【甲斐武田家】武田信玄と家族・家臣一覧

    甲斐武田家のアイキャッチ画像

    甲斐の虎

    武田信玄の兄弟

    武田信玄の子

    甲斐武田家の一門衆

    武田四天王

    武田二十四将

    武田 信玄(たけだ しんげん)

    武田信玄の肖像画
    出典:Wikipedia:武田晴信像(高野山持明院蔵)
    生年1521年
    没年1573年
    主君甲斐武田家第19代当主
    拠点・知行甲斐、信濃
    官位・役職従四位下・大膳大夫、信濃守、甲斐・信濃守護
    幼名太郎
    法名徳栄軒信玄
    別名源晴信、晴信、機山

    武田信玄の家族構成

    武田信虎
    大井の方(大井信達の娘)
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室上杉の方(上杉朝興の娘)
    継室:三条の方(三条公頼の娘)
    側室諏訪御料人(諏訪頼重の娘)、禰津御寮人(禰津元直の娘)、油川夫人(油川信友の娘)
    義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    親族

    武田信玄の逸話

    武田信玄の生涯

    • 1521年、生誕。幼名太郎
    • 1523年、兄であった竹松がわずか7歳で亡くなったため、嫡男になる
    • 1533年、扇谷上杉家当主であり、武蔵国川越城主、上杉朝興の娘、上杉の方と婚姻する
    • 1534年、難産のため、上杉の方と子が死去する
    • 1536年、元服。名を晴信と改め、従五位下、大膳大夫へ叙位、任官される
    • 同年、左大臣、三条公頼の娘である三条夫人を継室として迎える
    • 同年、平賀源心攻めで初陣を飾る
    • 1541年、海野平の戦い。父信虎の信濃侵攻に従軍するが、帰郷の際、重臣らと共に信虎を駿河へ追放し、家督を相続する
    • 1542年、瀬沢の戦い。諏訪頼重を甲府へ連行し自刃させ、諏訪領を制圧する
    • 1543年、信濃国長坪城へ侵攻し、大井貞隆を自刃に追い込む
    • 1544年、信虎時代に対立していた後北条氏と和解
    • 1545年、高遠合戦。高遠城で高遠頼継を滅ぼした後、福与城主藤沢頼親を追放する
    • 1547年、小田井原の戦い。上杉と笠原の連合軍に快勝
    • 同年、甲州法度之次第を制定
    • 1548年、上田原の戦い。村上義清に敗北し、多数の武将を失う
    • 同年、塩尻峠の戦い。敗北の隙を突いて諏訪に進軍してきた小笠原長時を撃退する
    • 1550年、林城の戦い。勝利し、松本盆地を支配下に置く
    • 同年、砥石崩れ。村上義清の砥石城を攻めるが敗戦
    • 1551年、真田幸隆の策略で砥石城を攻略する
    • 1552年、小岩嶽城を攻略する
    • 1553年、葛尾城の戦い。この戦いで、北信地方を除いた信濃の大部分を支配下に置く
    • 同年、第一次川中島の戦い。村上義清らの要請で長尾景虎(後の上杉謙信)が信濃へ進軍。葛尾城を奪還されるものの、塩田城を奪う。謙信は信濃へ進軍してくるが、決戦は避けてその後両軍共に軍を引いた
    • 1554年、嫡男である義信の正室に今川義元の娘嶺松院を迎え入れ甲駿同盟を強化。さらに北条氏康の嫡男である氏政に娘の黄梅院を嫁がせ甲相同盟も結んだ
    • これに続き今川家の太源雪斎と共に今川氏と北条氏の婚姻も取り持って甲相駿三国同盟を成就させる
    • 同年、佐久軍、伊那軍及び木曽郡に残存する反抗勢力を討ち信濃南部を平定する
    • 1555年、第二次川中島の戦い。200日に渡り長尾軍と対峙する。今川義元の仲介で和睦となるが、条件に武田方の旭山城の破砕があり、それを受け入れる
    • 1557年、第三次川中島の戦い。葛山城を智略で攻略する。景虎が進軍してくるが、晴信は決戦を避け、室町幕府第13代将軍足利義輝により甲越和睦の御内書が下され信濃守護職を条件に受け入れる
    • 1559年、永禄の飢饉。甲斐国が大きな水害に見舞われた
    • 1559年、出家。法名を徳栄軒信玄とする
    • 1561年、第四次川中島の戦い。一連の戦いでは最も規模が大きく、実弟の武田信繁や山本勘助といった有力家臣を失い、自身も負傷する
    • 1564年、第五次川中島の戦い。武田軍の飛騨国進軍を阻止する為に上杉謙信が川中島に出陣したものの、決戦を避け信玄が塩崎城に布陣したため、にらみ合いに終わる
    • 1567年、今川氏が甲州への塩止めを行いその結果、甲相駿三国同盟は崩れる
    • 1568年、第一次駿河侵攻。徳川家康と共に薩垂山で今川軍を破り、今川館を一時的に占拠しさらに江尻城を築城する
    • 1569年、第二次駿河侵攻。大宮城を攻め落とし、富士郡を支配下に置く
    • 同年、三増峠の戦い。小田原城包囲からの帰還の際に北条勢を討ち倒す
    • 同年、第三次駿河侵攻。駿府を支配下に置く
    • 1570年、駿河に攻め入るが、韮山城を攻略できず
    • 1571年、織田信長の躍進を懸念し、信長と懇意の徳川家康を討つため、大軍で遠江、三河への進軍を開始する。小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を立て続けに落とすが、吐血したため、甲斐へ帰国した
    • 同年、北条氏康の死去に伴い、家督を相続した氏政は父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄。弟の氏忠と氏規を人質として差し出し武田方との甲相同盟を再構築する
    • 1572年、西上作戦。第15代将軍、足利義昭の要請で信長を討つために遠江へ進軍する
    • 同年、一言坂の戦い。徳川家康を退却に追い込む
    • 同年、二俣城の戦い。遠江の要害である二俣城を落城させる
    • 同年、三方ヶ原の戦い。家康を打ち破る
    • 1573年、野田城の戦い。三河の野田城を攻め落とす
    • 同年、持病の悪化のため吐血を繰り返したため進軍を停止。甲斐へ引き返す道中、三河で死去。享年53

    武田信玄の兄弟

    武田 竹松(たけだ たけまつ)

    生年1517年
    没年1523年
    主君武田信虎
    拠点・知行甲斐
    官位・役職
    幼名竹松
    法名
    別名

    武田竹松の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    親族

    武田竹松の逸話

    武田竹松の生涯

    • 1517年、生誕
    • 1523年、死去。享年7

    武田 犬千代(たけだ いぬちよ)

    生年1523年
    没年1529年
    主君武田信虎
    拠点・知行甲斐
    官位・役職
    幼名犬千代
    法名
    別名

    武田犬千代の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    親族

    武田犬千代の逸話

    武田犬千代の生涯

    • 1523年、生誕
    • 1529年、死去。享年7

    武田 信繁(たけだ のぶしげ)

    武田信繁の肖像画
    出典:Wikipedia:甲陽二十四将之一個 武田左馬之介信繁(歌川国芳作)
    生年1525年
    没年1561年
    主君武田信玄
    拠点・知行甲斐、信濃
    官位・役職左馬助
    幼名次郎
    法名
    別名吉田信繁、典厩、古典厩

    武田信繁の家族構成

    武田信虎
    大井の方(大井信達の娘)
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室養周院日藤尼
    側室
    望月信頼、信豊、望月信永
    親族

