【安芸毛利家】毛利元就と家族・家臣一覧

    安芸毛利家のアイキャッチ画像

    謀神

    毛利 元就(もうり もとなり)

    毛利元就の肖像画
    出典:Wikipedia:紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵)
    生年1497年
    没年1571年
    主君安芸毛利家第12代当主
    拠点・知行安芸
    官位・役職従四位上、右馬頭、治部少輔、陸奥守、相伴衆
    幼名松寿丸
    法名
    別名少輔次郎、多治比殿、謀神

    家族構成

    毛利弘元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室妙玖(吉川国経の娘)
    側室乃美大方(乃美弘平の娘?)、三吉氏(三吉隆亮の妹)、中の丸(小幡元重の姉)
    隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    親族

    逸話

    • 越前・朝倉家の名将・朝倉宗滴の著書で今川義元・武田信玄らと共に高く評価されている
    • 尼子家が滅んだ後、中国地方を制覇するが、「天下を競望せず」と、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を表していた
    • 身分が低い者達まで親しく声をかけ、家臣・周辺国人を気遣っていた
    • 筆まめな人物であり、数多くの手紙を記している

    生涯

    • 1497年、生誕
    • 1500年、多治比猿掛城へ住居を移す
    • 1506年、父弘元死去。家臣であった井上元盛に所領を奪われ、多治比猿掛城から放逐される。養母であった杉大方に育てられる
    • 1511年、兄興元の許しを得て元服。多治比元就を名乗って分家を立てる
    • 1516年、兄・毛利興元死去。毛利家の家督は興元の嫡男、幸松丸が継ぐが幼少のため、父方の叔父元就と母方の祖父高橋久光が後見役となる
    • 1517年、有田中井出の戦い。武田元繁が有田城を攻め、有田城の救援のため吉川元経や高橋弘厚と共に挙兵する。有田城下で元繁を討ち取る
    • 1523年、鏡山城の戦い。天野興定・平賀弘保を味方にして鏡山城を包囲する。しかしながら鏡山城は難攻不落な山城であり、攻略には苦心する。そこで鏡山城代・蔵田房信の叔父で事実上の城代である蔵田直信に蔵田家の家督を継がせることを条件に調略で鏡山城を攻略する
    • 同年、尼子経久の命令で幼少ながら鏡山城の戦いに参加させられていた幸松丸は体調が悪化し9歳で死去する。経久は毛利家を取り込むため孫・尼子豊久を幸松丸の養子にし、毛利家の家督を継がせようとするが、毛利家臣の反発に合う。毛利家重臣・志道広良らの推挙により家督を相続し以後、毛利元就を名乗る
    • 1524年、家督相続に不満を抱く坂氏・渡辺氏など家臣の一部が尼子経久の指示の下、異母弟の相合元網を擁立して反乱を起こす。しかしこの計画はあらかじめ放っていた忍により露見しており、家中を平定させるために首謀者を粛清する
    • 1525年、尼子氏との関係を断って大内義興に従属する
    • 1529年、以前尼子氏に通じて相合元網を擁立しようとした高橋興光を討伐し、高橋氏の持つ安芸から石見にかけての領土を支配下に収める
    • 1535年、備後・多賀山通続を降伏させる
    • 1537年、長男・毛利隆元を大内氏へ差し出し、嫡男を人質に出したことで大家氏から大きな信頼を得る
    • 1540年、吉田郡山城の戦い。尼子経久の後継者である尼子詮久率いる3万の軍勢に吉田郡山城を襲撃される。自軍はわずか3000ほどだったが、宍戸氏の援軍、遅れて参陣した大内義隆の家臣・陶隆房の奮闘もあって勝利する
    • 1542年、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する。だが吉川興経の裏切りや補給線・防衛線の寸断、富田城・塩谷口の戦いでの敗戦もあり、大内軍は敗走する。この敗走戦で息子・毛利隆元と共に殿を務め、絶体絶命に追い込まれるが家臣・渡辺通が身代わりとなって戦死すると危機を脱して安芸に帰還する
    • 1544年、竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出す
    • 1545年、妻である妙玖と養母の杉大方を相次いで亡くす
    • 1546年、隠居し嫡男・毛利隆元に家督を譲る
    • 1547年、正室・妙玖の実家である吉川家へ次男・毛利元春を養子に出す
    • 1550年、家中で横暴なふるまいをしていた井上元兼とその一族30名を粛清する。
    • その後すぐに家臣団に毛利家へ忠誠を誓う起請文に署名させる
    • 1553年、尼子方の江田氏の守る備後の高杉城、旗返山城を攻略し、尼子晴久の安芸への侵攻を撃退する
    • 1555年、厳島の戦い。村上水軍を味方につけ、陶晴賢を自刃に追い込んだ
    • 1556年、忍原崩れ。尼子晴久と小笠原長雄が大内方・山吹城を襲撃。迎撃に出るが、忍原で尼子晴久に敗れ石見銀山は尼子氏の所有となった
    • 1557年、防長経略。大内氏の内紛に乗じて、当主・大内義長を討ち大内氏を滅亡させる
    • 1562年、出雲への進行を開始する
    • 1563年、当主・毛利隆元が死去する。隆元の嫡男・幸鶴丸が家督を相続するが11歳だったため、後見人となり、政治・軍事を執行する二頭体制を敷く
    • 1566年、月山富田城に籠城した尼子義久に兵糧攻めを行い降伏させる
    • 大病を患い、将軍足利義輝の派遣した名医である曲直瀬道三の治療を受ける
    • 1569年、立花城の戦い。病にかかるものの、快方に向かったのを確認した上で出陣。これが生涯最後の出陣となる
    • 1571年、病のため吉田郡山城にて死去。享年75

    毛利元就の兄弟

    毛利 興元(もうり おきもと)

    生年1493年
    没年1516年
    主君安芸毛利家第10代当主
    拠点・知行安芸吉田郡山城
    官位・役職治部少輔
    幼名幸千代丸
    法名
    別名少輔太郎

    家族構成

    毛利弘元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室高橋久光の娘
    側室
    幸松丸
    親族

    逸話

    • 当主を務めた期間で行った行動・政策は毛利元就の躍進の基盤固めになった

    生涯

    • 1493年、生誕
    • 1500年、父・毛利弘元が後の毛利元就となる興元の弟・松寿丸らを連れて多治比猿掛城に隠居したため、所領と家督を譲られ毛利家の当主となる
    • 1501年、母が死去する
    • 1506年、父・毛利弘元が死去し、名実ともに当主となると大内義興に3ヶ条の起請文を提出して大内家へ服属する態度を明確にすると、義興はから毛利家を粗雑に扱わないことを書状で約束される
    • 1507年、大内義興の加冠を受けて元服し、興の字を与えられて、興元と名乗る
    • 同年、大内義興が前将軍・足利義稙の元へ上洛する際、他の安芸の国人達と共に義興に従い上洛し翌1508年、京都へ入る
    • 1512年、同じ安芸の国人である天野興次・天野元貞・平賀弘保・小早川弘平・阿曽沼弘秀・高橋元光・野間興勝・吉川元経と共に5ヶ条の契約を結び、安芸国人一揆を結成する
    • 同年、小早川興平に起請文を送り、共同で備後の国人である山内家と木梨家の抗争の調停を行う
    • 1516年、宍戸元源・三吉致高と志和知長野城で戦う
    • 同年、宍戸元源と甲立で戦う
    • 同年、高橋家との戦い後、陣中で酒が原因で病死する。享年24

    相合 元綱(あいおう もとつな)

    生年不明
    没年1524年
    主君毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸船山城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名少輔三郎、相合四郎、今義経

    家族構成

    毛利広元
    相合大方
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室
    側室
    敷名元範
    親族

    逸話

    • 異母兄弟ながら年も近く毛利元就とは非常に仲が良かった

    生涯

    • 生年不明
    • 1517年、兄・毛利元就の要請で有田中井手の戦いに出陣し、毛利方の勝利に貢献する
    • 1523年、毛利家当主だった長兄・毛利興元の嫡男・幸松丸が死去すると、重臣・志道広良らの推挙で兄・毛利元就が家督を相続する
    • 1524年、毛利元就の家督相続に不満を持った坂広秀・渡辺勝らが元就打倒を計画し旗頭に担ぎ上げられる。しかし計画を察知した元就に討ち取られる。
    • 後に元就は息子たちに兄弟間の団結の重要性を説いた三子教訓状を送っているが、仲の良かった兄弟と争うことになった自身の経験が強く影響しているとされる

    北 就勝(きた なりかつ)

    生年不明
    没年1557年
    主君毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職式部少輔
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    毛利広元
    福原広俊の娘
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室北之大方?
    側室
    養子:吉川元春(毛利元就の子)
    親族

    逸話

    • 就勝の次男・毛利元忠から幕末の毛利元龍へと繋がる水戸藩毛利元龍家系が存在するが、つじつまの合わない部分があるため、史実性は低いとされている

    生涯

    • 生年不明、足が不自由であったため、常楽寺の僧侶となる
    • 1530年頃、毛利家臣として北氏の領を継ぎ、兄・毛利元就から就の偏諱を受け、北式部少輔就勝と名乗る
    • 1532年、毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を毛利元就に要請した連署起請文では、8番目に署名する
    • 1544年、子がなかったため、兄・毛利元就の次男・元春を養子に迎え、自らの死後に所領を譲る約束をする。しかし元春は吉川家の養子となることになり、北氏は就勝の代で断絶する
    • 1557年、死去する。元春との養子縁組は残っていたため、北氏は元春が相続する

