藤原道長(ふじわらのみちなが)|柄本佑(幼少期:木村皐誠)

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    藤原道長の肖像画
    生年966年
    没年1028年
    氏族藤原北家九条系御堂流
    官位従一位・摂政、太政大臣、准三后
    職業公卿
    法名なし
    別名御堂関白

    藤原道長の家族構成

    藤原兼家
    藤原時姫(藤原中正の娘)
    兄弟道隆超子(冷泉天皇の女御、三条天皇の生母)、道綱藤原寧子の養女道兼詮子円融天皇の女御、一条天皇の生母)、道義、道長、綏子(三条天皇の御息所)、兼俊
    配偶者源倫子(鷹司殿、源雅信の娘)、源明子(高松殿、源高明の娘)、源簾子(源扶義の娘)、源重光の娘、藤原儼子(藤原為光の娘)、藤原穠子
    彰子一条天皇皇后、後一条天皇、後朱雀天皇の生母)、頼通頼宗妍子三条天皇皇后)、顕信能信教通寛子(敦明親王妃)、威子(後一条天皇皇后)、尊子(源師房の嫡妻)、長家嬉子(後朱雀天皇皇后)、長信

    藤原道長の概要

    藤原道長の逸話

    • 御堂関白と呼ばれるが、関白になったことはない
    • 父・兼家が息子たちに「藤原公任の影を踏むこともできない」と話すと、道隆と道兼は黙っていたが、道長は「面を踏んでやる」と言い放ったという

