真田 昌幸(さなだ まさゆき)
生年 | 1547年 |
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没年 | 1611年 |
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主君 | 武田信玄→武田勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
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拠点・知行 | 信濃小県 |
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官位・役職 | 従五位下・安房守 |
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幼名 | 源五郎 |
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法名 | |
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別名 | 武藤喜兵衛、喜兵衛 |
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真田昌幸の家族構成
父 | 真田幸綱 |
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母 | 恭雲院(河原隆正の妹) |
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兄弟 | 信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡 |
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正室 | 山手殿(寒松院殿) |
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側室 | |
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子 | 信之、信繁、信勝、昌親 |
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親族 | |
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真田昌幸の逸話
- 最初の主君である武田信玄に絶対の忠誠を誓い、生涯において敬っていた
- 筆まめだった
- 徳川家康は昌幸を警戒しており、真田が大坂城に入城した報告を受けると、「親の方か?子の方か?」と訊ね、信繁と知ると安堵したといわれる
真田昌幸の生涯
- 1547年、生誕
- 1553年、人質として甲斐国へ送られ、晴信の奥近習衆の一員となる
- 1560年頃、信玄の母方大井氏の氏族武藤氏の養子となり武藤喜兵衛を名乗り、足軽大将を任じられる
- 1564年頃、山手殿を正室に迎える
- 1566年、甲府一蓮寺で歌会が催された際に奥近習衆として信玄の配膳役を務める
- 1569年、三増峠の戦い。馬場信春への使番を務める
- 1572年、三方ヶ原の戦いに従軍
- 1573年、信玄の死後、家督を継いだ勝頼に仕える
- 1574年、父である幸綱が死去
- 1575年、長篠の戦い。兄である信綱、昌輝が戦死したため、真田家に戻り、家督を継ぐ
- 1579年、勝頼の命令で北条氏の治める沼田領へ進軍する。名胡桃城と小川城を手中に収め、翌1580年に沼田城を開城させる
- 1582年、武田氏滅亡後、織田政権に組み込まれる。滝川一益の与力武将となり、次男の信繁を人質として一益に差し出す
- 同年、天正壬午の乱。本能寺の変後、旧武田領の統治を任されていた織田家臣団が次々に逃走。主の居なくなった旧武田領を巡り徳川家康、上杉景勝、北条氏直らが争いを始める。昌幸も策を弄して沼田城を奪還する
- 1853年、徳川家康の命令で松尾城とその城下町を築く。同時期に根津昌綱とその近隣の武将を懐柔し、丸子氏を滅ぼす
- 1584年、小牧・長久手の戦い。家康の隙をついて沼田、吾妻、小県を手中に収める
- 1585年、第一次上田合戦。徳川氏との断交を決断し、進軍に備えるため上杉景勝に次男の信繁を人質に差し出す。上田上に侵攻してきた徳川軍を撃退し勝利する
- 同年、信繁が上杉景勝の盟主である豊臣秀吉の下へ人質として移り、自身は豊臣家の臣下となる
- 1586年、佐久へ侵攻する
- 同年、家康が甲府へ侵攻して来るが、秀吉の仲介で取りやめられる。代わりに秀吉の命により家康の与力大名となる
- 1587年、上坂し秀吉に謁見し名実ともに豊臣家臣となる
- 1590年、小田原攻め。大道寺政繁の守る松井田城に攻め入る
- 1592年、朝鮮出兵・文禄の役。肥前名護屋城に留まり、渡海することはなかった
- 1593年、大阪へ帰還する。渡海しなかった代わりに伏見城の普請役となる
- 1594年、今までの功労で秀吉の推挙により、自身に従五位下伊豆守、信繁に従五位下左衛門佐、ともに豊臣姓を与えられる
- 1597年、下野宇都宮城主、宇都宮国綱が秀吉の命で改易されるとその所領の扱いを浅野長政とともに行う
- 1600年、家康が上杉景勝討伐のため留守の間に石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13カ条の書状を送る。信幸、信繁と話し合った結果、自身と信繁は西軍に、信幸は東軍へ与することになる
- 同年、第二次上田合戦。徳川秀忠を上田城で迎撃し、追い払う
- 同年の関ヶ原の合戦後、家康により、信繁ともども領地没収と死罪を下される。しかし信幸とその義父である本多忠勝の助命嘆願により高野山へ拘置となる
- 1611年、病死。享年65