徳川家当主と一門武将
徳川 家康(とくがわ いえやす)
徳川十六神将に数えられる武将
酒井 忠次(さかい ただつぐ)
【1527年~1596年】
松平広忠、徳川家康家臣。酒井忠親の次男。酒井家次、本多康俊、小笠原信之の父。家康の義理の叔父。通称は左衛門尉。号は一智。従四位下・左衛門督。徳川四天王、徳川十六神将のひとり。
逸話
- 忠次愛用の槍は甕通槍、刀は猪切という。
- 海老すくいという踊りを得意とし、宴席で披露することがあった。
- 長篠の戦いでは信長から「徳川の片腕」と称賛された。
生涯
- 1527年、生誕。
- 元服後、松平広忠に仕え、徳川家康の今川人質時代は家康に同行する。家康より16歳年上である。
- 1556年、居城の福谷城に侵攻した織田家臣の猛将、柴田勝家を敗走させる。
- 1560年、桶狭間の戦いの後、徳川家家老となり、三河一向一揆でも家康に従う。
- 1564年、吉田城を無血開城させ、吉田城主となり東三河の統制を任される。また、甲斐の武田信玄との同盟の間は徳川方の交渉窓口となる。
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍に突撃し戦陣の火蓋を切る。
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、小山田信茂を撃破。
- 1575年、長篠の戦いでは、鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出後、川窪信実を討ち取り、有海村の武田勢をい大いに打ち破る。
- 1579年、信康事件では、忠次は大久保忠世とともに信長への弁明の使者に立てられるが弁護できず、信康は切腹に追い込まれたとされるが、近年では信康の切腹は家康と不仲であったため、家康の意向である説が有力である。
- 1582年、本能寺の変の後は、信濃統制を担当する。
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、森長可を敗走させる。
- 1585年、同格とされる石川数正が出奔すると、徳川家筆頭の重臣とされ、翌1586年には家中で最高位である従四位下、左衛門督に叙位任官される。
- 1588年、家督を家次に譲る。眼病により目が見えなかったことが理由のひとつとされる。豊臣秀吉から1000石の在京料を与えられ、出家して一智と号したと伝わる。
- 1596年、京都にて死去。享年70。
高氏の私見
ナギサさん(大森南朋)のおかげで、2023年、一気に市民権得そうな予感(笑)結構長生きですね。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
【1548年~1610年】
徳川家康家臣。本多忠高の長男。本多忠政、忠朝の父。通称は平八郎。あだ名は三河の鹿。従五位下・中務大輔。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将のひとり。
忠勝の本多家は徳川本家の最古参の譜代家臣の家柄。
逸話
- 妹の栄子は長束正家室。娘の小松は真田信之正室。
- 黒糸威胴丸具足を身にまとい、鹿角脇立兜をかぶって、愛槍、蜻蛉切を手に戦場を駆け回った。
- 愛馬の三国黒は徳川秀忠より賜ったが、関ヶ原の戦いの際、島津勢に銃撃され死亡した。
- 生涯で57回の合戦に参加し、一度も傷を負うことがなかった。
- 信長から、「花も実も兼ね備えた武将である」と賞された。
- 秀吉から、「日本第一、古今独歩の勇士」と賞された。
- 榊原康政とは同い年で仲が良い。
- 本多正信を嫌っている。
生涯
- 1548年、生誕。
- 1549年、父の忠高が戦死、叔父の本多忠真に育てられる。
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れにて、初陣を飾ると同時に元服。
- 1563年、三河一向一揆では、一向宗から浄土宗に改宗し家康に従う。
- 1566年、19歳の時、旗本先手役に抜擢される。以降は常に家康の居城の城下に住む。
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍1万に対して単騎駆けを決行し、朝倉軍撃破の契機を作る。猛将、真柄十郎左衛門と一騎打ち。
- 1572年、一言坂の戦いでは、大久保忠佐と殿軍を務め、武田家臣の名将、馬場信春から家康を守る。
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは武田家臣の猛将、山縣昌景を撃破。長篠城攻めでは榊原康政とともに武田軍を撃破し長篠城は陥落する。その後長篠城守備の任にあたる。