    見付 元氏(みつけ もとうじ)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    毛利広元
    兄弟興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏
    正室
    側室
    親族

    逸話

    • 元氏の子・元正と孫・元綱は毛利輝元に仕えて世良の名字を与えられた

    生涯

    • 生年不明、異母兄・毛利元就に仕え、見付の名字を名乗り、後に吉岡の名字を与えられる
    • 1559年、兄・毛利元就から、父・毛利弘元の隠居領であった多治比・穂村・横田の300貫余りの地を与えられる
    • 没年不明

    三本の矢

    毛利 隆元(もうり たかもと)

    毛利隆元の肖像画
    出典:Wikipedia:毛利隆元像(常栄寺蔵)
    生年1523年
    没年1563年
    主君安芸毛利家第13代当主
    拠点・知行安芸吉田郡山
    官位・役職備中守、従四位下、大膳大夫、相伴衆、周防・長門・安芸・備後・備中守護
    幼名
    法名
    別名少輔太郎

    家族構成

    毛利元就
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室尾崎局(大内義隆の養女、内藤興盛の娘)
    側室
    輝元、徳鶴丸
    親族

    逸話

    • 温厚で誠実な性格で、絵画や仏典書写を愛する教養あふれる人物だった
    • 正室・尾崎局を深く愛し、生涯に渡って側室を持たなかった
    • 内政・財務能力に長けており、隆元の死後、毛利家の収入が落ち込む
    • 死後に明るみに出た縁の下の力持ちぶりを知って以降、自家を優先しがちだった吉川元春・小早川隆景も兄に対して敬服した

    生涯

    • 1523年、生誕
    • 1537年、大内氏へ人質として送られる
    • 同年、元服。主君・大家義隆から一字を譲られ、以後隆元を名乗る。嫡男を人質に出したことで毛利氏は大家氏から大きな信頼を得る
    • 1540年、大内義隆から吉田郡山城へ戻るのを許可される
    • 1542年、父・毛利元就と共に月山富田城攻めに参戦
    • 1546年、家督を相続し、毛利家第13代当主となる
    • 1549年、大内義隆の養女で、大内氏重臣の内藤興盛の娘・尾崎局と結婚する
    • 1550年、元就の主導で、領内で横暴を振るう井上元兼とその一族を粛清する
    • その後、毛利家の行政組織として隆元直属の五奉行制度が発足
    • 1555年、厳島の戦い。父と共に陶晴賢を自刃に追い込む
    • 1560年、諸町幕府第13代将軍・足利義輝により安芸の守護に任じられる
    • 同年、尼子晴久が急死すると幕府の仲介を利用し、豊後・大友宗麟と和議を結ぶ
    • 1562年、幕府から備中、備後、長門の守護に、翌1563年には周防の守護に任じられる
    • 1563年、尼子攻めに参加するための準備中、備後の国人である和智誠春に招かれもてなしを受ける。だが宿に戻った後に急病となり急死。享年41。死因は食傷とも毒殺ともいわれている

    吉川 元春(きっかわ もとはる)

    吉川元春の肖像画
    出典:Wikipedia:吉川元春像(早稲田大学図書館蔵)
    生年1530年
    没年1586年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸小倉山城
    官位・役職従四位下、治部少輔、駿河守
    幼名
    法名
    別名毛利元春、少輔次郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:吉川興経
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室新庄局(熊谷信直の娘)
    側室
    元長、繁沢元氏、広家、松寿丸
    親族

    逸話

    • 正室・新庄局は不器量と言われているが、夫婦仲は非常に良好であり側室は持たなかった。良妻賢母であり家臣からも慕われていた
    • 不敗とうたわれ家中随一の猛将だったが、尼子氏討伐の陣中で太平記を書写する教養も合わせ持っていた

    生涯

    • 1530年、吉田郡山城で生誕
    • 1540年、尼子晴久の侵攻による吉田郡山城の戦いで、元就の反対を押し切り元服前ながら出陣し、初陣を飾る
    • 1543年、兄である毛利隆元の名から元を賜り元春を名乗る
    • 1544年、実子のいない父の弟・北就勝と養子縁組をし、死後に所領を譲り受ける契約を行う
    • 1547年、自らの希望で熊谷信直の娘・新庄局と結婚
    • 同年、母方の従兄である吉川興経の養子となる
    • 1550年、父・毛利元就により養父・吉川興経が隠居させられ、元春が家督を継ぎ、吉川家当主となる。その際、吉川興経とその息子千法師は元就の調略で熊谷信直らに殺害される
    • 1555年、厳島の戦い。弟の小早川隆景と協力し、陶晴賢が率いる大内軍を撃退する
    • 1562年、病にかかるが、元就の命を受けた領内、京都の名医・大和晴元の治療を受ける
    • 1565年、第二次月山富田城の戦い。主力として参戦し、翌1566年に尼子義久を降伏させる
    • 1569年、布部山の戦い。尼子再興を誓う山中幸盛らと戦い撃破する
    • 同年、大内輝弘の乱。大友宗麟の下に身を寄せていた大内輝弘が周防国に進軍。これを迎え撃ち、輝弘を自害させる
    • 1571年、尼子勝久の末石城を攻略し勝久を敗走させる
    • 1577年、織田信長の命令で羽柴秀吉が播磨国に侵攻しこれを迎撃する
    • 1578年、上月城の戦い。尼子勝久を自刃に追い込む
    • 1582年、備中高松城の戦い。備中高松城が秀吉の侵攻を受けたため、毛利輝元・小早川隆景と共に援軍に向かう。戦線が膠着している間に本能寺の変が起きる。秀吉の本能寺の変を隠しながら行った調略で毛利側は疑心暗鬼になり、和睦を受諾する
    • 同年、家督を嫡男・吉川元長に譲り隠居
    • 1586年、九州平定。秀吉の要請を受け小早川隆景・毛利輝元の説得で参戦する。しかし病に蝕まれており、出征先の備前小倉城で死去。享年57

    小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)

    小早川隆景の肖像画
    出典:Wikipedia:小早川隆景像(広島県・米山寺蔵)
    生年1533年
    没年1597年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元→豊臣秀吉
    拠点・知行安芸高山城
    官位・役職中務大輔、左衛門佐、従五位下、侍従、従四位下、正四位下、従三位、参議、権中納言、中納言
    幼名毛利徳寿丸
    法名
    別名又四郎、筑前宰相、三原中納言

    家族構成

    毛利元就
    養父:小早川興景
    妙玖(吉川国経の娘)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室問田大方(小早川正平の娘)
    側室
    養子:秀包(弟、毛利元就の子)、秀秋(豊臣秀吉の甥)
    親族

    逸話

    • 豊臣秀吉から絶大な信頼を寄せられ、天下を任せられる人材と評され大名の家臣に過ぎなかったにも関わらず37万石が与えられる
    • 死後に親交のあった黒田孝高から「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆かれる
    • 風采に優れ、「容姿甚だ美なり」と「陰徳太平記」に記され、少年時代は大内義隆から大変好かれていたという