    武田信繁の逸話

    武田信繁の生涯

    • 1525年、生誕
    • 1541年、晴信とともに信虎を駿河へ追放する
    • 1542年、大将として板垣信方とともに諏訪へ進軍する
    • 同年、高遠頼継の反乱を大将として制圧する
    • 1551年、武田氏庶流の吉田氏を継承する
    • 同年、村上義清征伐の先鋒として出陣する
    • 1553年、甲斐衆今井岩見守を落とした信濃国苅屋原城主へ任命する
    • 同年、村上氏から奪った葛尾城に滞在していた秋山虎繁に上位を通達する
    • 1561年、第四次川中島の戦いで討たれる。享年37

    武田 信基(たけだ のぶもと)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    武田信基の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    親族

    武田信基の逸話

    武田信基の生涯

    武田 信廉(たけだ のぶかど)

    武田信廉の肖像画
    出典:Wikipedia:武田入道逍遥軒信綱(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆。写真は白黒だが、実際は着色画)
    生年1532年
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃高遠城
    官位・役職刑部少輔
    幼名孫六
    法名逍遙軒信綱
    別名信連、信康

    武田信廉の家族構成

    武田信虎
    大井の方(大井信達の娘)
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    信澄、開善寺珠山、蟠翁文龍、救山宗温
    親族

    武田信廉の逸話

    武田信廉の生涯

    • 1532年、生誕
    • 1561年、第四次川中島の戦い。兄である信繁が討たれたため、親族衆筆頭となる
    • 1570年、信濃高遠城主に任命される
    • 1573年、信玄が死去。以後、飯田城代、大島城代等の重職を担う
    • 1575年、長篠の戦い・設楽原合戦。中央隊に陣取る
    • 1582年、甲州征伐。大島城を棄て甲斐へ撤退するが、織田勢の残党狩りに捕まり討たれる。享年51

    武田 信顕(たけだ のぶあき)

    生年不明
    没年1582年
    主君三好長慶→三好長治→長宗我部元親→三好長治
    拠点・知行阿波脇城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    武田信顕の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    信定
    親族

    武田信顕の逸話

    武田信顕の生涯

    • 生年不明
    • 1556年、三好長慶の配慮によって脇城主となる
    • 1578年、三好康俊と共に侵攻して来た長曾我部元親に降伏する
    • 1582年、脇城が再度長曾我部元親の侵攻を受ける。猛攻に5日間耐え続けるが落城し讃岐へ逃亡する。しかし長曾我部軍の追撃により讃岐・大川郡で戦死。享年不明

    一条 信龍(いちじょう のぶたつ)

    生年1539年?
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行駿河田中城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名信隆、信竜、左衛門大夫、上野介

    一条信龍の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    信就
    親族

    一条信龍の逸話

    一条信龍の生涯

    • 1539年頃、生誕
    • 1575年、長篠の戦い。佐久間勢に攻勢を仕掛け、勝頼の撤退を見届けると自身も撤退する
    • 1582年、甲州征伐。駿河に徳川軍が進軍してきたので上野城へ退却するが家康に包囲され、討死する。享年44

    武田 宗智(たけだ そうち)

    生年不明
    没年不明
    主君
    拠点・知行甲斐恵林寺
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    武田宗智の家族構成

    武田信虎
    松尾信賢の娘
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    親族

    武田宗智の逸話

    武田宗智の生涯

    • 生年不明
    • 年代不明、甲斐・恵林寺へ入寺したとされる
    • 年代不明、喝食行者のまま死去。享年不明

    松尾 信是(まつお のぶこれ)

    生年不明
    没年1571年
    主君武田信玄
    拠点・知行甲斐山梨
    官位・役職民部少輔
    幼名源十郎
    法名
    別名

    松尾信是の家族構成

    武田信虎
    養父:松尾信賢の娘
    松尾信賢の娘
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    養子:河窪信俊(河窪信実の子)
    親族

    松尾信是の逸話

    松尾信是の生涯

    • 生年不明
    • 年代不明、生母の父・松尾信賢に家督を継ぐ嫡嗣がいなかった為、信賢の養子となり松尾家の家督を相続する
    • 1571年、死去。享年不明

    河窪 信実(かわくぼ のぶざね)

    生年不明
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行甲斐山梨
    官位・役職兵庫介
    幼名
    法名
    別名

    河窪信実の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    信俊
    親族

    河窪信実の逸話

    河窪信実の生涯

    • 生年不明
    • 1571年、兄・松尾信是の死後、兄・武田信玄の命令で子・河窪信俊と信是の娘を婚姻させ、松尾家を相続させる
    • 1575年、長篠の戦いでは長篠城内を見渡せる鳶ヶ巣山砦の守備を担う。酒井忠次率いる連合軍別働隊の奇襲により、設楽原決戦より先に開戦する。奮戦するが砦への侵攻を防ぎきれず戦死する。享年不明

    武田 信友(たけだ のぶとも)

    生年1542年?
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行駿河
    官位・役職上野介
    幼名
    法名
    別名

    武田信友の家族構成

    武田信虎
    内藤氏
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室瀬名貞綱の娘
    側室
    信堯
    親族

    武田信友の逸話

    武田信友の生涯

    • 1542年頃、生誕
    • 1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、兄・武田信玄に今川氏の内部情報を葛山氏元や瀬名信実と共に伝える役を担う
    • 1568年、武田信玄の駿河侵攻に従軍する
    • 1570年、上野介と名乗る
    • 1582年、織田信長による甲州征伐が開始される。信長の嫡男・織田信忠に甲府は占領されると捕縛され相川河原で処刑される。享年41

    武田 勝虎(たけだ かつとら)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    武田勝虎の家族構成

    武田信虎
    兄弟竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
    正室
    側室
    親族

    武田勝虎の逸話

    武田勝虎の生涯

    武田信玄の息子

    武田 義信(たけだ よしのぶ)

    生年1538年
    没年1567年
    主君武田信玄
    拠点・知行甲斐、信濃
    官位・役職准三管領
    幼名太郎
    法名
    別名信行

    武田義信の家族構成

    武田信玄
    三条の方(三条公頼の娘)
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室
    側室
    親族

    武田義信の逸話

    武田義信の生涯

    • 1538年、晴信の嫡男として生誕
    • 1550年、元服
    • 同年、今川義元の娘である嶺松院を正室に迎える
    • 1553年、名を義信と改める
    • 1554年、初陣。信濃国佐久郡の知久氏に攻め入り、小諸城を攻略する
    • 1558年、晴信が信濃守護に任じられた際、自身は准三管領としてもてなされる
    • 1561年、第四次川中島の戦いで戦功を上げる
    • 1565年、家臣の企てた信玄暗殺計画にかかわったとして甲府東光寺に監禁される
    • 1567年、死去。享年30

    海野 信親(うんの のぶちか)

    生年1541年
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職
    幼名二郎
    法名竜芳、竜宝
    別名勝重

    海野信親の家族構成

    武田信玄
    養父:海野幸義
    三条の方(三条公頼の娘)
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室海野幸義の娘
    側室穴山信君の娘
    信道
    親族

    海野信親の逸話

    海野信親の生涯

    • 1541年、生誕。生まれつき盲目だったとされている
    • 年代不明、信濃小県郡の国衆・海野幸義の娘と婚姻し、海野信親と名乗る
    • 年代不明、出家し一向宗の僧である長延寺実了の弟子となり、竜芳と名乗る
    • 1582年、織田信長が甲州征伐を始め甲斐・入明寺に匿われる。しかし武田勝頼自害の知らせを聞き、自害したとも殺害されたともされる。享年42

    武田 信之(たけだ のぶゆき)

    生年1543年
    没年1553年
    主君武田信玄
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名西保三郎

    武田信之の家族構成

    武田信玄
    三条の方(三条公頼の娘)
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室
    側室
    親族

