生年 | 1548年 |
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没年 | 1606年 |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 上野館林城 |
官位・役職 | 従五位下・式部大輔 |
幼名 | 於亀、亀丸 |
法名 | |
別名 | 小平太 |
榊原康政の家族構成
父 | 榊原長政 養父:榊原一徳斎 |
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母 | 道家氏の娘 |
兄弟 | 清政、康政 |
正室 | 大須賀康高の娘 |
側室 | 周光院(花房氏の娘) |
子 | 大須賀忠政、忠長、康勝 養子:職直(花房職秀の子) |
親族 |
榊原康政の逸話
- 榊原家は松平家の陪臣の家柄。三河仁木氏の一族と自称している
- 徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり
- 幼い頃より勉強熱心であった。また、達筆であった
- 本多忠勝とは同い年で仲が良かった
- 井伊直政とも仲が良かった
- 指揮官としての能力は、井伊直政とともに家中一の評価だった
- 隊旗には「無」の一字
- 松平信康を威圧したことがある
- 兄に清政がいるが、兄を差し置いて家督を相続している。理由は諸説ある
- 小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉の織田家乗っ取りを非難し、秀吉から10万石の賞金首とされた。が、後に秀吉は康政の態度や行動を称賛し和解している
- 元々が陪臣の家柄で立場が低かったため、家臣が少なく、館林10万石の運営は非常に困難であった
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師や家臣を派遣したが、回復には至らなかった。関ヶ原の戦いでの恩に報いる厚い待遇だった
榊原康政の生涯
- 1548年、生誕。13歳の時、徳川家康の小姓となる
- 1563年、三河一向一揆では、初陣を果たし、家康から「康」の字を与えられる
- 1566年、元服する。本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢される
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍を側面から激しく攻撃し大きな戦功を挙げる
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、浜松城撤退の前に、武田軍に奇襲を行い一矢報いる
- 1575年、長篠の戦いでは、武田家臣の名将・内藤昌豊の決死の突撃を本多忠勝とともに防ぎ徳川家康を守る
- 1581年、高天神城の戦いでは、先鋒を務める
- 1582年、徳川家康の伊賀越えに同行する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀次軍を壊滅させる
- 1586年、従五位下・式部大輔に叙位任官される
- 1590年、小田原攻めでは、先陣を務める。家康の関東移封の際、上野国館林10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、本多忠勝も同じく10万石を与えられた
- 1599年、宇喜多家中で派閥抗争が起きた際、宇喜多家臣の縁者を側室としていた関係で調停役として遣わされる。また前提として、政務実務能力の高さに定評があった
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の軍監として従軍する。秀忠の上田城攻撃の中止を進言する。本戦に遅参となり徳川家康は秀忠に激怒するが康政がとりなすことで収まる。秀忠からは大変な感謝をされたと伝わる
- 1603年、近江国5000石を在京料として加増される
- 1606年、毛嚢炎が悪化し死去する。享年59