    生涯

    • 1533年、吉田郡山城で生誕
    • 1541年、竹原小早川家当主の小早川興景が佐東銀山城攻め中に病死。興景には後継ぎが無かったため、竹原小早川家の重臣は隆景を養子に求める。大内義隆の後押しもあり、父・毛利元就は了承する
    • 1544年、竹原小早川家の当主となる
    • 1547年、神辺合戦。大内義隆の備後国神辺城攻めに従軍し、龍王山砦を小早川軍単独で落とすという戦功を挙げ初陣を飾る。またこの頃に元服し、兄・毛利隆元から元の字を与えられ元春と名乗る
    • 1550年、小早川本家の沼田小早川家の家中で病弱な当主小早川繫平派と隆景擁立派が対立する。大内義隆と毛利元就が共謀し、尼子氏との内通の疑いで繫平を隠居させる。その後繫平の妹・問田大方と婚姻し沼田小早川家の家督を継ぎ、沼田・竹原両小早川家を統合する
    • 1552年、新高山城の築城を開始する
    • 1555年、厳島の戦い。実兄の吉川元春と協力し、陶晴賢が率いる大内軍を撃退する
    • 1557年、防長経略に従軍し大内家を滅ぼす
    • 1563年、兄・毛利隆元が急死する。家督を継いだ幼少の甥・毛利輝元を兄・吉川元春と共に補佐する
    • 1566年、第二次月山富田城の戦い。宿敵だった尼子氏を滅亡させる
    • 1567年、毛利氏の伊予出兵。伊予国の大洲城を攻め、宇都宮豊綱を降伏させる
    • 1571年、備前児島を狙って兵を動かした浦上宗景と村上武吉と戦う。村上方の本太城を落とし、児島にも粟屋就方を送り込むが浦上宗景と三好氏配下・篠原長房により就方は敗北する
    • 1575年、三村元親が織田方と通じ、裏切ったため、討伐し、豊後・大友宗麟が織田信長と通じて攻め込んでくると水軍を指揮して戦う
    • 1576年、兄・吉川元春と共に、第二次信長包囲網の一角として織田方と戦い、第一次木津川口の戦いで、小早川水軍・村上水軍を主力とした毛利水軍が、織田信長の九鬼水軍を破る
    • 1578年、第二次木津川口の戦いで鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗北、制海権を失う
    • 1579年、辛川崩れ。備前・宇喜多直家が織田信長側へ裏切ったため総大将として備前辛川へ進軍するが、宇喜多忠家・戸川達安に敗北し撤退する
    • 同年、加茂崩れ。伊賀久隆の守る虎倉城を攻めるが、下加茂で奇襲を受け連敗する
    • 1580年、石山本願寺が信長と和睦し大阪から離れ、信長包囲網が崩れる
    • 1582年、備中高松城の戦い。備中高松城が秀吉の侵攻を受けたため、輝元、元春と共に援軍に向かう。戦線が膠着している間に本能寺の変が起きる。秀吉の本能寺の変を隠しながら行った調略で毛利側は疑心暗鬼になり、和睦を受諾する
    • 同年、新高山城から三原城に居城を移す
    • 1583年、秀吉に従属し、異母弟で養子・小早川元総を人質として差し出す
    • 1585年、秀吉から四国攻めの後、伊予国の拝領を約束される。
    • 1586年、九州征伐。戦後に秀吉から筑前、築後、肥前を与えられるが、既存の所領と合わせると、公役がうまく果たせないため辞退を望んだ。しかし認められず、結果として豊臣方に組み込まれる契機となった。
    • 1590年、小田原征伐。徳川家康の三河岡崎城を預かる
    • 1592年、朝鮮出兵・文禄の役に従軍し1593年、碧蹄館の戦いで明軍本隊を立花宗茂と共に撃退する
    • 1594年、秀吉の甥である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎える
    • 同年、秀俊と輝元の養女だった古満姫を婚姻させる
    • 1595年、従三位権中納言となる
    • 同年、小早川秀俊、改め小早川秀秋に家督を譲り、三原へ隠居する
    • 1597年、死去。享年65

    毛利元就の息子

    穂井田 元清(ほいだ もときよ)

    穂井田元清の肖像画
    出典:Wikipedia:来福寺所蔵
    生年1551年
    没年1597年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行備中猿掛城
    官位・役職伊予守、治部大輔、従四位、侍従
    幼名
    法名
    別名毛利元清、穂田元清、少輔四郎

    家族構成

    毛利元就
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室松渓妙寿(村上通康の娘)
    側室
    宮鶴丸、秀元、宮吉丸
    親族

    逸話

    • 実母・乃美大方の老後を常に心配し、自身の弟達のことも気遣う温厚な人物だった
    • 毛利元就の側室から生まれた兄弟の中でも特に才覚に溢れた武将と言われた
    • 朝鮮出兵では虎を2頭生け捕りにして豊臣秀吉の下へ贈る
    • 兄弟の中では特に小早川隆景を信頼しており、死期を悟ると、同じく病床にあった隆景と共にどちらが先に死ぬかという会話を行い、その後まもなく隆景が亡くなり、1ヶ月後に自身も亡くなった

    生涯

    • 1551年、生誕
    • 1566年、元服する
    • 1568年、村上水軍との結びつきを強くする狙いもあり、村上通康の娘である松渓妙寿と婚姻する
    • 同年、宇喜多直家が裏切り、攻め落とされた松山城、猿掛城を父である元就の命令で三村元親と共に奪い返す
    • 1569年、大友氏との対立で発生した立花山城の戦い・門司城の戦い・多々良浜の戦いに相次いで出陣する
    • 1570年、安芸桜尾城を与えられる
    • 1571年、再度、庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共に攻め込み、庄高資を討ち取り、松山城を奪還する
    • 1574年、備中兵乱。毛利氏が敵対していた宇喜多直家と同盟を結んだため、宇喜多氏に恨みを持つ三村元親が離反する。この討伐に兄元春、隆景と共に出陣。翌1575年に元親を切腹に追い込み、さらに残党の残る杠城を攻め落とす。子の戦功により、猿掛城を預かる城番になり、居城を移す。この頃に猿掛城のあった穂田郷の名にちなんで穂井田姓を名乗る
    • 1576年、麦飯山の戦い。宇喜多基家と戦う
    • 1577年、児島の戦い。織田信長に通じた宇喜多直家を撃退する
    • 1578年、上月城の戦い。弟の天野元政と共に上月城を攻め落とす
    • 1582年、備中・鴨城で羽柴秀吉の軍勢と戦う
    • 同年、備中高松城の戦い。毛利氏は秀吉と和議を結び、以降は秀吉に従属した毛利氏の下で従軍する
    • 1585年、四国攻めに従軍する。
    • 同年、嫡男・毛利秀元が輝元の養子になったため、自身も名字を毛利に戻す
    • 1587年、九州平定に出陣する
    • 1589年、広島城の築城とその城下町の建設を二宮就辰と共に指揮する
    • 1591年、毛利輝元から一万二千石の知行地を与えられる
    • 1592年、朝鮮出兵。文禄の役では病に倒れた輝元に代わり毛利群の総大将を務める
    • 1597年、桜尾城にて死去。享年47

    毛利 元秋(もうり もとあき)

    生年1552年
    没年1585年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行出雲月山富田城
    官位・役職刑部大輔
    幼名
    法名
    別名椙杜元秋、富田元秋、少輔十郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:椙杜隆康
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室三沢為清の娘
    側室
    千満丸
    親族

    逸話

    • 元秋の死後間もなく元秋の子たちも死去したため、遺領は同母弟の末次元康に受け継がれる

    生涯

    • 1552年、生誕
    • 1556年、防長経略で大きな戦功を挙げた周防国人・椙杜隆康に子供が無かったため、父・毛利元就の命令で椙杜家の養子となる
    • 1568年、月山富田城への在番を任じられるが、この頃、毛利家が九州に出陣することになったため、月山富田城への入城は延期される
    • 1569年、尼子家再興を狙う山中幸盛・尼子勝久らによる出雲侵攻や、大内輝弘の乱が起きる
    • 1470年、毛利輝元を総大将とした毛利軍が出雲へ進軍すると、元秋も輝元に従い月山富田城を救援し尼子軍を討ち破る。戦後、月山富田城将を命じられ、椙杜家との養子縁組を解消し、毛利元秋または在名から富田元秋と名乗る
    • 1578年、播磨・別所長治が毛利家に服属したため、吉川元春と小早川隆景が先鋒として播磨へ出陣すると元春に従って進軍し上月城の戦いに加わる
    • 1585年、月山富田城で病死する。享年34

    出羽 元倶(いずは もととも)

    生年1555年
    没年1571年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行石見出羽
    官位・役職
    幼名鶴法師丸
    法名
    別名孫四郎

    家族構成

    毛利元就
    養父:出羽元祐
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室
    側室
    親族

    逸話

    • 後年、萩にある臨済宗南禅寺派・福源山徳隣寺において、150回忌、200回忌の法要が営まれた

    生涯

    • 1555年、生誕。石見邑智郡出羽二山城主・出羽元祐に嗣子が居なかったことから養子となる
    • 1571年、死去する。享年17
    • 元倶の死が、実父・毛利元就の僅か2ヶ月後の事だったため、在らぬ誤解を招くことを恐れて、継父・出羽元祐は毛利輝元に対して起請文を記し、毛利家への忠節を改めて誓った

    天野 元政(あまの もとまさ)

    天野元政の肖像画
    出典:Wikipedia
    生年1559年
    没年1609年
    主君毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下、掃部頭、讃岐守
    幼名毛利千虎丸
    法名宗休
    別名右田元政、少輔六郎、六郎左衛門尉

    家族構成

    毛利元就
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室天野元定の娘
    継室:阿曽沼広秀の娘、木梨隆盛の娘、長島氏の娘
    側室
    毛利元倶、天野元以、阿曽沼元理、天野元雅、天野就員、元嘉
    親族

    逸話

    • 兄弟の中でも特に同母兄・穂井田元清と仲が良かった
    • 元清は異母兄・小早川隆景に絶大な信頼を寄せており、「困ったことがあったら、何事も景さまに相談するように」と元政に話していた

    生涯

    • 1559年、生誕
    • 1569年、生城山天野家当主・天野元定が死去した際、天野家で家督争いが起きると、父・毛利元就がこの内紛に介入し、元政を元定の婿養嗣子として家督を継がせることで、事態を収拾する
    • 1578年、実兄・穂井田元清と共に上月城の戦いに従軍し、上月城を落城させる大きな戦功を挙げる
    • 1596年、豊臣秀吉から豊臣姓を与えられる
    • 1592年、文禄の役に従軍する
    • 1597年、慶長の役に従軍する
    • 1600年、関ヶ原の戦いに従軍する
    • 1603年、毛利姓に戻り、周防熊毛郡三丘に移る
    • 1605年、萩城築城を巡る家中の争いの際は、天野元信・益田元祥の言い分を調べて、毛利輝元に報告する
    • 1609年、萩にて死去する。享年51