    藤原道長の生涯

    • 966年、生誕
    • 970年、摂政太政大臣・藤原実頼が死去すると伯父にあたる藤原伊尹が摂政を継ぐ
    • 972年、藤原伊尹が死去する。後継を伯父・藤原兼通と父・藤原兼家が争うが、兼通に関白が宣下される。兼通と兼家は不仲であり、その影響で兼家は不遇の時期を過ごすことになる
    • 977年、藤原兼通は死期を悟ると、関白を天皇と外戚関係のない小野宮流・藤原頼忠に譲り、父・藤原兼家の右近衛大将を格下の治部卿に落とす。この際に兼家の子息である兄・藤原道隆・藤原道兼も武官を解かれて地方官に左遷されるが、道長は幼かったため悪影響を最小限に逃れる
    • 978年、藤原頼忠により父・藤原兼家は右大臣に任官され不遇の時期を脱する
    • 980年、従五位下に叙任される
    • 983年、侍従に任じられる
    • 984年、右兵衛権佐に任じられる
    • 986年、父・藤原兼家が外孫・懐仁親王の即位を望み寛和の変を起こし、兼家は三男の蔵人左少弁・藤原道兼に花山天皇を唆させると内裏から連れ出し出家・退位させる。この時に道長は天皇の失踪を関白・藤原頼忠に報告する役割を担う
    • 花山天皇出家の翌日には幼い懐仁親王が一条天皇として即位し、兼家は外祖父として摂政に任じられる。摂政となった道長は息子らを急速に昇進させ、道長も同年中に三度の叙位を受けて従四位下・左近衛少将に叙位・任官される
    • 987年、従三位に叙任され公卿に列する
    • 同年、左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚する
    • 988年、参議を経ずに権中納言に抜擢される
    • 同年、義父・源雅信の土御門殿で長女・藤原彰子が誕生する
    • 同年、安和の変で失脚した故左大臣・源高明の娘・明子を妻に迎える
    • 990年、正三位に叙任される
    • 同年、父・藤原兼家は病気のため出家するがそのまま死去し、長男・藤原道隆が摂関を継ぐ
    • 991年、権大納言に任官される
    • 992年、従二位に叙任される
    • 994年、兄・藤原道隆は嫡男・藤原伊周を強引に昇進させ、道長を凌ぎ弱冠21歳で内大臣に引き上げる
    • 995年、兄・藤原道隆が糖尿病もしくは、はしかにより死去する
    • 同年、次兄・藤原道兼が関白を継ぐが、就任後わずか数日で病に倒れ死去し、七日関白と呼ばれる
    • 同年、兄・藤原道兼の死後まもなく内覧の宣旨が下る。これにはかねてから目をかけられていた一条天皇の母后・東三条院の推挙があった
    • 同年、右大臣に昇り、藤原伊周を上回るが争いが続いていたこともあり、摂関には就かず内覧に留まる
    • 996年、藤原伊周の弟・藤原隆家が伊周の女性関係が原因で花山法皇に矢を射かける長徳の変を起こす。この変で伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷する宣命が出されて失脚する
    • 同年、左大臣に昇進する
    • 998年頃、重い腰病を患ったため、一条天皇に辞官を要請するが受け入れられなかった
    • 999年、長女・藤原彰子が裳着を行い、従三位に叙位される
    • 同年、彰子が入内した同じ日に兄・藤原道隆の娘・藤原定子が第一皇子・敦康親王を産む
    • 1000年、長女・藤原彰子を皇后とする
    • 1001年、長女・藤原彰子が敦康親王の養母となる
    • 同年、一条天皇を土御門殿に迎えて東三条院の四十の賀を開催するが、開催後まもなく東三条院は亡くなる
    • 1002年、敦康親王が一条院内裏から道長の土御門邸に移る
    • 1003年、敦康親王が賀茂の河原で上巳の祓いを行った際、車に陪乗する
    • 同年、一条天皇からの働きかけもあり、これまで敵対していた藤原伊周の復権を進め、従二位へ叙位する
    • 1004年、敦康親王の参内の際に祓いが行われると近侍する
    • 1005年、一条天皇と敦康親王が初めて対面すると別記を残す
    • 同年、敦康親王の悩みを聞いて参内すると宿直する
    • 同年、敦康親王が石山寺に参詣すると妻・倫子を連れて介添えする
    • 同年、藤原伊周に朝儀へ参加するよう宣旨する
    • 1008年、長女・藤原彰子が土御門殿において皇子・敦成親王を出産すると、待望の孫皇子の誕生に歓喜する
    • 1009年、長女・藤原彰子が敦良親王を出産する
    • 1011年、一条天皇が病に倒れると居貞親王に譲位し出家した後に崩御する
    • 居貞親王が三条天皇として即位すると朝廷で対立していく
    • 1014年、三条天皇は失明になりかねない眼病を患い、政務に支障をきたすようになると譲位を迫る
    • 1015年、譲位の圧力に対して三条天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任するが、譲位は拒絶する。しかし新造間もない内裏が炎上する事件が起き、眼病の治る兆しもなく遂に三条天皇は屈して自らの第一皇子敦明親王を東宮とすることを条件に譲位を認める
    • 1016年、三条天皇は譲位し、東宮敦成親王が後一条天皇として即位する
    • 1017年、摂政と藤原氏長者を嫡男・藤原頼通に譲る
    • 同年、三条上皇が崩御し、敦明親王が自ら東宮辞退を申し出ると敦明親王を准太上天皇とし娘・寛子を嫁がせ厚遇する
    • 1018年、後一条天皇が11歳になると三女・威子を女御として入内させ、後に中宮とすると藤原実資に「一家立三后、未曾有なり」と驚愕される。威子の立后の日に邸宅で祝宴が催されると実資に向かって即興で「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と詠む
    • 1019年、病に倒れ出家し行観と名乗る
    • 1021年、末女・嬉子が東宮敦良親王に入侍する
    • 1025年、親仁親王を産むが死去する
    • 1028年、癌または糖尿病により死去する。享年62

    光る君への藤原道長

    • 幼少期(木村皐誠さん)は第1回「約束の月」で初登場
    • 成人期(柄本佑さん)は第2回「めぐりあい」で初登場
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