【上田真田家】真田昌幸と家族・家臣一覧

    上田真田家のアイキャッチ画像

    表裏比興の者

    真田 昌幸(さなだ まさゆき)

    真田昌幸の肖像画
    出典:Wikipedia:真田昌幸像(信濃真田家13代当主・幸正所蔵)
    生年1547年
    没年1611年
    主君武田信玄→武田勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職従五位下・安房守
    幼名源五郎
    法名
    別名武藤喜兵衛、喜兵衛

    家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室山手殿(寒松院殿)
    側室
    信之、信繁、信勝、昌親
    親族

    逸話

    生涯

    • 1547年、生誕
    • 1553年、人質として甲斐国へ送られ、晴信の奥近習衆の一員となる
    • 1560年頃、信玄の母方大井氏の氏族武藤氏の養子となり武藤喜兵衛を名乗り、足軽大将を任じられる
    • 1564年頃、山手殿を正室に迎える
    • 1566年、甲府一蓮寺で歌会が催された際に奥近習衆として信玄の配膳役を務める
    • 1569年、三増峠の戦い。馬場信春への使番を務める
    • 1572年、三方ヶ原の戦いに従軍
    • 1573年、信玄の死後、家督を継いだ勝頼に仕える
    • 1574年、父である幸綱が死去
    • 1575年、長篠の戦い。兄である信綱、昌輝が戦死したため、真田家に戻り、家督を継ぐ
    • 1579年、勝頼の命令で北条氏の治める沼田領へ進軍する。名胡桃城と小川城を手中に収め、翌1580年に沼田城を開城させる
    • 1582年、武田氏滅亡後、織田政権に組み込まれる。滝川一益の与力武将となり、次男の信繁を人質として一益に差し出す
    • 同年、天正壬午の乱。本能寺の変後、旧武田領の統治を任されていた織田家臣団が次々に逃走。主の居なくなった旧武田領を巡り徳川家康、上杉景勝、北条氏直らが争いを始める。昌幸も策を弄して沼田城を奪還する
    • 1853年、徳川家康の命令で松尾城とその城下町を築く。同時期に根津昌綱とその近隣の武将を懐柔し、丸子氏を滅ぼす
    • 1584年、小牧・長久手の戦い。家康の隙をついて沼田、吾妻、小県を手中に収める
    • 1585年、第一次上田合戦。徳川氏との断交を決断し、進軍に備えるため上杉景勝に次男の信繁を人質に差し出す。上田上に侵攻してきた徳川軍を撃退し勝利する
    • 同年、信繁が上杉景勝の盟主である豊臣秀吉の下へ人質として移り、自身は豊臣家の臣下となる
    • 1586年、佐久へ侵攻する
    • 同年、家康が甲府へ侵攻して来るが、秀吉の仲介で取りやめられる。代わりに秀吉の命により家康の与力大名となる
    • 1587年、上坂し秀吉に謁見し名実ともに豊臣家臣となる
    • 1590年、小田原攻め。大道寺政繁の守る松井田城に攻め入る
    • 1592年、朝鮮出兵・文禄の役。肥前名護屋城に留まり、渡海することはなかった
    • 1593年、大阪へ帰還する。渡海しなかった代わりに伏見城の普請役となる
    • 1594年、今までの功労で秀吉の推挙により、自身に従五位下伊豆守、信繁に従五位下左衛門佐、ともに豊臣姓を与えられる
    • 1597年、下野宇都宮城主、宇都宮国綱が秀吉の命で改易されるとその所領の扱いを浅野長政とともに行う
    • 1600年、家康が上杉景勝討伐のため留守の間に石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13カ条の書状を送る。信幸、信繁と話し合った結果、自身と信繁は西軍に、信幸は東軍へ与することになる
    • 同年、第二次上田合戦。徳川秀忠を上田城で迎撃し、追い払う
    • 同年の関ヶ原の合戦後、家康により、信繁ともども領地没収と死罪を下される。しかし信幸とその義父である本多忠勝の助命嘆願により高野山へ拘置となる
    • 1611年、病死。享年65

    真田昌幸の父

    真田 幸綱(さなだ ゆきつな)