    末次 元康(すえつぐ もとやす)

    生年1560年
    没年1601年
    主君毛利輝元
    拠点・知行出雲末次城
    官位・役職従五位下、兵部大輔、大蔵大輔
    幼名少輔七郎
    法名
    別名毛利元康、富田元康、七郎兵衛尉

    家族構成

    毛利元就
    三吉氏(三吉隆亮の妹)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室杉原盛重の娘
    継室:矢野局(吉見広頼の娘)
    側室心性院
    毛利元宣
    親族

    逸話

    • 毛利輝元が広島城築城の際に架橋され、現在も広島市内に架かる元安橋は元康の名にちなんで命名された

    生涯

    • 1560年、生誕
    • 1578年、兄・吉川元春に従い因幡・宮石城を攻め初陣を飾る
    • 1585年、毛利家の四国攻めの際、南条直秀に伯耆・河原山城を奪われるが、奪還する戦功を挙げる
    • 同年、急死した実兄・毛利元秋の家督を継ぎ、出雲・月山富田城主となる
    • 1591年、豊臣秀吉により、吉川家当主・吉川広家が月山富田城主に任じられたため、備後・神辺城へ移る
    • 1592年、文禄・慶長の役に主君・毛利輝元の名代として従軍する
    • 1595年、従五位下・大蔵大輔に任じられ、豊臣姓を与えられる
    • 1598年、王子山城を築城し居城を神辺城から移す
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは京極高次の大津城を攻め、降伏させるが本戦には間に合わなかった
    • 1601年、大坂木津で病死する。享年42

    毛利 秀包(もうり ひでかね)

    毛利秀包の肖像画
    出典:Wikipedia:毛利秀包肖像(玄済寺所蔵)
    生年1567年
    没年1601年
    主君豊臣秀吉→毛利輝元
    拠点・知行伊予大津3万5千石
    官位・役職従四位下、筑後守、侍従
    幼名才菊丸
    法名
    別名大田元綱、小早川元総、秀直、秀兼、藤四郎、市正、内記

    家族構成

    毛利元就
    養父:大田秀綱、小早川隆景
    乃美大方(乃美弘平の娘?)
    兄弟隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
    正室桂姫(大友義鎮の娘)
    側室
    元鎮、元貞、小早川能久
    親族

    逸話

    • 小早川隆景が秀包を養子としたのは、父・毛利元就の武勇を兄・吉川元春と並び最も受け継いでいたためだと言われている
    • 容儀端正の美少年かつ勇猛壮健と評された
    • 鉄砲術に長けていた

    生涯

    • 1567年、生誕
    • 1571年、父・毛利元就から備後・戸坂家の遺領と遺民を与えられる
    • 同年、備後国人・大田英綱が死去するとその家臣・平対馬守と渡辺河内守に懇願されて大田家の後継者となり、大田元綱を名乗る
    • 1579年、母・乃美大方が小早川家庶流の乃美家の出身である縁から兄・小早川隆景の養子となり、元服すると小早川元総と名乗る
    • 1583年、人質として甥・吉川広家と共に羽柴秀吉の下に送られた際に秀の字を賜り、秀包と改名する
    • 1584年、羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦いに従軍する
    • 同年、同じく秀吉に従い竹鼻城攻めに従軍する
    • 1585年、河内に1万石を与えられる
    • 同年、四国攻めで金子元宅を破ると、続いて長宗我部元親の家臣・花房親兵衛を討ち取る。更に伊予金子城を攻略する戦功を挙げ、伊予宇和郡大津城で3万5千石を与えられる
    • 1586年、九州攻めでは養父・小早川隆景に従い豊前小倉城・宇留津城・香春嶽城を攻略し、戦功を挙げる
    • 1587年、久留米城を築城し居城とする
    • 同年、肥後国人一揆が起きると討伐軍の総大将として出陣し、立花宗茂と共に戦功を挙げる。またこの戦いで宗茂と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ
    • 1588年、豊臣秀吉から立花宗茂と共に羽柴氏を名乗ることを許される
    • 1589年、侍従に任官されると同時に豊臣姓が下賜され、以後は羽柴久留米侍従と呼ばれるようになる
    • この頃、大友宗麟の娘・桂姫を正室に迎えるとその縁で洗礼を受け、洗礼名をシマオとする
    • 1591年、大友家の依頼で高良山座主麟圭・了巴父子を謀殺し、城下に天主堂を建設する
    • 1592年、文禄の役で渡海し、全羅道攻略や碧蹄館の戦い・幸州山城の戦いで戦功を挙げると、筑後久留米13万石となり、筑後守に叙任される
    • 1594年、豊臣秀吉の養子で後の小早川秀秋となる木下秀俊が小早川隆景の養子となったために廃嫡され、別家を創設する
    • 1597年、慶長の役でも渡海し、竹島城・星州谷城の戦いで戦功を挙げる
    • 1598年、豊臣秀吉の死去に伴い撤退命令が下るが、順天倭城で小西行長らが海上を封鎖され撤退を阻まれていることを知ると、立花宗茂・高橋直次・島津義弘らと共に救援に向かう
    • 1599年、秀直と改名する
    • 1600年、秀兼と改名する
    • 同年、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、京極高次の守る大津城を兄の末次元康や立花宗茂らと共に攻め、落城させる
    • しかし、小早川秀秋や吉川広家の裏切りもあり、西軍が敗れると大阪城へ帰還する
    • また、久留米城も黒田如水・鍋島直茂に攻められており、娘・於佐手が黒田家の人質となり、正室の桂姫や嫡男の毛利元鎮は長門豊浦郡川棚へと移る
    • 関ヶ原の戦い後は改易され、毛利輝元より長門に所領を与えられる
    • また小早川秀秋の裏切りに伴う誹謗中傷を避けるため、小早川姓を捨てて毛利姓に戻り、大徳寺で剃髪して玄済道叱と名乗る
    • 1601年、大坂から帰国する途中で発病し、回復せず病死する。享年35

    五大老・安芸中納言

    毛利 輝元(もうり てるもと)

    毛利輝元の肖像画
    出典:Wikipedia:絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
    生年1553年
    没年1625年
    主君安芸毛利家第14代当主
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下・右衛門督、 右馬頭、従四位下・ 侍従、参議、従三位・権中納言、相伴衆
    幼名幸鶴丸
    法名幻庵宗瑞
    別名少輔太郎、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言

    家族構成

    毛利隆元
    尾崎局(大内義隆の養女、内藤興盛の娘)
    兄弟輝元、徳鶴丸
    正室南の大方(宍戸隆家の娘)
    側室二の丸殿(宍戸隆家の娘)、於松(羽根山城守の娘)、於千(井上河内守就正の娘)、於鶴(花房太郎左衛門尉某の娘)、於さな(児玉小左衛門真友の娘)
    秀就、就隆
    養子:秀元(穂井田元清の子)
    親族

    逸話

    • 祖父・毛利元就に溺愛されていた
    • 自身も元就に絶大な信頼を寄せており、元就が隠居を考えた際、説得して断念させ元就は死ぬまで後見を務めた
    • 関ヶ原の戦い後、毛利家は財政的にも危機に陥るが、内政面で優れた実力を発揮し、その危機を見事に切り抜け、長州藩の藩祖となる