- 1582年、本能寺の変の際、家康を守り伊賀越えを行い、堺から三河への撤退に成功する。
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、留守を任されていたが徳川軍不利の報を聞き、500騎で豊臣軍16万の前に立ち塞がる。この振る舞いにより豊臣軍の士気は下がり勝機を失った。
- 1586年もしくは1588年、従五位下・中務大輔に叙位任官される。
- 1590年、家康の関東移封の際、上総国大多喜10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、榊原康政も同じく10万石を与えられた。
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、吉川広家を調略、本戦では僅かな手勢で90の首級を上げ、伊勢国桑名10万石に移封、上総大多喜10万石の内5万石を次男忠政に与えられ、結果親子で15万石となる。
- 1604年頃から、病がちになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかる。
- 1607年、眼病に罹る。
- 1609年、家督を忠政に譲る。
- 1610年、桑名にて死去。享年63。
榊原 康政(さかきばら やすまさ)
【1548年~1606年】
徳川家康、秀忠家臣。榊原長政の子。大須賀忠政、忠長、榊原康勝の父。榊原清政の弟。通称は小平太。従五位下・式部大輔。上野館林藩主。徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり。
榊原家は松平家の陪臣の家柄。三河仁木氏の一族と自称している。
逸話
- 幼い頃より勉強熱心であった。また、達筆であった。
- 本多忠勝とは同い年で仲が良かった。
- 井伊直政とも仲が良かった。
- 指揮官としての能力は、井伊直政とともに家中一の評価だった。
- 隊旗には「無」の一字。
- 松平信康を威圧したことがある。
- 兄に清政がいるが、兄を差し置いて家督を相続している。理由は諸説ある。
- 小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉の織田家乗っ取りを非難し、秀吉から10万石の賞金首とされた。が、後に秀吉は康政の態度や行動を称賛し和解している。
- 元々が陪臣の家柄で立場が低かったため、家臣が少なく、館林10万石の運営は非常に困難であった。
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師や家臣を派遣したが、回復には至らなかった。関ヶ原の戦いでの恩に報いる厚い待遇だった。
生涯
- 1548年、生誕。13歳の時、家康の小姓となる。
- 1563年、三河一向一揆では、初陣を果たし、家康から「康」の字を与えられる。
- 1566年、元服。旗本先手役に抜擢される。
- 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍を側面から激しく攻撃し大きな戦功を立てる。
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、浜松城撤退の前に、武田軍に奇襲を行い一矢報いる。
- 1575年、長篠の戦いでは、武田家臣の名将、内藤昌豊の決死の突撃を本多忠勝とともに防ぎ家康を守る。
- 1581年、高天神の戦いでは、先陣を務める。
- 1582年、伊賀越えに同行する。
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀次軍を壊滅させる。
- 1586年、従五位下・式部大輔に叙位任官される。
- 1590年、小田原征伐では、先陣を務める。家康の関東移封の際、上野国館林10万石を与えられる。これは井伊直政の12万石に次ぐ石高で、本多忠勝も同じく10万石を与えられた。
- 1599年、宇喜多家中で派閥抗争が起きた際、宇喜多家臣の縁者を側室としていた関係で調停役として遣わされる。また前提として、政務実務能力の高さに定評があった。
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、秀忠軍の軍監として従軍する。秀忠の上田城攻撃の中止を進言する。本戦に遅参となり家康は秀忠に激怒するが康政がとりなすことで収まる。秀忠からは大変な感謝をされたと伝わる。
- 1603年、近江国5000石を在京料として加増される。
- 1606年、毛嚢炎が悪化し死去。享年59。
井伊 直政(いい なおまさ)
【1561年~1602年】
