藤原能信(ふじわらのよしのぶ)

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    生年995年
    没年1065年
    氏族藤原北家九条系御堂流
    官位正二位・権大納言、贈正一位・太政大臣
    職業公卿
    法名なし
    別名閑院東宮大夫

    藤原能信の家族構成

    藤原道長
    源明子(高松殿、源高明の娘)
    兄弟彰子一条天皇皇后、後一条天皇、後朱雀天皇の生母)、頼通頼宗妍子三条天皇皇后)、顕信、能信、教通寛子(敦明親王妃)、威子(後一条天皇皇后)、尊子(源師房の嫡妻)、長家嬉子(後朱雀天皇皇后)、長信
    配偶者藤原祉子(藤原実成の娘)、藤原周子(藤原伊周の娘)
    有家
    養子:能長、茂子

    藤原能信の概要

    藤原能信の逸話

    • 若い頃から歌人として活躍した

    藤原能信の生涯

    • 995年、生誕
    • 1006年、従五位上に叙任され、侍従に任じられる
    • 1011年、従四位下に叙任される
    • 1013年、蔵人頭兼左近衛権中将に任じられる
    • 1014年、従三位に叙任され公卿に列する
    • 同年、近江にて強姦を企てた右近衛将監・藤原頼行の要請を受けると、従者を1人加勢に派遣する。しかし、二人は山科で落ち合うと間もなく口論を始め、遂には「合戦」に及び、頼行により従者は射殺される
    • 1015年、正三位に叙任される
    • 1016年、従二位に叙任される
    • 同年、大学助・大江至孝が故右京進・藤原致行の妻・観峯女を強姦しようと屋敷に押し入るが拘束され救援を要請され従者を派遣する。従者は至孝を助け出すものの、その際に1人が殺され他の従者が観峯女の屋敷で略奪を行う。この事件は父・藤原道長の逆鱗に触れ事件の翌日に弁明に向かうが追い払われる
    • 1017年、参議を経ずに権中納言に任じられる
    • 1018年、正二位に叙任される
    • 1021年、同母兄・藤原頼宗と共に権大納言となる
    • 1022年、異母弟・藤原教通と土地の所有権で争い、教通の厩舎人長を拉致監禁して暴行すると、報復に教通から従者の家を破壊される
    • 1032年、異母弟・藤原教通の息子・藤原信長の元服の際に加冠役を務める
    • 1037年、後朱雀天皇の中宮に三条天皇の皇女・禎子内親王が決まると、中宮大夫に任じられる。更に後三条天皇となる尊仁親王の後見人も引き受ける
    • 1045年、後朱雀天皇が重篤になると尊仁親王を親仁親王の皇太弟にするよう懇願し、遺詔を得る
    • 1065年、死去する。享年71

    光る君への藤原能信

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