藤原彰子(ふじわらのあきこ)|見上愛
生年 | 988年 |
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没年 | 1074年 |
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氏族 | 藤原北家九条系御堂流 |
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官位 | 従三位 |
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職業 | 女御、皇后(中宮)、皇太后、太皇太后 |
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法名 | なし |
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別名 | 上東門院、大女院 |
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藤原彰子の家族構成
藤原彰子の概要
藤原彰子の逸話
- 「紫式部日記」によると肌が透き通るように美しく、髪もふさふさしていたという
- 聡明で優しく、政敵だった中関白家にも贈物など礼儀や援助をかかさなかった
- 栄華を極めながらも思慮深く賢后と評された
藤原彰子の生涯
- 988年、生誕
- 990年、袴着が行われる
- 995年、父・藤原道長が内覧の宣旨を受ける
- 999年、12歳ながら従三位に叙任され続いて一条天皇の後宮に入り、女御となる
- 1000年、一条天皇より中宮に冊立される
- 同年、藤原定子は難産で死去し、一条天皇の唯一の正室となる
- わずか13歳で第一皇子・敦康親王の養母となったため、母・源倫子が積極的に育児に関わる
- 1007年、母・源倫子が末妹・藤原嬉子を出産した際、第七夜の産養を催し、織物衣と産着を贈る
- 1008年、土御門殿で一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産する。女房であった紫式部の手による「紫式部日記」にはこの懐妊・出産の様子が詳細に記されている
- 1009年、第三皇子・敦良親王を出産する
- 同年、藤原伊周の縁者による彰子と敦成親王への呪詛が発覚する
- 1010年、藤原伊周が死去し、敦康親王は後ろ盾を完全に失うことになる
- 1011年、一条天皇が病に倒れ、藤原道長が譲位を迫り、三条天皇に譲位する
- しかし、夫や養い子がないがしろにされた一連の行為に憤慨する。さらに出家した一条天皇はそのまま崩御し大いに嘆いた
- 1012年、皇太后となる
- 1016年、敦成親王が一条天皇として即位し、藤原道長は摂政に就任する
- 1018年、太皇太后となる
- 1026年、出家し清浄覚と名乗る
- 1036年、後一条天皇が崩御する
- 1045年、後朱雀天皇が崩御する
- 1052年、重病に倒れ、弟・藤原頼通・藤原教通が病気快癒の祈りを込めて大赦を奏請し、前年から始まっていた前九年の役が一時停戦となる。
- 1074年、法成寺阿弥陀堂内にて死去する。享年87
光る君への藤原彰子