本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
生年 | 1548年 |
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没年 | 1610年 |
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主君 | 徳川家康 |
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拠点・知行 | 上総大多喜城 |
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官位・役職 | 従五位下・中務大輔 |
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幼名 | 鍋之助 |
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法名 | |
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別名 | 平八郎、三河の鹿 |
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本多忠勝の家族構成
父 | 本多忠高 |
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母 | 小夜(植村氏義の娘) |
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兄弟 | |
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正室 | 於久の方(見星院。阿知和玄鉄の娘) |
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側室 | 乙女の方(月量院。松下弥一の娘) |
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子 | 忠政、忠朝 |
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親族 | |
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本多忠勝の逸話
- 忠勝の本多家は徳川本家の最古参の譜代家臣の家柄
- 徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将のひとり
- 妹の栄子は長束正家室。娘の小松は真田信之正室
- 黒糸威胴丸具足を身にまとい、鹿角脇立兜をかぶって、愛槍、蜻蛉切を手に戦場を駆け回った
- 愛馬の三国黒は徳川秀忠より賜ったが、関ヶ原の戦いの際、島津勢に銃撃され死亡した
- 生涯で57回の合戦に参加し、一度も傷を負うことがなかった
- 信長から、「花も実も兼ね備えた武将である」と賞された
- 秀吉から、「日本第一、古今独歩の勇士」と賞された
- 榊原康政とは同い年で仲が良い
- 本多正信を嫌っている
本多忠勝の生涯
- 1548年、生誕
- 1549年、父の忠高が戦死、叔父・本多忠真に育てられる
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れにて、初陣を飾ると同時に元服する
- 1563年、三河一向一揆では、一向宗から浄土宗に改宗し家康に従う
- 1566年、19歳の時、旗本先手役に抜擢される。以降は常に家康の居城の城下に住む
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍1万に対して単騎駆けを決行し、朝倉軍撃破の契機を作る。猛将・真柄十郎左衛門と一騎打ちで戦う
- 1572年、一言坂の戦いでは、大久保忠佐と殿軍を務め、武田家臣の名将・馬場信春から徳川家康を守る
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは武田家臣の猛将・山縣昌景を撃破する。長篠城攻めでは榊原康政とともに武田軍を撃破し長篠城は陥落する。その後長篠城守備の任にあたる
- 1582年、本能寺の変の際、徳川家康を守り伊賀越えを行い、堺から三河への撤退に成功する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、留守を任されていたが徳川軍不利の報を聞き、500騎で豊臣軍16万の前に立ち塞がる。この振る舞いにより豊臣軍の士気は下がり勝機を失った
- 1586年もしくは1588年、従五位下・中務大輔に叙位任官される
- 1590年、家康の関東移封の際、上総国大多喜10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、榊原康政も同じく10万石を与えられた
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、吉川広家を調略、本戦では僅かな手勢で90の首級を上げ、伊勢国桑名10万石に移封、上総大多喜10万石の内5万石を次男・忠政に与えられ、結果親子で15万石となる
- 1604年頃から、病がちになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかる
- 1607年、眼病に罹る
- 1609年、家督を嫡男本多忠政に譲る
- 1610年、桑名にて死去する。享年63