    武田信之の逸話

    武田信之の生涯

    • 1543年、生誕
    • 年代不明、武田一族の西保氏を継承する
    • 1553年、死去。享年11

    武田 勝頼(たけだ かつより)

    武田勝頼の肖像画
    出典:Wikipedia:武田勝頼像(高野山持明院蔵)
    生年1546年
    没年1582年
    主君甲斐武田家第20代当主
    拠点・知行甲斐・信濃・駿河
    官位・役職大膳大夫、左京大夫?、信濃守護
    幼名
    法名
    別名源勝頼、諏訪勝頼、伊奈勝頼、四郎

    武田勝頼の家族構成

    武田信玄
    諏訪御料人
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室龍勝院(遠山直廉の娘、織田信長の養女)
    継室:北条夫人(北条氏康の娘)
    側室
    信勝、周哲大童子、勝親、本光信継庵主
    親族

    武田勝頼の逸話

    武田勝頼の生涯

    • 1546年、生誕
    • 1561年、母方諏訪家の家督を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗る
    • 1562年、信濃高遠城主となる
    • 1563年、上野箕輪城攻めにて初陣を飾り、藤井豊後を討ち取る
    • 1567年、正室龍勝院との間に後の武田信勝となる嫡男である武王丸が生まれる
    • 1570年、花沢城に攻め入り、開城させる
    • 1571年、甲府へ呼び戻される
    • 同年、龍勝院が死去する
    • 1573年、信玄の死去に伴い家督を相続する
    • 1574年、明知城の戦い。織田信長に圧力をかけるため東美濃へ侵攻し、明知城を落とす。続いて飯羽間城、信玄すら攻略できなかった高天神城も落とした
    • 1575年、長篠の戦い。総崩れとなり1万人以上の犠牲を払った
    • 同年、15代将軍足利義昭の仲介で上杉家と和睦する
    • 1576年、毛利氏との同盟が成立する
    • 1577年、北条氏政の妹である北条夫人を継室に迎える
    • 1578年、上杉謙信の死後起きた景虎、景勝の跡目争いを調停する
    • 1579年、北条氏との同盟が破綻する
    • 同年、妹の菊姫と上杉景勝を婚姻させ甲越同盟を結ぶ
    • 同年、常陸国の佐竹義重と甲佐同盟を結ぶ
    • 1580年、新田金山城へ進軍し、膳城を攻め落とす
    • 1581年、新府城の築城を開始する
    • 同年、佐竹義重の仲介で安房国の里見義頼と同盟を結ぶ
    • 1582年、織田軍の侵攻に浅間山の噴火が重なり、武田方は恐慌状態となる
    • 未完の新府城に火を放ち逃亡するが、追手につかまり、北条夫人、嫡男の信勝と共に自害する。享年37。これにより甲斐武田氏は滅亡

    仁科 盛信(にしな もりのぶ)

    仁科盛信の肖像画
    出典:Wikipedia:仁科盛信甲冑像 (伊那市立高遠町歴史博物館蔵)
    生年1557年?
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃森城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名武田晴清、信盛、五郎、薩摩守

    仁科盛信の家族構成

    武田信玄
    養父:仁科盛政
    油川夫人
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室武田信繁の娘、武田信廉の娘、仁科盛政の娘、福知新右衛門の娘
    側室
    信基?、信貞?、晴正?、信久?
    親族

    仁科盛信の逸話

    仁科盛信の生涯

    • 1557年頃、生誕
    • 1561年、父・武田信玄の意向で仁科氏を継承する
    • 1573年頃、仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行う
    • 1580年、甲越同盟に則り、西浜・根知城に赴く
    • 1581年、織田信長・徳川家康の侵攻に備えて居城である信濃・森城に加えて高遠城主を兼任する
    • 1582年、甲州征伐の際は小山田昌成・大学助兄弟と高遠城に籠城、奮戦するが織田軍の猛攻に耐えきれず自刃する。享年26

    葛山 信貞(かつらやま のぶさだ)

    生年不明
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行駿河葛山城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名武田義久、武田信貞、六郎、十郎

    葛山信貞の家族構成

    武田信玄
    養父:葛山氏元
    油川夫人
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室おふち(葛山氏元の娘)
    側室
    御宿政友?、御宿貞友(葛山信哲斎)
    親族

    葛山信貞の逸話

    葛山信貞の生涯

    • 1559年以前、生誕
    • 年代不明、駿河駿東郡領主・葛山氏元の養子となる
    • 1572年頃、10代前半で葛山氏の家督を相続する
    • 1582年、織田信長の甲州征伐により甲府・甲斐善光寺で自刃する。享年不明。葛山氏も滅亡する

    武田 信清(たけだ のぶきよ)

    生年1560年または1563年
    没年1642年
    主君武田勝頼→上杉景勝
    拠点・知行信濃海野城
    官位・役職
    幼名大勝
    法名玄竜
    別名安田信清

    武田信清の家族構成

    武田信玄
    禰津御寮人
    兄弟義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清
    正室実了師慶の娘
    継室:平田常範の娘
    側室
    勝信、時信
    親族

    武田信清の逸話

    武田信清の生涯

    • 1560年、もしくは1563年、生誕
    • 1567年、父・武田信玄の命令で巨摩郡加賀美・法善寺に入り、玄竜と名乗る
    • 後に兄・武田勝頼の命令で還俗し安田氏を継承、安田三郎信清と名乗って海野城主となる
    • 1582年、織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡すると高野山・無量光院へ逃れる
    • 同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・菊姫を頼って上杉氏に寄食する
    • 1614年、大久保長安事件で江戸幕府から嫌疑をかけられるが疑いが晴れ帰領する
    • 1642年、死去。享年80もしくは83

    甲斐武田家の一門衆

    穴山 信君(あなやま のぶただ)

    穴山信君の肖像画
    出典:Wikipedia:絹本着色穴山梅雪画像(伝・土佐光吉筆、静岡県指定文化財、静岡市・霊泉寺所蔵)
    生年1541年
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼→織田信長
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名勝千代
    法名梅雪斎不白
    別名信良、武田左衛門、彦六郎、左衛門大夫

    穴山信君の家族構成

    穴山信友
    南松院(武田信虎の娘)
    兄弟信君、信嘉(信邦)、彦九郎
    正室見性院(武田信玄の娘)
    側室
    勝千代
    親族

    穴山信君の逸話

    穴山信君の生涯

    • 1541年、生誕
    • 1553年、武田宗家への人質として甲府館へ移る
    • 1558年頃、家督を相続する
    • 1561年、第四次川中島の戦い。信玄の本陣を守る
    • 1568年、駿河侵攻。背信を試みた今川家臣や徳川氏の仲介を行う
    • 1569年、葛山氏元とともに富士氏の籠城する大宮城へ侵攻する。駿河侵攻後、江尻城代となる
    • 1575年、長篠の戦い。中央へ布陣する
    • 1580年、出家し梅雪斎と名乗る
    • 1581年、勝頼の忠臣への憎しみから織田信長と内通し始める
    • 1582年、嫡男である信治と勝頼の娘との婚姻の約束を反故にされたことに憤り、家康へ降る
    • 同年、甲斐侵攻。家康の誘いもあり、織田方へ内通し、甲斐河内領と駿河江尻領を安堵され、家康の与力となる
    • 同年、安土城への訪問後、本能寺の変が起こる。畿内からの離脱を試みるも宇治田原で一揆勢の襲撃を受け死亡。享年42

    武田四天王

    馬場 信春(ばば のぶはる)

    馬場信春の肖像画
    出典:Wikipedia:馬場美濃守信房(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1514年または1515年
    没年1575年
    主君武田信虎→武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行甲斐
    官位・役職民部少輔、美濃守
    幼名
    法名
    別名教来石景政、信房、信政、信武、氏勝