    生涯

    • 1553年、生誕
    • 1563年、父・毛利隆元死去。家督を相続
    • 1565年、吉田郡山城で元服し毛利輝元と名乗る
    • 同年、月山富田城の戦いで初陣を飾る
    • 1569年、大内輝弘の乱。旧主家だった大内氏の生き残り大内輝弘が大友氏の支援を得て周防に侵入した
    • 1570年、大内輝弘の乱を鎮圧する
    • 同年、布部山の戦い。尼子氏を破り、山陰から駆逐する
    • 1572年、第15代将軍・足利義昭の仲介で備前・浦上宗景、宇喜田直家と和睦
    • 1573年、第15代将軍・足利義昭の推挙で朝廷より右馬頭に任命される
    • 1575年、芸但同盟成立。尼子氏を支援していた但馬の山名裕豊、堯熙父子との同盟を結ぶ
    • 1576年、第15代将軍・足利義昭が領内の備後・鞆へ移ってくる。織田家との同盟を破棄し、義昭から副将軍に任じられる
    • 同年、上杉謙信と本願寺が講和し、毛利氏、上杉氏、本願寺による三者同盟が成立。第三次信長包囲網を築く
    • 1578年、尼子氏残党が残る上月城を包囲し、降伏させる
    • 1579年、輝元が上洛を断念したことと、信長の懐柔により宇喜田直家が毛利家から離反する
    • 1580年、羽柴秀吉が播磨を平定し、播磨の毛利勢力は壊滅する
    • 1582年、八浜合戦。宇喜多基家を討ち取る
    • 同年、同盟を結んでいた武田勝頼が甲州で織田信長に敗れ自刃。上杉家の衰退も重なり、信長包囲網は崩壊する
    • 同年、本能寺の変。秀吉から信長の死は伏せたまま講和の申し出があり、秀吉から毛利側諸侯の大部分が調略を受けていると知らされ、講和を受けざるを得なくなる
    • 1583年、柴田勝家が近江へ進軍すると義昭から加勢するよう命じられるが吉川元春・小早川隆景の意見を尊重し事態を静観する。結果秀吉が勝利する
    • 1584年、秀吉の養子である羽柴秀勝と輝元の養女である内藤元種の娘の婚礼が大阪乗で行われる
    • 1585年、秀吉との国境画定に応じ、正式に講和する
    • 同年、秀吉の紀州攻めに協力し、毛利水軍を派遣、続いて四国攻めにも協力し先陣として小早川隆景らの軍勢を派遣する
    • 1586年、秀吉の九州攻めに参加する
    • 1588年、秀吉と聚楽第で対面。豊臣姓と羽柴の苗字を与えられ羽柴安芸宰相と称され秀吉に従属する
    • 1589年、広島城の築城を開始する
    • 1590年、秀吉が小田原征伐に向かうと京都の守備を任される
    • 1591年、秀吉から知行目録を与えられ、112万石の所領を賜る
    • 1592年、朝鮮出兵。渡海し、慶尚道において朝鮮軍と戦う
    • 1593年、朝鮮側の援軍である明との講和が進むと帰国
    • 1595年、徳川家康らとともに秀吉から五大老に任じられる
    • 同年、嫡嗣である秀就生誕する
    • 1597年、2度目の朝鮮出兵。壱岐まで向かうが病のため秀吉の命令で帰還する
    • 養子の秀元が代わりに渡海する
    • 1598年、伏見城に招かれ、秀吉から秀家の後見を任される
    • 同年、秀吉死去。秀吉の死後、大名間の政治的抗争が激しくなる
    • 輝元、家康ら五大老と、石田三成ら五奉行は起請文を交わし、事態を沈静化する
    • しかし、家康と五奉行の対立は続く
    • 1599年、前田利家の死後、福島正則、加藤清正らが石田三成を襲撃。三成から大阪に対するため尼崎方面に陣を構えるよう要請される。この件は三成が佐和山城へ隠居することで解決するが、調整には同じ五大老の上杉景勝、筆頭の徳川家康との調整が必要だった
    • 同年、家康と起請文を交わし、そこで家康を兄とすることで屈服する。その後、家康の介入で小早川隆景の遺領を含む所領の再分配が行われ秀元、広家と共にこれを受け入れる。しかし毛利家中の事情に家康が介入したことは遺恨を残す
    • 1600年、上杉景勝が上洛を断り、これを理由に家康が会津へ進軍。その後、三成が挙兵。さらに大阪の諸将もそれに続き、三成の画策と諸将の推挙により、家康に対抗する西軍の総大将となる
    • 同年、関ヶ原の戦い。吉川広家と小早川秀秋の裏切りもあり、1日で敗北。自身は吉川に抑えられ、合戦することなく大阪へ撤退。軍勢は無傷だったが家康からの講和の書状を受け、所領の維持を条件に合戦派の意見を押し切り、大阪からも撤退する
    • 同年、防長厳封。家康が大阪へ入った際、西軍の総大将として指揮していたことが明らかとなり、所領維持の約束を反故にされる。さらに改易と領地没収の上、吉川広家に毛利家の家督を継がせるよう迫られる。しかし、広家と井伊直政の上申により避けられる。結果、所領は周防、長門の二か国となり、自身は出家し、幻庵宗端と名乗り、家督を嫡男の秀就に譲る
    • 1601年、側近の一人だった張元至を、嫡男・毛利秀就の乳母と密通したとして切腹させる
    • 1603年、防長厳封後、初の帰国を許される
    • 1604年、萩城の築城を開始する
    • 1614年、大坂冬の陣。出陣するが、航海の疲労で病にかかったこともあり、さほど合戦に参加しないまま、徳川方と豊臣方は講和する
    • 1615年、大坂夏の陣。本多正純の依頼で息子・毛利秀元を先鋒を命じ、宍戸元続・毛利元倶・毛利元宣・毛利元鎮を従軍させる
    • 1616年、家中融和ために一人娘・竹姫を吉川広正に嫁がせる
    • 1617年、繁沢元景の仲介により、次男・毛利就隆と毛利秀元の長女・松菊子を婚約させ、1622年に婚姻させる
    • 1619年、上洛していた将軍、徳川秀忠に面会するため病身ながら萩城を発ち上洛する
    • 1623年、嫡男・毛利秀就が江戸から帰国すると正式に家督を譲る
    • 1625年、病のため死去。享年73

    毛利十八将

    福原 貞俊(ふくばら さだとし)

    福原貞俊の肖像画
    出典:Wikipedia:福原出羽守貞俊(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1512年または1519年
    没年1593年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職左近允、出羽守
    幼名
    法名
    別名弥五郎、内蔵人

    家族構成

    福原広俊
    兄弟貞俊、宮庄元正
    正室
    側室
    元俊、俊秋
    親族

    逸話

    • 福原家には広俊・貞俊・元俊を名乗った当主が複数人存在する

    生涯

    • 1512年、もしくは1519年、生誕
    • 1550年、毛利家に対する功績や実直な性格を元就に評価されて筆頭重臣の地位を与えられる
    • 1555年、防長経略。長門の且山城攻略時に内藤隆世と大内義長を自刃に追い込む
    • 1567年、伊予出兵に従軍する
    • 1569年、大内輝弘の乱に従軍する
    • 1571年、元就の死後は輝元を補佐し、元春、隆景、口羽通良と共に四人衆を務める
    • 1584年、高齢のために隠居し家督を嫡男である元俊に譲る
    • 1593年、死去。享年75または82

    口羽 通良(くちば みちよし)

    口羽通良の肖像画
    出典:Wikipedia:口羽刑部少輔通良(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1513年
    没年1582年
    主君毛利元就
    拠点・知行石見琵琶甲城
    官位・役職刑部大輔、下野守
    幼名志道才徳丸
    法名
    別名志道通良

    家族構成

    志道元良または志道広良
    兄弟志道広良?、通良
    正室福原広俊の娘
    側室
    広通、春良、元司、宗立
    親族

    逸話

    • 行政手段に秀でていたため、名家老といわれている

    生涯

    • 1513年、生誕。最初は志道の名字を使っていたが、石見国邑智郡口羽村を与えられ、それから口羽を名乗る
    • 1534年、元就からの命令で塩治興久の処遇で尼子氏と溝が生まれた山内直通に近づく。その際に 通の字与えられ、以後通良を名乗る
    • 1557年、兄である志道広良が死去し、兄に代わって重用され主に吉川元春を支える
    • 1571年、毛利元就の没後は四人衆として輝元を補佐する
    • 1582年、死去。享年70

    宍戸 隆家(ししど たかいえ)

    宍戸隆家の肖像画
    出典:Wikipedia:宍戸安芸守隆家(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1518年
    没年1592年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職従五位下・安芸守
    幼名
    法名
    別名元家、弥三郎、左衛門尉