徳川家康家臣。井伊直親の嫡男。井伊直虎の養子。井伊直勝、直孝の父。あだ名は井伊の赤鬼。従五位下・修理大夫、従四位下・侍従。上野高崎藩主、近江佐和山藩主。徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり。
井伊家は遠江国井伊谷を本貫とする領主の家柄。直政は徳川家中では外様である。
逸話
- 大変な美男子であり、家康の寵童であったと伝わる。
- 小姓の頃、大久保忠世に同僚や部下を思いやる大切さを諭されたことがある。
- 心優しく、もてなしが丁寧であったため、外交役を多く任された。
- 妻は家康の養女、花。
- 恐妻家だった。
- 榊原康政と仲が良かった。
- 長宗我部元親と親交があった。
- 秀吉の母、大政所から、大層気に入られていた。
- 若い新参の直政は徳川家中での嫉妬は相当なものであった。
- 関ヶ原の戦いでは、先陣の抜け駆けをしたと伝わるが賛否ある。
生涯
- 1560年、桶狭間の戦いでは、井伊家当主、井伊直盛が戦死する。
- 1561年、生誕。
- 1562年、父、直親が今川氏真に謀反の嫌疑をかけられ謀殺されると、直政も今川家より命を狙われる。紆余曲折を経て、1575年、家康に小姓として仕える。
- 1581年、高天神城の戦いに参加し戦功を立てる。
- 1582年、元服。伊賀越えに同行する。天正壬午の乱では、北条家との交渉役を任ぜれらる。徳川家が武田家を併呑すると、旗本先手役の侍大将となり、武田家臣の多くを麾下の置くこととなる。直政の軍は「井伊の赤備え」と呼ばれる。
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、初めて赤備えを率いて戦功を立て、その名を内外に轟かせる。修理大夫に任官される。
- 1585年、真田攻めの軍の撤退を指揮する。
- 1586年、徳川家が豊臣家に臣従する。秀吉より従五位下に叙位され、豊臣姓を与えられる。
- 1588年、聚楽第行幸の際、侍従に任官され、徳川家臣の中で唯一、昇殿を許される。
- 1590年、小田原征伐では、夜襲をかけ小田原城内に攻め込む。城内に入った唯一の将として高く評価される。
- 1591年、九戸政実の乱では、先鋒を務める。
- 1598年、秀吉が没すると、多数の豊臣系大名と交渉を行い、味方に引き入れることに成功した。
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、家康本陣に随行、本多忠勝とともに東軍の軍監に任ぜられる。また、稲葉貞道、加藤貞泰、京極高次、関一政、竹中重門、相良頼房、犬童頼兄を調略した。本戦終盤では島津豊久を討ち取るが、足を狙撃される。決戦後、負傷した身でありながら、戦後処理に尽力する。西軍総大将の毛利輝元との交渉役を任ぜられ、毛利家の周防、長門の安堵を取りまとめ、毛利家より厚い信任を受ける。また、島津家、真田家との交渉も行っている。これらの軍事的、外交的実績から、近江国佐和山18万石を与えられ、従四位下に叙位される。
- 1602年、関ヶ原の戦いでの鉄砲傷が原因で死去。享年42。
高氏の私見
こういうタイプの方、会社にもいますね。若くてイケメンでめっちゃ仕事できて上司や取引先に気に入られる。同僚から嫌われる要素しかありません。おそらく相当な嫌がらせを受けたことだと思います。一見、華やかな人生に見えますが、悩みの多い人生だったのではないでしょうか。
それでも屈せず、圧倒的な実績を作って家中で大出世を遂げる。素晴らしいですね。
後世、人気が出るのも当然です。
米津 常春(よねきつ つねはる)
【不明~1612年】
松平広忠、徳川家康家臣。米津勝政の子。米津正勝の父。別名は藤蔵。徳川十六神将のひとり。
米津家は松平家の譜代の家柄。
逸話
- 生涯で戦功は18度、一番槍は13度、手傷73か所。
- 3000石を領した。
- 若い頃に眼病を患い、後年失明した。
生涯
- 生年不明。
- 1549年、安城合戦では、織田信長の兄、織田信広を捕縛したといわれる。
- 1560年、桶狭間の戦いでは丸根砦攻めに参加。
- 1564年、赤坂の戦いに従軍する。
- 1612年、江戸にて死去。
高木 清秀(たかぎ きよひで)
【1526年~1610年】
水野信元、織田信秀、信長、徳川家康家臣。高木宣光の子。高木光秀、正次の父。通称は主水助。徳川十六神将のひとり。
逸話
- 石瀬合戦では石川数正と7度槍を交えたという。
- 松永攻め、有岡攻めでも活躍したという。
- 長篠の戦いでは武田家臣の猛将、真田昌輝と槍を合わせたと伝わる。
生涯
- 1526年、生誕。はじめ信元に仕える。
- 1548年、織田信秀家臣として第二次小豆坂の戦いで戦功をあげた。その後、再び信元に仕え歴戦する。
- 1563年、三河一向一揆では、信元に従い一揆勢と奮戦し、その功により家康からも報償を与えられる。