    馬場信春の家族構成

    教来石信保
    兄弟信春、信頼
    正室小田切下野守の娘
    側室
    昌房、信義、房勝、小田切昌松
    親族

    馬場信春の逸話

    馬場信春の生涯

    • 1514年、もしくは1515年、生誕
    • 1536年、武田信玄の初陣である海ノ口城攻めに従軍し、敵将・平賀源心を討ち取る
    • 1541年、武田信玄の行った父・武田信虎の駿河追放に参加する
    • 1546年、武田信虎によって滅ぼされて途絶えていた馬場氏を継ぐことを武田信玄から許される。同時に名を信房と改める
    • 1559年、それまでの信濃攻めに従軍し挙げた武功を評価されて譜代家老衆に任じられる
    • 1561年、第四次川中島の戦いでは上杉軍を背後から攻める攻撃隊の指揮を任される
    • 1568年、武田信玄の駿河侵攻に従軍する
    • 1569年、三増峠の戦いでは先鋒として北条軍と戦う
    • 1572年、西上作戦では武田信玄から一部隊を任され只来城を攻め落とす
    • 同年、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を浜松城下まで追い込む
    • 1575年、長篠の戦いでは総崩れになった武田軍の殿を内藤昌豊と共に務める
    • 武田勝頼が撤退したのを見届けると織田家家臣・原田直政の部下である河井三十郎に首を差し出す。享年、61もしくは62

    内藤 昌豊(ないとう まさとよ)

    内藤昌豊の肖像画
    出典:Wikipedia:内藤修理昌豊肖像画
    生年1522年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行上野箕輪城
    官位・役職修理亮、大和守
    幼名
    法名
    別名工藤祐長→昌秀、工藤源左衛門、修理亮

    内藤昌豊の家族構成

    工藤虎豊
    兄弟長門守(喜盛?)、昌豊
    正室
    側室
    昌月、昌弘、種次
    親族

    内藤昌豊の逸話

    内藤昌豊の生涯

    • 1522年、生誕
    • 1559年、工藤源左衛門大尉を名乗り武田信玄の側近として仕える
    • 1561年、第四次川中島の戦いでは本隊に従軍する
    • 1566年頃に信濃・深志城代と後閑氏など上野国衆の取次を務める
    • 1570年頃に三増峠の戦いで戦死した浅利信種の後任で箕輪城代を務める
    • 1571年、上杉家臣・北条高広・景家を通じて上杉家から同盟の申し出がくる。しかし武田家はこの頃北条氏政と甲相同盟を結んでいたため、武田信玄の側近・跡部勝資と協議の上、この申し出を断る
    • 1575年、長篠の戦いでは総崩れになった武田軍の殿を馬場信春と共に務め、朝比奈泰勝に討ち取られる。享年54

    山県 昌景(やまがた まさかげ)

    山県昌景の肖像画
    出典:Wikipedia:甲越勇将傳武田家廾四将:山縣三郎兵衛昌景(歌川国芳作)
    生年1529年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行甲斐
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名飯富源四郎、三郎兵衛尉

    山県昌景の家族構成

    飯富道悦?
    兄弟飯富虎昌、昌景
    正室
    側室
    昌満、昌久、昌重、信継
    養子:定昌、太郎右衛門
    親族

    山県昌景の逸話

    山県昌景の生涯

    • 1529年、生誕
    • 1542年、武田信玄の信濃侵攻・伊那攻めにおいて初陣を飾る
    • 1552年、信濃侵攻・神之峰城攻めで一番乗りの武功を挙げ、その功績により侍大将に任命される
    • 1556年、飯富源四郎として水科修理亮に与えられた信濃・善光寺往来における諸役免許の朱印状奏者を務める
    • 1563年、三郎兵衛尉を名乗り、これまでの武功で譜代家老衆に任じられる
    • 1564年、飛騨国へ進軍し江間氏・三木氏を撃破する
    • 1565年、武田信玄の嫡男・武田義信が謀反を画策する。義信の傅役だった兄・飯富虎昌が関与していることを知り、信玄へ訴える。この功績で虎昌の赤備え部隊を引き継ぎ、信玄の父・武田信虎時代に断絶していた山県氏の姓を与えられる
    • 1569年、駿河・江尻城代に任じられる
    • 1571年、遠江・三河侵攻の際、山家三方衆など奥三河の国衆を従属させる
    • 1572年、武田信玄が西上作戦を始める。秋山虎繁と共に信濃から三河へ進軍する
    • 三河八名郡・柿本城、続いて遠江・井平城を攻め落とす
    • 同年、三方ヶ原の戦いにおいて部隊が崩れかかったところを武田勝頼に救われる
    • 1573年、武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼を馬場信春と共に重臣として補佐する。しかし勝頼との折り合いは悪く、疎まれる
    • 同年、三河・長篠城に対する後詰の指揮を任される
    • 1574年、美濃・明智城をめぐる戦いでは救援に来た織田勢を撃退する
    • 1575年、長篠の戦いで討ち死にする。享年47

    春日 虎綱(かすが とらつな)

    春日虎綱の肖像画
    出典:Wikipedia:春日虎綱(高坂 昌信)
    生年1527年
    没年1578年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃海津城
    官位・役職弾正忠
    幼名
    法名
    別名香坂虎綱、高坂昌信、昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久、源五郎、弾正、逃げ弾正

    春日虎綱の家族構成

    春日大隅
    養父:香坂宗重
    兄弟熊麿、虎綱
    正室香坂宗重の娘
    側室
    昌澄(源五郎)、信達(源次郎)、昌定(源三郎)
    親族

    春日虎綱の逸話

    春日虎綱の生涯

    • 1527年、生誕
    • 1542年、父・春日大隅が死去し、姉夫婦と父の遺産を巡って裁判になるが敗訴する。身寄りが無くなるものの、武田信玄の側近として召し抱えられる
    • 1552年、足軽大将となり春日弾正忠を名乗る
    • 1553年、信濃佐久郡・小諸城代に任命される
    • 1561年、海津領に上杉謙信が進軍し、海津城で籠城する
    • 1572年、三方ヶ原の戦いに従軍する
    • 1573年、武田信玄の死後も海津城代を任される
    • 1575年、長篠の戦いには従軍せず、海津城を守っていたが、嫡男・高坂昌澄が討死している
    • 1578年、上杉家において上杉謙信の死後起きた御館の乱で、上杉景勝との取次を武田信豊と共に務めて甲越同盟を締結する
    • 同年、海津城にて死去。享年52

    武田二十四将

    山本 勘助(やまもと かんすけ)

    山本勘助の肖像画
    出典:Wikipedia:山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)
    生年1493年
    没年1561年
    主君大林家?→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職
    幼名
    法名道鬼斎
    別名源助、大林源助、大林勘助、晴幸、道安、菅介、勘介

    山本勘助の家族構成

    山本貞幸
    安(大橋入道の娘)
    兄弟吉野貞継、石松、光幸、勘助、貞重
    正室
    側室
    菅助(2代目。勘蔵、信供)、助次郎、下村安笑
    親族

