Wikipedia:吉見大蔵大輔正頼(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1513年
    没年1588年
    主君大内義興→大内義隆→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行石見三本松城
    官位・役職式部少輔、三河守、大蔵大輔、出羽守
    幼名
    法名周鷹
    別名四郎、式部四郎

    家族構成

    吉見頼興
    内藤弘矩の娘
    兄弟興成、隆頼、威俊、周信、正頼、頼盛、頼員、頼実、範弘、
    正室大宮姫(大内義興の娘)
    継室:内藤隆春の娘
    側室三井氏
    広頼、広正
    親族

    逸話

    生涯

    天野 隆重(あまの たかしげ)

    天野隆重の肖像画
    出典:Wikipedia:天野紀伊守隆重(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1503年
    没年1584年
    主君大内義興→大内義隆→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸金明山城
    官位・役職従五位下・中務少輔、紀伊守
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    天野元貞
    福原広俊の娘
    兄弟隆重、隆良
    正室井原元帥の娘
    継室:福原広俊の娘
    側室
    元明、武弘、元祐、元友、元嘉、元信
    親族

    逸話

    生涯

    国司 元相(こくし もとすけ)

    国司元相の肖像画
    出典:Wikipedia:国司右京亮元相(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1515年
    没年1592年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職右京亮、飛騨守
    幼名
    法名
    別名助六

    家族構成

    国司有相
    兄弟
    正室渡辺勝の娘
    継室:桂広澄の娘
    側室
    元武、元蔵、元貞
    親族

    逸話

    生涯

    粟屋 元親(あわや もとちか)

    生年不明
    没年1561年
    主君毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職縫殿允、右京亮、備前守
    幼名赤法師
    法名
    別名弥三郎、弥六

    家族構成

    粟屋元忠
    兄弟
    正室
    側室
    元著、元信、元如
    親族

    逸話

    生涯

    粟屋 元真(あわや もとざね)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    井上 元兼(いのうえ もとかね)

    井上元兼の肖像画
    出典:Wikipedia:井上河内守元兼(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1486年
    没年1550年
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職河内守
    幼名源太郎丸
    法名
    別名弥坂兵衛

    家族構成

    井上光兼
    村上隠岐守の娘
    兄弟元兼、元光、就良、元貞、就正
    正室
    側室
    就兼、就澄、光利
    親族

    逸話

    生涯

    飯田 元親(いいだ もとちか)

    飯田元親の肖像画
    出典:Wikipedia:飯田次郎四郎元親(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年1535年
    主君毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名四郎次郎

    家族構成

    児玉元良
    養父:飯田広親
    兄弟元親、元重
    正室
    側室
    元祐
    親族

    逸話

    生涯

    熊谷 信直(くまがい のぶなお)

    熊谷信直の肖像画
    出典:Wikipedia:熊谷伊豆守信直(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1507年
    没年1593年
    主君武田元繁→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行
    官位・役職兵庫頭、従五位下、伊豆守
    幼名千代寿丸
    法名
    別名次郎三郎

    家族構成

    熊谷元直
    宮光信の娘
    兄弟信直、直続
    正室伴好清の娘
    側室
    高直、直清、広真、三須隆経、就真
    親族

    逸話

    • Wikipediaでは征夷大将軍と紹介されている

    生涯

    赤川 元保(あかがわ もとやす)

    赤川元保の肖像画
    出典:Wikipedia:赤川左京亮元助(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年1567年
    主君毛利元就→毛利隆元
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名元助、左京亮

    家族構成

    赤川房信
    坂広秋の娘
    兄弟房景、元光、就秀、元保、元久、長沼元忠
    正室
    側室
    孫三郎
    養子:又三郎、元通
    親族

    逸話

    生涯

    渡辺 通(わたなべ かよう)

    渡辺通の肖像画
    出典:Wikipedia:渡辺太郎左衛門尉通(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1511年?
    没年1543年
    主君山内直通→毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名虎市
    法名
    別名太郎左衛門尉

    家族構成

    渡辺勝
    庄原元祐の娘?
    兄弟
    正室山内氏の乳母烏森の娘
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    渡辺 長(わたなべ はじめ)

    生年1543年
    没年1612年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行長門朝霞城
    官位・役職左衛門大夫、石見守、従五位下・飛騨守
    幼名虎法師
    法名
    別名小三郎

    家族構成

    渡辺通
    山内氏の乳母烏森の娘
    兄弟
    正室光永元方の娘
    側室
    元、宍戸元重、小五郎、四兵衛
    親族

    逸話

    生涯

    安芸毛利家の家臣

    清水 宗治(しみず むねはる)

    清水宗治の肖像画
    出典:Wikipedia:落合芳幾画
    生年1537年
    没年1582年
    主君石川久式→毛利輝元
    拠点・知行備中高松城
    官位・役職
    幼名才太郎
    法名
    別名長左衛門尉

    家族構成

    清水宗則
    兄弟宗知、宗治、難波宗忠
    正室石川久孝の娘
    側室
    宗之、景治、難波宗定
    親族

    逸話

    生涯

    • 1537年、生誕
    • 1582年、備中高松城の戦い。羽柴秀吉の中国攻めの際、高松城に籠城する。降伏すれば備中・備後を与えると言われるが応じず、毛利の援軍が到着したため、戦線は膠着する。秀吉から出された講和の条件が五ヵ国と自身の自刃であり、毛利方が拒み交渉が不成立になったと知る。これを知ると安国寺恵瓊に自身と兄・清水宗知、弟・難波宗忠、僚友・末近信賀4人の命と引き換えに和議を求める嘆願書を託し、3人と共に水上の船で切腹する。享年46