    真田幸綱の肖像画
    出典:Wikipedia:長野県長野市松代町長国寺所蔵
    生年1513年
    没年1574年
    主君海野棟綱→長野業政→武田信玄
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職
    幼名次郎三郎
    法名徳斎
    別名幸隆?、源太左衛門、弾正忠、攻め弾正、鬼弾正

    家族構成

    真田頼昌
    海野棟綱の娘
    兄弟綱吉、幸綱、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重
    正室恭雲院(河原隆正の妹)
    側室側室:羽尾幸全の娘
    信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    親族

    逸話

    生涯

    • 1513年、生誕
    • 1541年、海野平の戦い。武田信虎に敗れ、上野へ逃れる
    • 1548年、上田原の戦い。板垣信方の脇備として従軍する。この頃に武田氏に帰属して旧領地を回復している
    • 1553年、第一次川中島の戦い。葛尾城を奪回し、旧領を完全に取り戻す
    • 1556年、埴科郡東天飾城を攻め落とす
    • 1559年、晴信に続いて出家し一徳斎と号する
    • 1561年、第四次川中島の戦い。嫡男である信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲を行う
    • 1563年、上杉方の斎藤氏の居城である岩櫃城を落とす
    • 1565年、嵩山城を落とす
    • 1567年、白井城を落とす
    • 同年、病のため信綱に家督を譲り隠居する
    • 1574年、病のため戸石城で死去。享年62

    真田昌幸の兄弟

    真田 信綱(さなだ のぶつな)

    真田信綱の肖像画
    出典:Wikipedia:真田源太左衛門尉(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1537年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職左衛門尉
    幼名源太郎
    法名
    別名源太左衛門

    家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室於北様(高梨政頼の娘)
    側室
    与右衛門、信興、信光
    親族

    逸話

    生涯

    • 1537年、生誕
    • 1552年、信濃・小岩嶽城攻めで初陣を飾ったとされる
    • 1561年、第四次川中島の戦いで父・真田幸綱と共に妻女山攻めの別働隊に加わる
    • 1567年頃、家督を相続したとされる
    • 1568年、武田信玄による駿河侵攻の際、弟・真田昌輝と共に先鋒を担う
    • 1569年、三増峠の戦いでは弟・真田昌輝や内藤昌豊と共に殿を務めて戦功を挙げる
    • 1572年、武田信玄の西上作戦に従軍し、三方ヶ原の戦いで先鋒を務める
    • 1574年、父・真田幸綱が死去し、家督を継ぐ
    • 1575年、長篠の戦いでも奮戦するが織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊の銃撃で弟・真田昌輝と共に戦死する。享年39

    真田 昌輝(さなだ まさてる)

    生年1543年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職兵部丞、兵部少輔
    幼名徳次郎
    法名
    別名信輝

    家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室相木昌朝の娘
    側室
    信正(幸明)
    親族

    逸話

    生涯

    • 1543年、生誕
    • 1568年、武田信玄による駿河侵攻の際、兄・真田信綱と共に先鋒を担う
    • 1569年、三増峠の戦いでは兄・真田信綱や内藤昌豊と共に殿を務めて戦功を挙げる
    • 1575年、長篠の戦いでも奮戦し、首級も挙げるが兄・真田信綱と共に戦死する。享年33

    真田 信伊(さなだ のぶただ)

    生年1547年
    没年1632年
    主君武田信玄→武田勝頼→上杉景勝→北条氏直→徳川家康→蒲生氏郷→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光
    拠点・知行甲斐
    官位・役職隠岐守
    幼名源次郎
    法名
    別名加津野信昌、信昌、市右衛門尉

    家族構成

    真田幸綱
    養父:加津野昌世
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室馬場殿(馬場信春の娘)
    側室
    幸政、信勝
    親族