    山本勘助の逸話

    山本勘助の生涯

    • 1493年、生誕
    • 1536年、中国、四国、九州、関東を巡り、兵法を会得した後、駿河国主・今川義元に仕えようとし、今川家重臣・朝比奈信置を通して士官を願い出る。しかし義元からは異形を嫌われ、召し抱えられず、牢人のまま駿河に留まる
    • 1543年、武田家重臣・板垣信方が駿河に城取りに優れた牢人がいると知り、武田信玄に信方を通じて推挙される。
    • 同年、信玄から100貫で召し抱えるよう申し入れられる。躑躅ヶ崎館で信玄と対面すると信玄は才能を見抜き200貫で召し抱えられる
    • 同年、信玄が信濃へ進軍する際、九つの城を落とす戦功を挙げて、100貫増された知行300貫となる
    • 1545年、武田信玄は討ち倒した諏訪頼重の娘・諏訪御料人を側室に迎えようとする。武田家重臣は武田家に対して恨みを抱いているはずと反対するが、側室に迎えることをただ一人強く主張する。信玄はその意見を聞き入れ諏訪御料人を側室に迎え翌年、諏訪御料人は最後の武田家当主になる武田勝頼を出産する
    • 1547年、上田原の戦いで武田信玄は重臣・板垣信方を失いながらも勘助の策略もあり村上義清を打ち破った
    • 1550年、武田信玄は村上義清の治める信濃・砥石城を攻める。しかし砥石城の守りは堅固で大損害を受け撤退時には追撃も受け全軍崩壊の危機に陥る。この時策を弄して五十騎で村上勢を陽動する。この間に信玄は軍を立て直し反撃、村上勢を打ち破る。この戦功によって知行800貫の足軽大将となる
    • 1559年、信玄が出家したのに続いて出家し道鬼斎と名乗る
    • 1561年、、武田信玄が割ヶ嶽城を攻め落とした際、参謀・原虎胤が負傷し、代わりに信玄の参謀となる
    • 同年、第四次川中島の戦いで奮戦するも上杉家の猛将・柿崎景家の手勢に包囲され坂木磯八に討ち取られる。享年69

    板垣 信方(いたがき のぶかた)

    板垣信方の肖像画
    出典:Wikipedia:板垣駿河守信方肖像
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆、板垣退助画讃)
    生年1489年?
    没年1548年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行信濃上原城
    官位・役職駿河守
    幼名
    法名
    別名信形、駿河守

    板垣信方の家族構成

    板垣信泰
    兄弟信方、室住虎登
    正室
    側室
    信憲、酒依昌光、信廣
    親族

    板垣信方の逸話

    板垣信方の生涯

    • 1489年頃、生誕
    • 1540年、武田信虎の信濃・佐久郡侵攻の際、十数もの敵城を攻め落とす戦功を挙げる
    • 1542年、高遠頼継と藤沢頼親が諏訪軍へ進軍し上原城を落とされる。武田信玄の命令で先鋒として出陣し、安国寺の戦いで頼継を打ち破る
    • 1543年、武田信玄から上原城代に任じられる
    • 1545年、龍ヶ崎城を攻め落とし、藤沢頼親を孤立に追い込み、降伏させる
    • 1547年、諏訪衆を率いて武田信玄と共に信濃・佐久郡へ侵攻、笠原清繁の治める志賀城を包囲する。関東管領・上杉憲政の命令で救援に来た金井秀景を、甘利虎泰と共に小田井原の戦いで迎撃し大勝する。結果、志賀城は落城し、信玄は佐久郡を完全に平定する
    • 1548年、上田原の戦いで討死する。享年60

    甘利 虎泰(あまり とらやす)

    生年1498年
    没年1548年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職備前守
    幼名
    法名
    別名九衛門

    甘利虎泰の家族構成

    兄弟虎泰、曽雌虎忠
    正室善春
    側室
    信益、信忠、信康
    親族

    甘利虎泰の逸話

    甘利虎泰の生涯

    • 1498年頃、生誕
    • 1538年、諏訪氏・小笠原氏との韮崎の戦いで戦功を挙げる
    • 1541年、武田信玄による父・武田信虎駿河追放で先導的役割を担う
    • 1547年、武田信玄の信濃・佐久郡志賀城攻めに従軍する。救援に派遣された関東管領・上杉憲政の援軍を板垣信方と共に小田井原の戦いで迎撃し大勝する
    • 1548年、上田原の戦いで武田信玄を村上勢から守り戦死する。享年51

    甘利 信忠(あまり のぶただ)

    甘利信忠の肖像画
    出典:Wikipedia:甲越勇將傳武田家廾四將:甘利左門尉晴吉(歌川国芳作)
    生年1534年
    没年1567年または1572年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職左衛門尉
    幼名玉千代
    法名
    別名藤蔵、昌忠、藤三、晴吉

    甘利信忠の家族構成

    甘利虎泰
    兄弟信益、信忠、信康
    正室金丸正直の娘
    側室
    信頼
    親族

    甘利信忠の逸話

    甘利信忠の生涯

    • 1534年、生誕
    • 1542年、瀬沢の戦いで兄・甘利信益が戦死し、嫡男となる
    • 1548年、上田原の戦いで父・甘利虎泰と板垣信方が戦死し、家督を相続する
    • また、板垣信憲と共に父の後を継いで両職となる
    • 1564年頃、信忠と名を改める
    • 1566年、落馬して死去、もしくは1572年、三方ヶ原の戦い直後、病死したとされる。享年33、もしくは39

    横田 高松(よこた たかとし)

    横田高松の肖像画
    出典:Wikipedia:横田備中守高松(部分)
    (明治6年(1873年)、恵林寺蔵、松本楓湖筆、横田捻一賛。写真は白黒だが、実際は着色画)
    生年1487年?
    没年1550年
    主君六角家→武田信虎→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職備中守
    幼名
    法名
    別名十郎兵衛

    横田高松の家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    養子:康景(原虎胤の子)
    親族

    横田高松の逸話

    横田高松の生涯

    • 1487年頃、生誕
    • 1547年、武田信玄の信濃・佐久郡志賀城攻めで甘利虎泰の相備として関東管領・上杉憲政の派遣した援軍を撃破する
    • 1550年、砥石崩れの際、殿として村上軍と戦い戦死する。享年64

    多田 三八郎(ただ さんぱちろう)

    多田満頼の肖像画
    出典:Wikipedia:多田淡路守満頼(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆。写真は白黒だが、実際は着色画)
    生年1501年?
    没年1563年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職淡路守
    幼名
    法名宗樊(そうはん)
    別名昌利、昌澄、満頼、三八

    多田三八郎の家族構成

    兄弟
    正室金丸虎義の娘
    側室
    昌治、昌頼、昌俊
    親族

    多田三八郎の逸話

    多田三八郎の生涯

    • 1501年頃、生誕
    • 1547年、信濃・佐久郡志賀城攻めに従軍。小田井原の戦いで戦功を挙げる
    • 1548年、信濃守護・小笠原長時との戦いで戦功を挙げ、武田信玄から感状を受ける
    • 1563年、病死。享年63

    原 虎胤(はら とらたね)

    生年1497年
    没年1564年
    主君千葉勝胤→武田信虎→武田信玄→北条氏康→武田信玄
    拠点・知行甲斐
    官位・役職美濃守
    幼名
    法名清岩
    別名虎種、鬼美濃、夜叉美濃

    原虎胤の家族構成

    原友胤
    兄弟虎胤、桑原甚助
    正室
    側室
    横田康景、盛胤、重胤
    親族

    原虎胤の逸話

    原虎胤の生涯

    • 1497年、生誕
    • 1517年、小弓公方・足利義明軍に小弓城を奪われ、父・原友胤と共に甲斐へ逃げ込み、武田信虎の家臣となる。
    • 1521年、甲斐飯田河原戦で今川軍・福島正成を討ち取る
    • 1553年、日蓮宗信者であったが武田信玄に浄土宗に改宗するように迫られるもこれを拒絶する。そのため一時的に甲斐を追放される
    • 1554年、甲斐へ帰還し、以後再び武田軍の武将として活躍する
    • 1559年、武田信玄が出家すると続いて出家し清岩と名乗る
    • 1561年、信濃・割ヶ嶽城攻めで負傷し一線を退く
    • 1564年、病死。享年68

