真田 信之(さなだ のぶゆき)
出典:Wikipedia:真田信之像(個人蔵)
生年 | 1566年 |
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没年 | 1658年 |
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主君 | 武田勝頼→真田昌幸→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱 |
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拠点・知行 | 信濃松代13万石 |
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官位・役職 | 従五位下・伊豆守、従四位下・侍従 |
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幼名 | |
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法名 | 一当斎 |
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別名 | 源三郎、信幸 |
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真田信之の家族構成
父 | 真田昌幸 |
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母 | 山手殿(寒松院殿) |
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兄弟 | 信之、幸村、信勝、昌親 |
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正室 | 小松姫(本多忠勝の娘) |
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側室 | 清音院殿(始め正室。真田信綱の娘)、右京(玉川秀政の娘) |
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子 | 信吉、信政、信重、道鏡慧端 |
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親族 | |
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真田信之の逸話
- 関ヶ原の戦いにおいて父・昌幸、弟・幸村と陣営を分かつ際、上田を出立した3人が別れた場所が栃木・犬伏だったことから、この父子・兄弟の別れは犬伏の別れと呼ばれる
- 93歳と当時としては非常に長寿だったが、30代頃から病に伏せがちだった
真田信之の生涯
- 1566年、生誕
- 1579年、武田勝頼の嫡男・武田信勝と同時に元服し、信幸と名乗る
- 1582年、織田信長によって武田氏が滅ぶと父・真田昌幸の元へ、同じく武田氏の人質となっていた母・山手殿と共に逃れる
- 同年、織田信長の死後に起きた天正壬午の乱・神流川の戦いで、相模・北条氏直に敗れた織田家臣・滝川一益の撤退を支援し、見送る
- 1582年頃、越後・上杉景勝の信濃への侵攻に対して繰り返し出陣し、上杉領・海津城を攪乱する。また、徳川家康に従属した叔父・真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条氏から奪い、北条氏と敵対する。手子丸城を守る富永主膳との戦いではたった1日で城を奪う戦功を挙げる
- 1584年、真田氏は信濃・小県郡の国人室賀氏と争うが勝利を重ね、和睦する
- 直後に父・真田昌幸と共に、当主・室賀正武を暗殺すると小県郡の同族・根津昌綱も懐柔し小県郡を支配する
- 1585年、真田家が上野沼田領を巡って徳川家康と断交し、上杉氏に従属すると父・真田昌幸に従い家康との間に第一次上田合戦が起こる。砥石城に陣取り、徳川軍が神川を渡ると徳川軍を巧みに誘導・攻撃し勝利に貢献する
- 1589年、真田家と徳川家康との間に和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となる。また家康に高く評価され、家康は重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女にして信幸に娶らせる
- 1590年、小田原攻めの上野・松井田城攻めで戦功を挙げ、沼田城主となる
- 1594年、従五位下伊豆守に任命される
- 1600年、関ヶ原の戦いでは父・真田昌幸と弟・真田信繁が西軍に付くが、正室の小松姫が徳川家康の養女かつ家康の重臣・本多忠勝の娘であった為、東軍に付く。家康の息子・徳川秀忠軍に属して上田城を攻める第二次上田合戦に従軍する。合戦前に義弟・本多忠政と共に父・昌幸の説得に向かうが昌幸は応じなかった
- また弟・信繁の守る砥石城の攻略も命じられるが、真田同士の戦闘を避ける為に開城を要求する使者を派遣、信繁も意を汲み開城に応じ、昌幸のいる上田城へ撤退した
- 戦後、上田藩主となるが、上田城は廃城となった為、引き続き沼田城を本拠地とする
- また、昌幸・信繁らの助命を義父・本多忠勝と共に家康に嘆願し昌幸・信繁らは紀伊国九度山へ流罪となる。その際、昌幸との決別を示すため名を信之に改める
- 1614年、大坂冬の陣では病の為出陣できず、長男・真田信吉と次男・真田信政が代理として出陣する
- 1656年、隠居するが、長男・真田信吉や嫡孫で信吉の長男・真田熊之助が既に死去していた為、次男・真田信政に家督を譲る
- 1658年、真田信政が死去し、幕府や親戚の大名も巻き込む後継者争いが起きる。結果、信政の6男・真田幸道が第3代藩主となるが、2歳の幼少の為に信之が復帰して藩政を執る
- 同年、死去。享年93