    逸話

    生涯

    • 1547年、生誕
    • 年代不明、武田信玄の命令で加津野昌世の養子となり、甲斐の名門・加津野氏の家督を継ぐ
    • 1571年、武田信玄が北条綱成の守る駿河・深沢城を落城させる際、戦功を挙げる
    • 1582年、武田氏が滅亡すると真田姓に復姓し名を信尹に改める。上杉氏に従属し牧之島城に配属される
    • 同年、北条氏直が信濃・川中島へ侵攻してくると北条方に乗り換えた兄・真田昌幸に内通して牧之島城に北条軍を手引きするよう画策するが、調略を拒否した山田右近尉により追放される
    • 同年、昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持ち、そのまま徳川家康に仕える
    • 年代不明、池田輝政を介して会津・蒲生氏郷に仕える
    • 1591年、蒲生氏郷と共に九戸政実の乱平定に従軍する
    • 1600年、関ヶ原の戦い及び1614年、大坂冬の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、以降は徳川家に仕える。
    • 1632年、病死。享年86

    金井 高勝(かない たかかつ)

    生年不明
    没年1606年
    主君武田信玄
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職宮内介
    幼名
    法名
    別名信春

    家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 生年不明
    • 年代不明、金井氏の家督を継ぐ
    • 年代不明、信濃・小県郡丸子村の御嶽堂に住居を移す
    • 没年・享年不明

    真田 清鏡(さなだ きよあき)

    生年1541年?
    没年1599年
    主君
    拠点・知行出羽羽黒山醍醐坊
    官位・役職式部大輔
    幼名
    法名清鏡
    別名

    家族構成

    真田幸綱
    羽尾幸全の娘
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1541年頃、生誕
    • 1591年、九戸政実の乱が起きると四戸家の南部利直を支援する
    • 1599年、南部家と南部城中に宿泊時にささいな行き違いに逆上し切腹。城門に腸を叩きつける。享年59

    日本一の兵

    真田 幸村(さなだ ゆきむら)

    真田信繫の肖像画
    出典:Wikipedia:上田市立博物館所蔵
    生年1567年または1570年
    没年1615年
    主君武田勝頼→真田昌幸→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
    拠点・知行摂津大坂城
    官位・役職従五位下・左衛門佐
    幼名弁丸
    法名好白斎、伝心月叟
    別名信繁、豊臣信繁、源二郎、源次郎

    家族構成

    真田昌幸
    山手殿(寒松院殿)
    兄弟信之、幸村、信勝、昌親
    正室竹林院(大谷吉継の娘)
    側室隆清院(豊臣秀次の娘)、堀田興重の娘または妹、高梨内記の娘
    幸昌、幸信
    親族

    逸話

    生涯

    • 1567年、もしくは1570年、真田昌幸の次男として生誕
    • 1582年、滝川一益のもとへ人質として送られる
    • 同年、本能寺の変の後、一益が関東を離れる際木曾義昌へ引き渡される
    • 1585年、真田氏が上杉氏へ従属する際に人質として越後へ送られる
    • 1590年頃、昌幸が羽柴秀吉に従属した際人質として大阪へ移り、この後に、大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎える
    • 1590年、小田原攻め。石田三成の指揮下で吉継とともに忍城攻めに従軍する
    • 1594年、従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜る
    • 1600年、関ヶ原の戦い。昌幸と共に西軍に加わり、兄である信之とは敵味方に別れる
    • 同年、第二次上田合戦。昌幸とともに上田城にて徳川秀忠を迎え撃ち、退ける
    • 関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、信之とその義父である本多忠勝の助命嘆願により高野山へ拘置となる
    • 1611年、昌幸が死去
    • 1612年、出家し好白と名乗る
    • 1614年、豊臣家からの呼びかけで昌幸の元臣下にも声をかけ、嫡男である大助幸昌とともに大阪城へ入城する
    • 同年、大坂冬の陣・真田丸の戦い。自身は反対したものの、徳川軍に対して籠城作戦が決定される。徳川軍に備え、大阪城で最も弱いとされた三の丸南側に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き上げ、撃退する。しかし冬の陣の講和の際に真田丸は取り壊される
    • 1615年、大坂夏の陣・道明寺の戦い。伊達氏の先遣隊を一時的に退却させる
    • 同年、大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦い。二度に渡り家康の本陣に攻め込むものの、最後は押し返され、安居神社で討ち取られる。享年49

    真田昌幸の息子

    真田 信之(さなだ のぶゆき)

    真田信之の肖像画
    出典:Wikipedia:真田信之像(個人蔵)
    生年1566年
    没年1658年
    主君武田勝頼→真田昌幸→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱
    拠点・知行信濃松代13万石
    官位・役職従五位下・伊豆守、従四位下・侍従
    幼名
    法名一当斎
    別名源三郎、信幸