    原 昌胤(はら まさたね)

    原昌胤の肖像画
    出典:Wikipedia:原隼人昌勝(部分)
    (明治5年(1872年)、恵林寺蔵、松本楓湖筆、森孝順賛。写真は白黒だが、実際は着色画)
    生年1531年?
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行甲斐
    官位・役職隼人佐
    幼名
    法名
    別名昌勝

    原昌胤の家族構成

    原昌俊
    兄弟
    正室
    側室
    昌栄、昌弘、貞胤
    親族

    原昌胤の逸話

    原昌胤の生涯

    • 1531年頃、生誕
    • 1550年、家督を相続し、陣馬奉行を務める
    • 1561年、西上野侵攻の際、上野国衆への取次を務める
    • 1569年、大宮城の開城後、市川昌房と共に、富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社等の寺社支配を行う
    • 1575年、長篠の戦いで戦死する。享年45

    飯富 虎昌(おぶ とらまさ)

    飯富虎昌の肖像画
    出典:Wikipedia:甲越勇將傳武田家廾四將:飫富兵部少輔虎昌(歌川国芳作)
    生年1504年
    没年1565年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行信濃内山城
    官位・役職兵部少輔
    幼名
    法名
    別名甲山の猛虎

    飯富虎昌の家族構成

    飯富道悦または源四郎
    兄弟虎昌、山県昌景
    正室
    側室
    古屋昌時、藤蔵
    親族

    飯富虎昌の逸話

    飯富虎昌の生涯

    • 1504年、生誕
    • 1531年、今井信元・栗原兵庫らと共に武田信虎に対して謀反を企てるが敗北、許され、改めて忠誠を誓った
    • 1538年、諏訪頼満・村上義清の連合軍との戦いでは少数の兵ながら奮戦し、連合軍を打ち破り、自身は九七もの首級を挙げる
    • 1541年、武田信玄と共に武田信虎を駿河に追放し、以降は宿老として信玄に仕える
    • 1548年、上田原の戦いで板垣信方・甘利虎泰が戦死すると武田軍の中核となって主君・武田信玄を支える
    • 1552年、守備する内山城が上杉謙信・村上義清の連合軍に包囲されるが800の兵で撃退する
    • 1561年、第四次川中島の戦いでは、妻女山を攻める別動隊の大将を務める
    • 1565年、武田信玄・武田義信父子が対今川氏の方針で対立すると、傅役として義信を担ぎ上げ謀反を企んだとして捕らえられ責任を取る形で自害する。享年62

    秋山 虎繁(あきやま とらしげ)

    秋山虎繁の肖像画
    出典:Wikipedia:秋山伯耆守晴近(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1527年
    没年1575年
    主君武田信虎→武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行美濃岩村城
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名信友、晴近、晴親、善右衛門尉、伯耆守、武田の猛牛

    秋山虎繁の家族構成

    秋山信任
    兄弟虎繁、信藤
    正室おつやの方(織田信長の叔母)?
    側室
    養子:昌詮(金丸虎義の子)、源三郎(金丸虎義の子)
    親族

    秋山虎繁の逸話

    秋山虎繁の生涯

    • 1527年、生誕
    • 1553年、落城した信濃・葛尾城に在城して戦後処理を任される
    • 1559年、伊奈郡春近衆・赤須昌為の所領紛争の解決に関わる
    • 1565年頃、伯耆守を受領する
    • 同年、武田信玄と尾張・織田信長との同盟交渉では取次を務める
    • 1568年、武田信玄が行った駿河侵攻の際、伊奈衆を率いて遠江へ進軍すると同盟を結んでいた徳川方から抗議を受ける。信玄は虎繁を撤退させることを約束するが、直後に同盟は崩壊する
    • 1570年、徳側家康の本拠地・三河への進軍中に東美濃・遠山氏の領地・恵那郡上村へ侵入。遠山氏・山家三方衆・三河衆連合軍との間に上村合戦が起こるが勝利する。その後に織田信長が派遣した明知光廉と小田子村で戦い、信濃・伊奈郡へ撤退する
    • 1572年、武田信玄が西上作戦を開始すると別動隊を山県昌景と共に指揮して奥三河へ進軍する。奥平氏・菅沼氏らの諸城を攻め落とすと信玄率いる本隊と合流する
    • 1573年、武田信玄の命令で東美濃へ向かうと、前年武田方へ寝返っていた岩村城代となり、以降は大嶋城代と兼任する
    • 同年、織田掃部の取りまとめで岩村城・前城主、遠山景任の未亡人で織田信長の叔母に当たるおつやの方と婚姻する。また、岩村遠山氏の養子として送られていた信長の五男・御坊丸(後の織田信房)を人質として甲斐に送る
    • 同年、武田信玄が信濃伊奈郡・駒場で死去すると武田勢は甲斐へ帰還し、以降は信玄の後継者である武田勝頼に仕える
    • 同年、武田家・譜代家老の金丸筑前守の三男・惣九郎を婿養子に迎える
    • 1575年、長篠の戦いで武田勢は織田信長・徳川家康の連合軍に大敗する。その後岩村城は信長の嫡男・織田信忠に包囲され、城兵の助命を条件に信忠に降伏する。しかし城兵は殺害され、岐阜へ連行されるとおつやの方、家老の大嶋長利・座光寺貞房と共に長良川で逆さ磔に処される。享年49

    小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)

    生年1539年または1540年
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行甲斐
    官位・役職左兵衛尉、越前守
    幼名
    法名
    別名藤乙丸、弥五郎、信有?

    小山田信茂の家族構成

    小山田信有
    兄弟小山田信有(桃隠)、信茂
    正室御宿友綱の妹
    側室
    男子
    親族

    小山田信茂の逸話

    小山田信茂の生涯

    • 1539年、もしくは1540年、生誕
    • 1565年、兄・小山田信有が病死した為、家督を継ぐ
    • 1566年、鶴瀬の佐藤与五左衛門に過所を発給している
    • 同年、武田信玄の指示で上野国へ出陣し、帰還時に信濃・海津付近から、郡内の冨士御室浅間神社・別当小佐野能秀に対して書状を送っている
    • 1567年、武田家で嫡男・義信の廃嫡事件が起きた際に、起請文を記している
    • 1568年、武田信玄による駿河侵攻の際は先陣を務め、駿河・江尻から上原へ進軍した
    • 1569年、武田信玄の駿河侵攻は甲相同盟の崩壊も招き、北条氏との争いも起こる
    • 信玄から武蔵・八王子城を攻め、小田原城・支城の滝山城での合流を指示される
    • 1570年、武田信玄による伊豆・韮山城と興国寺城攻めが行われ、山県昌景、武田勝頼と共に韮山城攻めに従軍している
    • 1572年、武田信玄は西上作戦を開始し、その際武田軍の先陣を務める
    • 1573年、徳川家康は三河・長篠城攻めを開始し、これに対して武田勝頼に後詰として武田信豊・馬場信春と共に派遣される。しかし長篠城は三河国作手国衆・奥平氏の離反もあって落城し、後詰の部隊は帰還する
    • 1575年、武田勝頼は反抗を始め、三河・足助城攻めに従軍する
    • 同年、長篠の戦いでは多くの重臣が戦死する中、武田勝頼を守りながら退却する
    • 1576年、武田信玄の葬儀の際は御剣を持った
    • 1578年、越後で上杉謙信の死後起こった、家督騒動・御館の乱が起きる。武田勝頼は上杉景勝と上杉景虎の和睦を仲介し、その際の景勝との交渉で跡部勝資・長坂光堅と共に取次を担当した。しかし徳川家康が駿河・田中城へ進軍すると勝頼は越後から撤退、その後景勝と景虎の和睦は崩れた
    • 1579年、上杉景勝が上杉景虎を攻め滅ぼすと武田勝頼は景勝と甲越同盟を成立させる。その際は引き続き上杉方との取次・交渉を担当する
    • 1582年、武田勝頼は前年から始まった織田信長の甲州征伐に対抗する為、信濃諏訪上原へ進軍しこれに従軍する。
    • 同年、武田勝頼が未完の新府城に火を放ち撤退する中、突然反逆し鉄砲を向ける。この後天目山の戦いで勝頼は滝川一益に敗れ自刃し、甲斐・武田氏は滅亡する
    • 武田氏の滅亡後、織田信長・徳川家康は甲斐を平定する。織田信長に嫡男を人質として差し出す為、甲斐善光寺へ赴き信長に拝謁しようとするが、出てきたのは信長の嫡男・織田信忠だった。信忠は武田氏を裏切ったことを厳しく非難し、処刑を命じられ、甲斐善光寺で、8歳の嫡男、老母、妻、3歳の娘と共に処刑される。享年44