    家族構成

    宍戸元家
    山内直通の娘
    兄弟
    正室五龍局(毛利元就の娘)
    継室:小河内繁継の姉
    側室
    元秀
    親族

    逸話

    • 毛利元就の娘・五龍局を正室に迎え、吉川元春・小早川隆景らと軍事行動を共にして毛利家に尽くした宍戸家は江戸時代に長州藩の筆頭とされた

    生涯

    • 1518年、生誕
    • 1523年、祖父・宍戸元源に引き取られて宍戸家にはいる。元服の際、大内義隆から偏諱を受けて隆家と名乗る
    • 1534年、宍戸家は安芸の国人として長年にわたって毛利家と争ってきたが、毛利元就が年頭の祝詩を述べるために五龍城を訪問した際に元就の次女・五龍局との婚約が決まる
    • 1540年、毛利元就と尼子晴久の吉田郡山城の戦いでは祖父・宍戸元源によって吉田郡山城に入城し、宍戸家が毛利家に他意の無いことを示す
    • 1541年、尼子軍が出雲へ退却すると祖父・宍戸元源や天野興定・熊谷信直・香川光景・己斐豊後守らと共に佐東銀山城を強襲する
    • 1542年、大内義隆による出雲侵攻の際には毛利元就・毛利隆元父子らと共に従軍する
    • 1548年、陶晴賢との神辺合戦では毛利隆元や吉川元春らと共に毛利元就の軍に属して大内方として従軍する
    • 1553年、毛利元就の祝甲斐守・治部大輔父子が籠城する備後高杉城攻めに、吉川元春・小早川隆景・平賀広相・湯浅元宗らと共に従軍する
    • 同年、母方の従兄弟にあたる備後山内氏当主・山内隆通に毛利家へ帰順するように口羽通良と共に説得を行い、隆通を毛利家へ帰順させる
    • 1554年、折敷畑の戦いでは毛利元就に従って従軍し、福原貞俊と共に陶晴賢が派遣した宮川房長の軍と戦う
    • 1555年、安芸矢野城主・野間隆実攻めでは、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・志道元保・福原貞俊らと共に従軍し、隆実を元就に降伏させる
    • 同年、厳島の戦い後の防長経略に従軍し、杉隆泰の鞍掛山城を攻撃した際に戦功を挙げる
    • 1556年、尼子氏が石見銀山奪還のために進軍して来ると吉川元春や口羽通良らと共に迎撃に出陣する
    • 1557年、須々万沼城の総攻撃に従軍する
    • 同年、毛利元就が周防都濃郡富田の勝栄寺において毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に宛てた三子教訓状の第8条において、娘・五龍局が嫁いだ宍戸家も隆家の代は三人と同じく毛利一門と同様に扱うことを記す
    • 1561年、毛利元就と毛利隆元に同行して、小早川隆景の新高山城を訪問する
    • 1563年、三女・南の大方と毛利輝元の婚約が成立する。しかし将軍・足利義輝の仲介で、輝元に大友宗麟の娘を嫁がせて毛利家と大友家の和睦を結ぶことが決まったことにより、南の大方と輝元の婚約は一度破談となる。だが毛利家と大友家の和睦が破談となったことで改めて輝元と南の大方の婚姻が進められる
    • 1567年、毛利家の伊予出兵では、長女・天遊永寿が伊予河野家当主・河野通宣と婚姻した縁で河野家を支援する
    • 1568年、吉田郡山城内において三女・南の大方と毛利輝元の婚儀が盛大に執り行われる
    • またこの頃、次女・春木大方が吉川元春の嫡男・吉川元長の正室となっている
    • 1570年、毛利元就が尼子家再興を目論む尼子勝久・山中幸盛が率いる軍を鎮圧するため出陣するとこれに従軍し備中勢を率いる
    • 進軍中に元就が病に倒れた後も吉川元春と共に山陰に残って戦う
    • 1571年、毛利元就が死去すると弔い合戦として吉川元春が伯耆へ出陣すると、天野隆重・口羽通良らと共に従う
    • 1574年、三村元親が毛利家に反旗を翻し備中兵乱が起き、毛利輝元・小早川隆景が出陣すると共に従軍する
    • 1578年、毛利輝元が播磨への進軍を決断すると小早川隆景に従って毛利軍の先鋒として出陣する
    • 1580年、嫡男・宍戸元秀と共に山内隆通・山内広通父子に今後もお互いに協力することを誓う起請文を送る
    • 1584年、山内隆通の嫡男・山内広通が人質として出向いて来る
    • 1591年、毛利輝元が広島城に入城すると、これに伴い広島城内に屋敷を構える
    • 1593年、死去する。享年76

    児玉 就忠(こだま なりただ)

    児玉就忠の肖像画
    出典:Wikipedia:児玉三郎右衛門尉就忠(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1506年
    没年1562年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名小次郎、三郎右衛門

    家族構成

    児玉元実
    養父:児玉家行
    兄弟就兼、就忠、就方
    正室久芳賢直の娘
    側室
    元良、小方元信、春種、内藤元輔
    親族

    逸話

    • 行政手腕には長けていたが、合戦は不得手だったといわれる

    生涯

    • 1506年、生誕。行政手腕に長けており、毛利元就から厚い信任を受けていた
    • 毛利隆元の時代になり、毛利家中に五奉行制が成立された際には、五奉行の一人となる
    • 1562年、死去する。享年57

    桂 元澄(かつら もとずみ)

    桂元澄の肖像画
    出典:Wikipedia:桂能登守元澄(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1500年
    没年1569年
    主君毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸桜尾城
    官位・役職左衛門尉、能登守
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    桂広澄
    兄弟元澄、元忠、就延、保和
    正室福原広俊の娘
    継室:志道広良の娘
    側室
    元延、元貞、元親、景信、広繁、元盛、元時
    親族

    逸話

    • 子孫に明治時代の政治家・木戸孝允と桂太郎がいる

    生涯

    • 1500年、生誕
    • 1522年、一族の坂広時が失脚した頃に、父・桂広澄から家督を譲られる
    • 1523年、尼子経久が鏡山城を攻めた際には、鏡山城主・蔵田房信の叔父・蔵田信直を調略で寝返らせる
    • 同年、毛利元就が毛利家の家督を相続した際には、15人の宿老の一人として起請文に署名する
    • 1524年、叔父・坂広秀が毛利元就の弟・相合元綱を擁立して元就に謀反を起こすと、広秀の実兄であった父・桂広澄は責任をとって自害する。父に続いて自害しようとするが、元就に止められ以後、元就の家臣として仕える
    • 1532年、毛利家家臣団32名がお互いの利害関係の調整を主君・毛利元就に要請した連署起請文では3番目に桂左衛門尉元澄と署名する
    • 1550年、主君・毛利元就によって安芸・井上家が粛清された直後に、毛利家家臣団238名が連署して毛利家への忠誠を改めて誓った起請文においては、30番目に桂能登守元澄と署名する
    • 1554年、毛利家が大内家・陶家に反旗を翻し、桜尾城を開城させると城主となる
    • 1555年、厳島の戦いでは、陶晴賢に偽の書簡を送り、陶軍を厳島に誘き寄せる戦功を挙げる
    • 1557年、、防長経略が終わった後、毛利家臣団239名が連名で軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文では、最後の239番目に桂能登守と署名する
    • 1569年、死去する。享年70

    粟屋 元秀(あわや もとひで)

    粟屋元秀の肖像画
    出典:Wikipedia:粟屋備前守元秀(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年不明
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名弥三郎、縫殿允、備前守

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    元宗
    親族

    逸話

    • 粟屋氏は安芸毛利家の開祖・毛利時親に従った粟屋親義の曾孫・粟屋春義の次男・義之を祖先としている

    生涯

    • 生年不明
    • 1490年、毛利弘元から安芸豊島150貫を与えられる
    • 1507年、毛利興元に従って京に滞在する
    • 1509年、毛利興元から備前津田郷の一部を割り当てられる
    • 1517年、有田中井手の戦いに従軍し、その戦功で毛利元就に重用される
    • 1523年、毛利幸松丸が夭折し、毛利家中で毛利元就と相合元綱に後継者争いが起こる。その頃の粟屋家当主であった粟屋元国と毛利家の執政であった志道広良の指示を受けて、神仏詣を名目として上京する。12代将軍・足利義晴の支持を得て、元就に家督を継がせることに成功する
    • 同年、元就から安芸東西条に領地を与えられる
    • 1532年、毛利氏家臣団32名がお互いの利害調整を主君・毛利元就に要請した連署起請文では10番目に粟屋備前守元秀と署名する
    • 没年不明

    志道 広良(しじ ひろよし)

    志道広良の肖像画
    出典:Wikipedia:志道上野介広良(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1467年
    没年1557年
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸志道城
    官位・役職
    幼名
    法名瑞如
    別名太郎三郎、上野介、大蔵少輔

    家族構成

    志道元良
    兄弟広良、口羽通良?
    正室
    側室
    広長、坂元貞、口羽通良?
    親族

    逸話

    • 主君・毛利元就からの信頼が厚く、息子・毛利隆元の周辺には広良のような名宰相がいないと語ったといわれている
    • さらに、元就が書状を記す際、自らを支えてくれた家臣の名に広良の名を真っ先に挙げている
    • 毛利隆元に「君は船、臣は水」と主従関係を例えた

    生涯

    • 1467年、生誕
    • 1500年、父・志道元良の死去に伴い家督を相続する
    • 同年、毛利家の家督を相続した毛利興元に仕え、毛利家執政を務めるが、興元の弟・毛利元就の器量を早くから見抜き、親交を育む
    • 1513年、当時17歳の毛利元就が47歳の広良に差し出した起請文では、両者がしっかり協力しつつ、主君である毛利興元に忠節を尽くすことを誓う
    • 1523年、毛利幸松丸が夭折し、毛利元就とその弟・相合元綱との間で争いが起きると、元就を支持して他の14人の宿老と共に署名した起請文を提出し、また足利将軍家の同意もいち早く取り付ける
    • その後は元就の軍師的な役割を務め、また元就の息子・毛利隆元の後見役を務める
    • 1532年、毛利家臣団32名が互いの利害調整を主君・毛利元就に要請した連署起請文では2番目に志道上野介広良と署名する
    • 1557年、死去する。享年91

    吉見 正頼(よしみ まさより)

    吉見正頼の肖像画
    出典:Wikipedia:吉見大蔵大輔正頼(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1513年
    没年1588年
    主君大内義興→大内義隆→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行石見三本松城
    官位・役職式部少輔、三河守、大蔵大輔、出羽守
    幼名
    法名周鷹
    別名四郎、式部四郎

    家族構成

    吉見頼興
    内藤弘矩の娘
    兄弟興成、隆頼、威俊、周信、正頼、頼盛、頼員、頼実、範弘、
    正室大宮姫(大内義興の娘)
    継室:内藤隆春の娘
    側室三井氏
    広頼、広正
    親族