    家族構成

    真田昌幸
    山手殿(寒松院殿)
    兄弟信之、幸村、信勝、昌親
    正室小松姫(本多忠勝の娘)
    側室清音院殿(始め正室。真田信綱の娘)、右京(玉川秀政の娘)
    信吉、信政、信重、道鏡慧端
    親族

    逸話

    生涯

    • 1566年、生誕
    • 1579年、武田勝頼の嫡男・武田信勝と同時に元服し、信幸と名乗る
    • 1582年、織田信長によって武田氏が滅ぶと父・真田昌幸の元へ、同じく武田氏の人質となっていた母・山手殿と共に逃れる
    • 同年、織田信長の死後に起きた天正壬午の乱・神流川の戦いで、相模・北条氏直に敗れた織田家臣・滝川一益の撤退を支援し、見送る
    • 1582年頃、越後・上杉景勝の信濃への侵攻に対して繰り返し出陣し、上杉領・海津城を攪乱する。また、徳川家康に従属した叔父・真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条氏から奪い、北条氏と敵対する。手子丸城を守る富永主膳との戦いではたった1日で城を奪う戦功を挙げる
    • 1584年、真田氏は信濃・小県郡の国人室賀氏と争うが勝利を重ね、和睦する
    • 直後に父・真田昌幸と共に、当主・室賀正武を暗殺すると小県郡の同族・根津昌綱も懐柔し小県郡を支配する
    • 1585年、真田家が上野沼田領を巡って徳川家康と断交し、上杉氏に従属すると父・真田昌幸に従い家康との間に第一次上田合戦が起こる。砥石城に陣取り、徳川軍が神川を渡ると徳川軍を巧みに誘導・攻撃し勝利に貢献する
    • 1589年、真田家と徳川家康との間に和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となる。また家康に高く評価され、家康は重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女にして信幸に娶らせる
    • 1590年、小田原攻めの上野・松井田城攻めで戦功を挙げ、沼田城主となる
    • 1594年、従五位下伊豆守に任命される
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは父・真田昌幸と弟・真田信繁が西軍に付くが、正室の小松姫が徳川家康の養女かつ家康の重臣・本多忠勝の娘であった為、東軍に付く。家康の息子・徳川秀忠軍に属して上田城を攻める第二次上田合戦に従軍する。合戦前に義弟・本多忠政と共に父・昌幸の説得に向かうが昌幸は応じなかった
    • また弟・信繁の守る砥石城の攻略も命じられるが、真田同士の戦闘を避ける為に開城を要求する使者を派遣、信繁も意を汲み開城に応じ、昌幸のいる上田城へ撤退した
    • 戦後、上田藩主となるが、上田城は廃城となった為、引き続き沼田城を本拠地とする
    • また、昌幸・信繁らの助命を義父・本多忠勝と共に家康に嘆願し昌幸・信繁らは紀伊国九度山へ流罪となる。その際、昌幸との決別を示すため名を信之に改める
    • 1614年、大坂冬の陣では病の為出陣できず、長男・真田信吉と次男・真田信政が代理として出陣する
    • 1656年、隠居するが、長男・真田信吉や嫡孫で信吉の長男・真田熊之助が既に死去していた為、次男・真田信政に家督を譲る
    • 1658年、真田信政が死去し、幕府や親戚の大名も巻き込む後継者争いが起きる。結果、信政の6男・真田幸道が第3代藩主となるが、2歳の幼少の為に信之が復帰して藩政を執る
    • 同年、死去。享年93

    真田 信勝(さなだ のぶかつ)

    生年不明
    没年1609年
    主君徳川秀忠
    拠点・知行武蔵江戸
    官位・役職左馬助
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    真田昌幸
    兄弟信之、幸村、信勝、昌親
    正室牧野康成の娘
    側室立花直次の娘
    親族

    逸話

    生涯

    真田 昌親(さなだ まさちか)

    生年1583年
    没年1632年
    主君真田信之
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名内匠

    家族構成

    真田昌幸
    兄弟信之、幸村、信勝、昌親
    正室
    側室
    男子、男子、信親
    親族

    逸話

    生涯