    小幡 虎盛(おばた とらもり)

    小幡虎盛の肖像画
    出典:Wikipedia:小幡山城守虎盛(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1491年
    没年1561年
    主君武田信虎→武田信玄
    拠点・知行信濃
    官位・役職
    幼名孫十郎
    法名日意
    別名山城守、鬼虎

    小幡虎盛の家族構成

    小幡盛次
    兄弟虎盛、惣七郎、弥惣右衛門、貞長(光盛)
    正室
    側室
    昌盛
    親族

    小幡虎盛の逸話

    小幡虎盛の生涯

    • 1491年、生誕
    • 1500年、父・小畠日浄が武田信虎に仕官したのに伴い甲斐へ入国する
    • 1504年、父・小畠日浄が今井信是の反乱鎮圧の為に出陣し、討死すると家督を引き継ぐ
    • 1521年、今川配下・福島正成が甲斐に攻め込んでくると、原虎胤と共に先鋒として迎え撃つ
    • 1551年、武田信玄が出家すると原虎胤や真田幸隆らと共に続いて出家し日意と名乗る。以降は高坂昌信の副将として海津城に入り上杉氏に対する抑えとして活躍する
    • 1561年、病死。享年71

    小幡 昌盛(おばた まさもり)

    小幡昌盛の肖像画
    出典:Wikipedia:「甲越勇將傳武田家廾四將:小幡又兵衛國晴(歌川国芳作)」
    生年1534年
    没年1582年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃
    官位・役職
    幼名孫十郎(孫次郎?)
    法名
    別名又兵衛、豊後守

    小幡昌盛の家族構成

    小幡虎盛
    兄弟
    正室原虎胤の娘
    側室
    昌忠、在直、景憲、昌重
    親族

    小幡昌盛の逸話

    小幡昌盛の生涯

    • 1534年、生誕
    • 1561年、父・小幡虎盛が死去し家督を継ぎ、春日虎綱の補佐をする
    • 同年、第四次川中島の戦いに従軍する
    • 1569年、三増峠の戦いでは武田信玄の弟・一条信龍の部隊に所属する
    • 1582年、織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐の際は病身で従軍できず、甲斐善光寺で病死する。享年49

    三枝 昌貞(さいくさ まささだ)

    三枝昌貞の肖像画
    出典:Wikipedia:三枝勘解由左衛門尉昌貞(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1537年
    没年1575年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名宗四郎、勘解由左衛門尉、山県善右衛門

    三枝昌貞の家族構成

    三枝虎吉
    兄弟昌貞、昌次、守義、昌吉、守光
    正室山県昌景の娘?
    側室
    守吉
    親族

    三枝昌貞の逸話

    三枝昌貞の生涯

    • 1537年、生誕
    • 1561年、第四次川中島の戦いで戦功を挙げ知行を与えられる
    • 1563年、叔父・三枝守直の遺児養育と傅役 を命じられる
    • 1565年、武田信玄の嫡男・武田義信による謀反事件が発生する。その後改めて武田家臣団が信玄への忠誠を誓う起請文が信濃・生島足島神社へ奉納されているが、長坂昌国・矢島義房・佐藤民部少輔らと共に名が記されている
    • 1568年頃から山県勘解由左衛門尉を称する
    • 1568年、武田信玄の駿河侵攻の際に花沢城攻めで一番槍の戦功を挙げ、信玄から感状を受ける
    • 1575年、長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備する別動隊に弟・左衛門守義・甚太郎守光と共に配属される。しかし酒井忠次が率いる別働隊の襲撃を受け奮戦するが弟たちと共に戦死する。享年39

    土屋 昌続(つちや まさつぐ)

    土屋昌続の肖像画
    出典:Wikipedia:土屋昌続(松本楓湖作、恵林寺蔵)
    生年1545年?
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行上野箕輪
    官位・役職
    幼名平八郎
    法名道官
    別名金丸平八郎、昌次、右衛門尉

    土屋昌続の家族構成

    金丸虎義
    兄弟金丸昌直、昌続、秋山昌詮、金丸定光、昌恒、秋山源三郎
    正室
    側室
    親族

    土屋昌続の逸話

    土屋昌続の生涯

    • 1545年頃、生誕
    • 1561年、第四次川中島の戦いで真田昌幸と共に本陣に備え初陣を飾る
    • 1567年、武田義信による謀反の際は山県昌景・原昌胤・跡部勝資・曽根虎長・甘利信忠らと共に起請文の取次を務める
    • 1569年、相模・北条氏康との三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると侍大将に任じられる。同時に土屋家を継ぎ土屋昌続を名乗る
    • 同年、武田信玄の命令で馬場信春と共に忍・加藤段蔵を討ち取る
    • 1573年、三方ヶ原の戦いでは徳川十六神将の鳥居忠広を一騎打ちの末に討ち取る
    • 同年、武田信玄が阿智村駒場で死去した際には殉死しようとするが高坂昌信に説得を受け、思い留まる
    • 1575年、長篠の戦いでは真田信綱・真田昌幸と共に右翼の天神山に陣を構えるが織田勢の一斉射撃を受け戦死する。享年31

    曽根 昌世(そね まさただ)

    曽根昌世の肖像画
    出典:Wikipedia:曽根下野守昌世(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年不明
    没年不明
    主君武田信玄→武田勝頼→徳川家康→蒲生氏郷
    拠点・知行駿河興国寺城
    官位・役職下野守
    幼名
    法名
    別名

    曽根昌世の家族構成

    曽根虎長
    兄弟
    正室
    側室
    虎盛
    親族

    曽根昌世の逸話

    曽根昌世の生涯

    生年不明
    1567年、武田義信による謀反の際、乳母子であった昌世の嫡子・曽根周防守も死罪となった為、一時的に駿河に逃れるが、その後帰還する
    1568年、武田信玄の駿河侵攻における駿河・花沢城攻めで戦功を挙げる。信玄が駿河を占領すると駿河・興国寺城主を任される
    1569年、相模・北条氏康との三増峠の戦いでは撤退する武田軍の殿を務めた浅利信種の戦死後、部隊の指揮を引き継ぎ、撤退を成功させる
    1570年、伊豆韮山城攻めに従軍し、戦功を挙げる
    1575年、長篠の戦いに従軍する
    1582年、甲州征伐で武田氏が織田信長・徳川家康の連合軍に敗れると家康に従属する
    同年、本能寺の変の後起きた天正壬午の乱で武田旧臣である駒井政直などと共に武田家臣を徳川氏に味方させるべく天正壬午起請文のまとめ役となり、後北条家戦に大きく尽力する
    1590年、蒲生氏郷に仕える
    1591年、九戸政実の乱では旧武田家臣の真田信尹と共に蒲生軍として従軍する
    没年・享年不明