    逸話

    • 清廉潔白な人物で大内義隆から厚く信頼されていた

    生涯

    • 1513年、生誕
    • 1540年、父・吉見頼興から家督を継いでいた兄・吉見隆頼が死去する。そのため石見津和野興源寺で僧籍だったが還俗して家督を継ぐと隆頼の正室であった大内義隆の姉・大宮姫を娶る
    • 1550年、長年に渡って所領の境界を争ってきた益田藤兼が一本松城や下瀬城を攻めてきたため、これを撃退する
    • 1551年、大内義隆の密使として相良武任が訪れる
    • 同年、大寧寺の変で義隆が重臣・陶隆房の謀反によって討たれる
    • 1554年、大内軍の総攻撃を受け三本松城に籠城するが、子・吉見広頼を人質に出し和睦する
    • 1557年、毛利元就の防長経略の際、毛利軍と共に山口へ進軍し、、長門阿武郡にある渡川城から大内軍を排除し、山口北部の宮野口へ入り、山口を落とす
    • 同年、大内家が滅ぶと毛利元就の家臣となり、石見吉賀郡・長門阿武郡・厚東郡・周防国佐波郡に所領を持つ。元就から、義隆同様、清廉な性格を厚く信頼される
    • 1471年、毛利元就が死去すると後を継いだ嫡孫・毛利輝元の補佐を吉川元春から依頼される
    • 1582年、備中高松城への出陣を最後に、家督を子・吉見広頼に譲ると長門阿武郡指月城に隠居する
    • 1588年、指月城で死去する。享年76

    天野 隆重(あまの たかしげ)

    天野隆重の肖像画
    出典:Wikipedia:天野紀伊守隆重(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1503年
    没年1584年
    主君大内義興→大内義隆→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸金明山城
    官位・役職従五位下・中務少輔、紀伊守
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    天野元貞
    福原広俊の娘
    兄弟隆重、隆良
    正室井原元帥の娘
    継室:福原広俊の娘
    側室
    元明、武弘、元祐、元友、元嘉、元信
    親族

    逸話

    • 山口県・通化寺に墓があり、隆重は妻及び息子・元嘉夫婦と共に眠っている

    生涯

    • 1503年、生誕
    • 1551年、仕えていた大内義隆が大寧寺の変で家臣・陶隆房によって殺害されると毛利元就に従属する。妻が福原貞俊の妹だったため、元就から深い信任を受ける
    • 出雲の尼子家が滅亡すると月山富田城の城代を任される
    • 1569年、尼子勝久率いる尼子再興軍が隠岐より出雲に上陸し、出雲奪還を目指して進軍を始める。当時毛利家は主力を大友家との戦に向けており、月山富田城を守る兵は僅かだったが、城主の毛利元秋と策を練り奇襲で尼子軍を討ち破る
    • 1584年、死去する。享年82

    国司 元相(こくし もとすけ)

    国司元相の肖像画
    出典:Wikipedia:国司右京亮元相(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1515年
    没年1592年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行安芸
    官位・役職右京亮、飛騨守
    幼名
    法名
    別名助六

    家族構成

    国司有相
    兄弟
    正室渡辺勝の娘
    継室:桂広澄の娘
    側室
    元武、元蔵、元貞
    親族

    逸話

    • 嫡男・国司元武に奉行職を引き継いだ後も奉行としての扱いを受けており、その後も毛利家中の掟の制定に関わっていた

    生涯

    • 1515年、生誕
    • 1538年、毛利元就の嫡男・毛利隆元の傅役を務めて隆元から深い信頼を受けていたことから、隆元から元の偏諱を与えられる
    • 1540年、出雲・尼子詮久が毛利領に進軍し吉田郡山城の戦いが起きると、渡辺通らとともに奮戦し、尼子勢を撃破する戦功を挙げる
    • 1542年、父・国司有相の死去に伴い家督を相続する
    • 同年、大内義隆は吉田郡山城攻略の失敗により勢力を大きく減らした尼子勢を滅ぼそうと侵攻を始めると、毛利勢もこれに従う。一時は月山富田城を包囲するが、尼子勢の反撃により敗走し、元相も傷を負う
    • 1550年、毛利元就によって安芸・井上家が粛清された直後、毛利家臣団238名が連署して忠誠を誓った起請文では13番目に國司右京亮元相と署名する
    • また、元就が五奉行制を定めると、赤川元保・粟屋元親・桂元忠・児玉就忠と共にその一人となる
    • 1555年、厳島の戦いに従軍する
    • 1557年、防長経略が終わった後に毛利家臣239名が軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文では、12番目に國司右京亮と署名する
    • 1560年、正親町天皇の即位料を調達する使者として上洛する
    • 室町幕府将軍・足利義輝にも面会し、槍の鈴の免許を与えられる
    • 1561年、石見国松山城での戦いでは、児玉就忠と共に一番に城中に攻め入る戦功を挙げる
    • 1567年頃、嫡男・国司元武に奉行職を引き継ぐ
    • 1591年、死去する。享年77

    粟屋 元親(あわや もとちか)

    生年不明
    没年1561年
    主君毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職縫殿允、右京亮、備前守
    幼名赤法師
    法名
    別名弥三郎、弥六

    家族構成

    粟屋元忠
    兄弟
    正室
    側室
    元著、元信、元如
    親族

    逸話

    • 元親の死後、粟屋家の家督は次男・粟屋元信が継ぎ、同時に奉行職も引き継いだ

    生涯

    • 生年不明
    • 1532年、毛利家臣団32名が互いの利害調整を主君・毛利元就に要請した連署起請文では、22番目に粟屋弥六元親と署名する
    • 1540年、内紛を起こしていた平賀家の頭崎城攻撃に従軍する
    • 同年、吉田郡山城の戦いにも従軍し、戦功を挙げる
    • 1550年、毛利元就によって安芸・井上家が粛清された直後、毛利家臣団238名が連署して忠誠を誓った起請文では15番目に粟屋右京亮元親と署名する
    • また、元就が五奉行制を定めると、赤川元保・桂元忠・児玉就忠・国司元相と共にその一人となる
    • 1555年、防長経略に従軍し、戦功を挙げる
    • 1557年、防長経略が終わった後に毛利家臣239名が軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文では、13番目に粟屋右京亮と署名する
    • 1561年、死去する

    粟屋 元真(あわや もとざね)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    井上 元兼(いのうえ もとかね)

    井上元兼の肖像画
    出典:Wikipedia:井上河内守元兼(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1486年
    没年1550年
    主君毛利弘元→毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行
    官位・役職河内守
    幼名源太郎丸
    法名
    別名弥坂兵衛

    家族構成

    井上光兼
    村上隠岐守の娘
    兄弟元兼、元光、就良、元貞、就正
    正室
    側室
    就兼、就澄、光利
    親族

    逸話

    • 一族が粛清される中、父・井上光兼は高齢のため、孫・井上利宅は幼少のため、叔父・井上光俊や従弟・井上就在は毛利元就への忠誠心の厚さから粛清を免れている

    生涯

    • 1486年、生誕
    • 1523年、毛利家の家老15名が連署起請文を提出して毛利弘元の子・毛利元就の家督相続を要請した際には、井上就在・元盛・元貞・元吉ら他の井上一族と共に署名する
    • 1550年、毛利家中で一族共々専横を繰り返したことで、毛利元就により息子・井上就兼、叔父・井上元盛ら一族もろとも粛清される。享年65

    飯田 元親(いいだ もとちか)

    飯田元親の肖像画
    出典:Wikipedia:飯田次郎四郎元親(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年1535年
    主君毛利興元→毛利幸松丸→毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名四郎次郎

    家族構成

    児玉元良
    養父:飯田広親
    兄弟元親、元重
    正室
    側室
    元祐
    親族

    逸話

    • 同じ毛利家臣で毛利水軍を率いた飯田義武の飯田家とは別系統とされている
    • 死後、嫡男・飯田元祐は幼少だったので、家督は弟・飯田元重が継ぐ

    生涯

    • 生年不明
    • 1516年、大内義興の命令を受けた毛利興元に従って、山県郡有田城の武田元繁との戦いで戦功を挙げる
    • 1423年、毛利元就が家督を相続する際に、15人の宿老の一員として連署状に署名する
    • 1535年、死去する

    熊谷 信直(くまがい のぶなお)

    熊谷信直の肖像画
    出典:Wikipedia:熊谷伊豆守信直(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1507年
    没年1593年
    主君武田元繁→毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行
    官位・役職兵庫頭、従五位下、伊豆守
    幼名千代寿丸
    法名
    別名次郎三郎

    家族構成

    熊谷元直
    宮光信の娘
    兄弟信直、直続
    正室伴好清の娘
    側室
    高直、直清、広真、三須隆経、就真
    親族

    逸話

    • 娘・新庄局は吉川家臣にも醜女と呼ばれていたが、吉川元春は「わが望むところは熊谷信直の嫡女なり」と進んで迎えたとされる
    • Wikipediaでは征夷大将軍と紹介されている

