藤原頼通(ふじわらのよりみち)|渡邊圭祐

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    藤原頼通の肖像画
    生年992年
    没年1074年
    氏族藤原北家九条系御堂流
    官位従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮
    職業公卿
    法名蓮花覚、寂覚
    別名田鶴

    藤原頼通の家族構成

    藤原道長
    源倫子(鷹司殿、源雅信の娘)
    兄弟彰子一条天皇皇后、後一条天皇、後朱雀天皇の生母)、頼通、頼宗妍子三条天皇皇后)、顕信能信教通寛子(敦明親王妃)、威子(後一条天皇皇后)、尊子(源師房の嫡妻)、長家嬉子(後朱雀天皇皇后)、長信
    配偶者隆姫女王(具平親王の娘)、藤原永頼の娘、対の君(源憲定の娘)、藤原祇子(藤原頼成の娘)
    通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、寛子、師実
    養子:嫄子、源俊房、仁覚、信家

    藤原頼通の概要

    藤原頼通の逸話

    • 史上最年少の26歳で摂政となった
    • 50年以上関白として君臨した

    藤原頼通の生涯

    • 992年、生誕
    • 998年、童殿上となる
    • 1003年、内大臣・藤原公季の加冠で元服し頼通と名乗り、正五位下に叙任される
    • 1006年、従三位に叙任され公卿に列する
    • 1013年、権代納言に任じられる
    • 1017年、26歳ながら内大臣に任じられ、父・藤原道長に代わり摂政の宣下を受け藤原氏長者も譲られる
    • 1019年、関白となる
    • 1021年、左大臣に任じられる
    • 1023年、及び1025年、不始末により父・藤原道長から一時的に勘当される
    • 1027年、父・藤原道長が死去する
    • 1028年、平忠常の乱が起こり、鎮圧に3年を要した
    • 1029年、太政大臣・藤原公季の死去に伴い一座となる
    • 1036年、後一条天皇の崩御により、後朱雀天皇が即位するが引き続き関白を務める
    • 1045年、病に伏した後朱雀天皇から、親仁親王の次代の東宮に指名された尊仁親王は、藤原氏を外戚としない親王だった。このため親仁親王に男子が誕生した際に皇位継承を巡って争いが起こるとの建前で東宮を立てるのは時期尚早と反対する。しかし権大納言・藤原能信の懸命な懇願を受けると後朱雀天皇は尊仁親王を東宮に冊立する遺言を残して崩御する
    • 同年、後冷泉天皇が即位し、尊仁親王が東宮に立てられる
    • 1050年、娘・藤原寛子を入内させ皇子誕生を祈るが、皇子は生まれなかった
    • 1051年、陸奥で前九年の役が起きる
    • 1052年、父・藤原道長の別荘だった宇治殿を平等院鳳凰堂に改修する
    • 1061年、太政大臣となる
    • 1062年、太政大臣を辞任する
    • 同年、前九年の役が終息する
    • 1067年、関白職を辞任し、後任には弟・藤原教通が任じられる
    • 同年、准三宮となる
    • 1068年、後冷泉天皇の病の悪化に伴い、長年冷遇してきた皇太子尊仁親王の即位が避けられなくなると、引退を表明する
    • 同年、後冷泉天皇が崩御すると宇治に籠居する
    • 1072年、出家し蓮花覚、後に寂覚と名乗る
    • 1074年、死去する。享年83

    光る君への藤原頼通

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