    真田 幸綱(さなだ ゆきつな)

    真田幸綱の肖像画
    出典:Wikipedia:長野県長野市松代町長国寺所蔵
    生年1513年
    没年1574年
    主君海野棟綱→長野業政→武田信玄
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職
    幼名次郎三郎
    法名徳斎
    別名幸隆?、源太左衛門、弾正忠、攻め弾正、鬼弾正

    真田幸綱の家族構成

    真田頼昌
    海野棟綱の娘
    兄弟綱吉、幸綱、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重
    正室恭雲院(河原隆正の妹)
    側室側室:羽尾幸全の娘
    信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    親族

    真田幸綱の逸話

    真田幸綱の生涯

    • 1513年、生誕
    • 1541年、海野平の戦い。武田信虎に敗れ、上野へ逃れる
    • 1548年、上田原の戦い。板垣信方の脇備として従軍する。この頃に武田氏に帰属して旧領地を回復している
    • 1553年、第一次川中島の戦い。葛尾城を奪回し、旧領を完全に取り戻す
    • 1556年、埴科郡東天飾城を攻め落とす
    • 1559年、晴信に続いて出家し一徳斎と号する
    • 1561年、第四次川中島の戦い。嫡男である信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲を行う
    • 1563年、上杉方の斎藤氏の居城である岩櫃城を落とす
    • 1565年、嵩山城を落とす
    • 1567年、白井城を落とす
    • 同年、病のため信綱に家督を譲り隠居する
    • 1574年、病のため戸石城で死去。享年62

    真田 信綱(さなだ のぶつな)

    真田信綱の肖像画
    出典:Wikipedia:真田源太左衛門尉(部分)
    (恵林寺蔵、松本楓湖筆)
    生年1537年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職左衛門尉
    幼名源太郎
    法名
    別名源太左衛門

    真田信綱の家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室於北様(高梨政頼の娘)
    側室
    与右衛門、信興、信光
    親族

    真田信綱の逸話

    真田信綱の生涯

    • 1537年、生誕
    • 1552年、信濃・小岩嶽城攻めで初陣を飾ったとされる
    • 1561年、第四次川中島の戦いで父・真田幸綱と共に妻女山攻めの別働隊に加わる
    • 1567年頃、家督を相続したとされる
    • 1568年、武田信玄による駿河侵攻の際、弟・真田昌輝と共に先鋒を担う
    • 1569年、三増峠の戦いでは弟・真田昌輝や内藤昌豊と共に殿を務めて戦功を挙げる
    • 1572年、武田信玄の西上作戦に従軍し、三方ヶ原の戦いで先鋒を務める
    • 1574年、父・真田幸綱が死去し、家督を継ぐ
    • 1575年、長篠の戦いでも奮戦するが織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊の銃撃で弟・真田昌輝と共に戦死する。享年39

    真田 昌輝(さなだ まさてる)

    生年1543年
    没年1575年
    主君武田信玄→武田勝頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職兵部丞、兵部少輔
    幼名徳次郎
    法名
    別名信輝

    真田昌輝の家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室相木昌朝の娘
    側室
    信正(幸明)
    親族

    真田昌輝の逸話

    真田昌輝の生涯

    • 1543年、生誕
    • 1568年、武田信玄による駿河侵攻の際、兄・真田信綱と共に先鋒を担う
    • 1569年、三増峠の戦いでは兄・真田信綱や内藤昌豊と共に殿を務めて戦功を挙げる
    • 1575年、長篠の戦いでも奮戦し、首級も挙げるが兄・真田信綱と共に戦死する。享年33

    真田 昌幸(さなだ まさゆき)

    真田昌幸の肖像画
    出典:Wikipedia:真田昌幸像(信濃真田家13代当主・幸正所蔵)
    生年1547年
    没年1611年
    主君武田信玄→武田勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
    拠点・知行信濃小県
    官位・役職従五位下・安房守
    幼名源五郎
    法名
    別名武藤喜兵衛、喜兵衛

    真田昌幸の家族構成

    真田幸綱
    恭雲院(河原隆正の妹)
    兄弟信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡
    正室山手殿(寒松院殿)
    側室
    信之、信繁、信勝、昌親
    親族

    真田昌幸の逸話

    真田昌幸の生涯

    • 1547年、生誕
    • 1553年、人質として甲斐国へ送られ、晴信の奥近習衆の一員となる
    • 1560年頃、信玄の母方大井氏の氏族武藤氏の養子となり武藤喜兵衛を名乗り、足軽大将を任じられる
    • 1564年頃、山手殿を正室に迎える
    • 1566年、甲府一蓮寺で歌会が催された際に奥近習衆として信玄の配膳役を務める
    • 1569年、三増峠の戦い。馬場信春への使番を務める
    • 1572年、三方ヶ原の戦いに従軍
    • 1573年、信玄の死後、家督を継いだ勝頼に仕える
    • 1574年、父である幸綱が死去
    • 1575年、長篠の戦い。兄である信綱、昌輝が戦死したため、真田家に戻り、家督を継ぐ
    • 1579年、勝頼の命令で北条氏の治める沼田領へ進軍する。名胡桃城と小川城を手中に収め、翌1580年に沼田城を開城させる
    • 1582年、武田氏滅亡後、織田政権に組み込まれる。滝川一益の与力武将となり、次男の信繁を人質として一益に差し出す
    • 同年、天正壬午の乱。本能寺の変後、旧武田領の統治を任されていた織田家臣団が次々に逃走。主の居なくなった旧武田領を巡り徳川家康、上杉景勝、北条氏直らが争いを始める。昌幸も策を弄して沼田城を奪還する
    • 1853年、徳川家康の命令で松尾城とその城下町を築く。同時期に根津昌綱とその近隣の武将を懐柔し、丸子氏を滅ぼす
    • 1584年、小牧・長久手の戦い。家康の隙をついて沼田、吾妻、小県を手中に収める
    • 1585年、第一次上田合戦。徳川氏との断交を決断し、進軍に備えるため上杉景勝に次男の信繁を人質に差し出す。上田上に侵攻してきた徳川軍を撃退し勝利する
    • 同年、信繁が上杉景勝の盟主である豊臣秀吉の下へ人質として移り、自身は豊臣家の臣下となる
    • 1586年、佐久へ侵攻する
    • 同年、家康が甲府へ侵攻して来るが、秀吉の仲介で取りやめられる。代わりに秀吉の命により家康の与力大名となる
    • 1587年、上坂し秀吉に謁見し名実ともに豊臣家臣となる
    • 1590年、小田原攻め。大道寺政繁の守る松井田城に攻め入る
    • 1592年、朝鮮出兵・文禄の役。肥前名護屋城に留まり、渡海することはなかった
    • 1593年、大阪へ帰還する。渡海しなかった代わりに伏見城の普請役となる
    • 1594年、今までの功労で秀吉の推挙により、自身に従五位下伊豆守、信繁に従五位下左衛門佐、ともに豊臣姓を与えられる
    • 1597年、下野宇都宮城主、宇都宮国綱が秀吉の命で改易されるとその所領の扱いを浅野長政とともに行う
    • 1600年、家康が上杉景勝討伐のため留守の間に石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13カ条の書状を送る。信幸、信繁と話し合った結果、自身と信繁は西軍に、信幸は東軍へ与することになる
    • 同年、第二次上田合戦。徳川秀忠を上田城で迎撃し、追い払う
    • 同年の関ヶ原の合戦後、家康により、信繁ともども領地没収と死罪を下される。しかし信幸とその義父である本多忠勝の助命嘆願により高野山へ拘置となる
    • 1611年、病死。享年65