    生涯

    • 1507年、生誕
    • 1524年、周防・長門の大名・大内義興が安芸へ侵攻を始め、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲するが、八木城主・香川吉景らの支援を得て、大内軍を撃破する
    • 同年、父・熊谷元直の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景・三須房清らと大内軍に奇襲をかけ大勝利を収める。仇であった元就の戦いぶりを間近に見て、元就に対する考えを変え、毛利家との和解へと繋がる
    • 1527年、同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐に暗殺されかけるが未遂に終わる
    • 1530年、弟・熊谷直続、家臣・岸添直清、末田直道らと共に山中成祐を討ち取る
    • 1533年、武田光和夫人であった妹への待遇の不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、自身が安芸武田氏の所領を横領したことなどで安芸武田氏と対立する。
    • ついに居城・三入高松城が攻撃を受けるが、弟・熊谷直続や家臣・岸添直清、末田直道と共に応戦し撤退させる。またこの戦いを機に毛利家との繋がりを深め、指示に従うようになる
    • 1540年、出雲の戦国大名・尼子詮久が安芸に侵攻し、吉田郡山城の戦いが起きる。この戦いでは三入高松城を守っていたが、佐東銀山城の牛尾幸清が撤退する際に八木城主・香川光景と追撃をかけるが、間に合わなかった
    • 1542年、大内義隆は勢力の衰えた尼子氏を討とうと出雲へ侵攻しこれに従軍する。しかし赤穴城の戦いで苦境に立たされ、弟・熊谷直続が討死する
    • その後、月山富田城を包囲するが、吉川興経の裏切りもあり攻略に失敗し、退却の際にも襲撃を受けるが何とか帰還する
    • 1547年、娘・新庄局が毛利元就の次男・吉川元春に嫁ぎ、毛利一門衆として扱われるようになる
    • 1548年、毛利元就と共に大内義隆の元へ訪れる
    • 1550年、毛利元就の命令で吉川興経を天野隆重と共に急襲して殺害する
    • 1554年、折敷畑の戦いで主力として戦い、宮川房長を自刃に追い込む
    • 同年、毛利軍は信直の娘婿・野間隆実が籠もる矢野城を攻撃し隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺される
    • 1555年、厳島の戦いでは、宮尾城を包囲し4人の息子・熊谷高直・熊谷直清・熊谷広真・三須隆経らと、陶晴賢を討ち取る
    • 1556年、防長経略では3年をかけて山口を制圧する
    • 1558年、石見出羽に進軍し、小笠原長雄・福屋隆兼を討ち破る
    • 同年、中村康之・益田藤兼を降伏させる
    • 1560年、第13代将軍・足利義輝から伊豆守に叙任される
    • 1561年、毛利家に降伏していた本城常光を暗殺するが、この際に軽傷を負う
    • 1562年、毛利元就と共に出雲・白鹿城を攻撃し落城させる
    • 1568年、吉川元春に従い親子で筑前・立花山城を包囲し、援軍に現れた大友軍と戦う。立花山城は落城させるが、大内輝弘の乱が起きたため立花山城を放棄して輝弘を討伐する
    • 1579年、嫡男・熊谷高直が病死し、嫡孫・熊谷元直を補佐する
    • 1593年、病死する。享年87

    赤川 元保(あかがわ もとやす)

    赤川元保の肖像画
    出典:Wikipedia:赤川左京亮元助(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年不明
    没年1567年
    主君毛利元就→毛利隆元
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名元助、左京亮

    家族構成

    赤川房信
    坂広秋の娘
    兄弟房景、元光、就秀、元保、元久、長沼元忠
    正室
    側室
    孫三郎
    養子:又三郎、元通
    親族

    逸話

    • 元保の自刃後、毛利隆元が和智誠春の饗応に招かれた際に、応じないように止めていたことが判明し、その潔白が証明される
    • 毛利元就は自刃を命じたことを悔い、元保の兄・赤川就秀の次男・赤川元通と甥・赤川元之に赤川家を再興させる

    生涯

    • 生年不明
    • 1540年、吉田郡山城の戦いに従軍する
    • 1542年、大内義隆の出雲遠征に従軍する
    • 1543年、大内軍の退却の際、尼子軍の追撃を井上元有・三戸元富・児玉就光・井上就重・赤川元秀・内藤六郎右衛門尉らと共に退ける
    • 1550年、毛利家の五奉行制度が施行されると毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命される
    • 1555年、厳島の戦いに毛利元就・毛利隆元に従って出陣する
    • 1556年、防長経略の最中に周防玖珂郡山代で一揆がおきると福原貞俊らと共に救援に向かう
    • 1557年、大内義長らが長門且山城に籠城した際には毛利元就に桂元親・粟屋元親・児玉就忠らと共に且山城攻撃を命じられる
    • 1563年、出雲・尼子氏攻めに向かう途上で毛利隆元が急死すると尼子氏と内通した嫌疑をかけられるが自身の潔白を証明できず、長門下関に駐留させられる
    • 1567年、毛利元就が吉田郡山城に帰還すると、直接話し合うため下関からの帰還を命じられる。しかしなかなか登城せず、遂には元就から自刃を命じられ、自刃する

    渡辺 通(わたなべ かよう)

    渡辺通の肖像画
    出典:Wikipedia:渡辺太郎左衛門尉通(毛利博物館「毛利元就座備図」より)
    生年1511年?
    没年1543年
    主君山内直通→毛利元就
    拠点・知行安芸
    官位・役職
    幼名虎市
    法名
    別名太郎左衛門尉

    家族構成

    渡辺勝
    庄原元祐の娘?
    兄弟
    正室山内氏の乳母烏森の娘
    側室
    親族

    逸話

    • 無事に安芸へ帰還した毛利元就は、通の献身に感動し、渡辺家を見捨てないと誓い、通の子・長を重用した

    生涯

    • 1511年頃、生誕
    • 1524年、父・渡辺勝が毛利元就の弟・相合元綱を擁立して元就に謀反を起こそうとして粛清されると、乳母と共に備後国人・山内直通の下に逃れる
    • 直通のもとで元服し、通の偏諱を与えられる
    • 1534年頃、毛利元就が山内家との講和を計画し、これを機に山内直通は、通の毛利氏復帰と渡辺氏再興を元就に要請し、元就は受け入れる
    • 1540年、吉田郡山城の戦いでは毛利元就の命令で別動隊を率いて尼子誠久を急襲し、数倍の兵力差がありながらも討ち破る
    • 1542年、大内義隆による第一次月山富田城の戦いにおいては、毛利家臣として従軍する
    • 1543年、大内軍が月山富田城攻略に失敗し撤退する際、毛利軍は殿を命じられる。しかし石見・大江坂七曲りで尼子軍の追撃を受けると主君・毛利元就の身代わりに内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎と共に囮となり奮戦した後に討死する。享年33

    渡辺 長(わたなべ はじめ)

    生年1543年
    没年1612年
    主君毛利元就→毛利隆元→毛利輝元
    拠点・知行長門朝霞城
    官位・役職左衛門大夫、石見守、従五位下・飛騨守
    幼名虎法師
    法名
    別名小三郎

    家族構成

    渡辺通
    山内氏の乳母烏森の娘
    兄弟
    正室光永元方の娘
    側室
    元、宍戸元重、小五郎、四兵衛
    親族

    逸話

    • 渡辺家は源頼光の家臣・渡辺綱の末裔で、嵯峨源氏の伝統に従って、代々一字名を名乗った

    生涯

    • 1534年、生誕
    • 1543年、第一次月山富田城の戦いで父・渡辺通が戦死すると家督を継ぎ、父と同様に毛利元就に仕える
    • 1548年、山名理興の居城・備後神辺城攻めで戦功を挙げる
    • 1550年、毛利元就によって安芸井上氏が粛清された直後の毛利家臣団238名が連署して毛利家への忠誠を誓った起請文においては、11番目に渡邊小三郎長と署名する
    • 1551年、平賀隆保の居城・頭崎城攻めに従軍する
    • 1552年、備後志川滝山城攻めに従軍する
    • 1555年、厳島の戦いに従軍する
    • 1561年、第四次門司城の戦いに従軍する
    • 1542年、これまでの戦功で安芸豊島定末名を与えられる
    • 1571年、毛利元就が死去するとその孫・毛利輝元に引き続き仕える
    • 1585年、周防玖珂郡三瀬川村を与えられる
    • 1586年、毛利輝元の九州攻めに従軍する
    • 1588年、毛利輝元に従って上洛し、豊臣秀吉から豊臣姓と従五位下・飛騨守の官位を与えられる
    • 1600年、関ヶ原の戦い後、毛利家が周防・長門の2ヶ国に厳封されると周防に移り、広瀬村にある朝霞城を居城とする
    • 1612年、死去する。享年79

    安芸毛利家の家臣

    清水 宗治(しみず むねはる)

    清水宗治の肖像画
    出典:Wikipedia:落合芳幾画
    生年1537年
    没年1582年
    主君石川久式→毛利輝元
    拠点・知行備中高松城
    官位・役職
    幼名才太郎
    法名
    別名長左衛門尉

    家族構成

    清水宗則
    兄弟宗知、宗治、難波宗忠
    正室石川久孝の娘
    側室
    宗之、景治、難波宗定
    親族

    逸話

    • 辞世の句「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」が現代にも伝わる

    生涯

    • 1537年、生誕
    • 1582年、備中高松城の戦い。羽柴秀吉の中国攻めの際、高松城に籠城する。降伏すれば備中・備後を与えると言われるが応じず、毛利の援軍が到着したため、戦線は膠着する。秀吉から出された講和の条件が五ヵ国と自身の自刃であり、毛利方が拒み交渉が不成立になったと知る。これを知ると安国寺恵瓊に自身と兄・清水宗知、弟・難波宗忠、僚友・末近信賀4人の命と引き換えに和議を求める嘆願書を託し、3人と共に水上の船で切腹する。享年46