- 1574年、第三次伊勢長島攻めでは、嫡男光秀を失うも、敵方の首魁である盛林坊を討ち取り武名を轟かせる。
- 1575年、信元が武田内通により信長に誅殺されると、織田家臣、佐久間信盛の与力となる。
- 1576年、大坂攻めでは、信盛に従い天王寺城に入り一揆勢と戦う。
- 1580年、信盛が織田家より追放されると、織田家直臣となったと推察される。
- 1582年、本能寺の変にて、信長が死去したのを契機に家康の家臣となる。
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍する。
- 1590年、小田原征伐に参加し、5000石を与えられる。
- 1594年、家督を正次に譲り、相模国海老名で隠居する。
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、隠居の身であったが、徳川秀忠に伺候し羽織を賜ったとされる。
- 1610年、死去。享年85。
高氏の私見
変わった遍歴。めっちゃ強かったんでしょうね。
内藤 正成(ないとう まさなり)
【1528年~1602年】
松平広忠、徳川家康家臣。内藤忠郷の子。内藤正定、正成(右京進)本多正盛の父。内藤忠政の兄。別名は甚一郎。徳川十六神将のひとり。
逸話
- 徳川家中随一の弓の使い手で、「軍神四郎左兵衛門」と畏怖された。
- 一矢で2人を射抜いたことがあるという。
- 武田家からも恐れられていた。
- 武功に対して俸禄が少ないのは家中の文治派との政争に敗れたからと考えられる。
- 本多忠勝を「かす」と罵ったことがある。
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師、久志本右京亮常衡を付ける。破格の待遇であったが回復には至らなかった。
生涯
- 1528年、生誕。
- 1548年、第二次小豆坂の戦いで戦才をみせ、織田方200名を死傷させ戦局を左右させたと伝わる。
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れに従軍する。
- 1563年、三河一向一揆では、家康に従い、自身の舅である石川氏を弓で射る。また、一揆方の勇将、渡辺高綱を討ち取る。
- 1573年、三方ヶ原の戦いに従軍する。
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国埼玉郡に5000石を与えられる。
- 1602年、病のため死去。享年75。
大久保 忠世(おおくぼ ただよ)
【1532年~1594年】
松平広忠、徳川家康家臣。大久保忠員の子。大久保忠隣の父。大久保忠佐、忠教の兄。相模小田原藩祖。徳川十六神将のひとり。
大久保家は松平家の最古参の譜代家臣の家柄。
逸話
- 戦で崖から落とされたことがある。が、そのまま這い上がり敵兵3人を一度に切った。
- 本多正信の帰参を助けた。
- 月に7日間、絶食をし倹約に努めた。
生涯
- 1532年、生誕。
- 1563年、三河一向一揆では、家康に従い戦功を立てる。
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは、既に勝敗は決していたが、夜に武田軍の陣に銃撃を行い混乱に陥れ、武田信玄より賞賛されたと伝わる。
- 1575年、長篠の戦いでは、弟、忠佐とともに戦功を立て、織田信長から賞賛され、家康からほら貝を与えられる。また、二俣城の城主に任ぜられる。
- 1582年、本能寺の変後、家康が甲斐、信濃を攻略すると、信州惣奉行として小諸城に在番する。
- 1585年、上田合戦では、真田昌幸に大敗を喫する。
- 1590年、家康の関東移封の際、相模小田原4万5000石を与えられる。
- 1594年、死去。享年63。
大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)
【1537年~1613年】
松平広忠、徳川家康家臣。大久保忠員の子。大久保忠兼の父。大久保忠世の弟。通称は治右衛門。駿河沼田藩主。徳川十六神将のひとり。
逸話
- 兄の忠世とともに、敵にまとわりつくという意味で、「膏薬」と賞された。
- 戦場で傷を負ったことがない。
- 息子2人が早世したため、後継ぎがおらず、沼津藩は改易となった。
生涯
- 1537年、生誕。
- 1572年、一言坂の戦いでは、本多忠勝と殿軍を務める。
- 1575年、長篠の戦いで戦功を立てる。
- 1584年、小牧・長久手の戦いで戦功を立てる。
- 1590年、家康の関東移封の際、上総国茂原5000石を与えられる。
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従い、真田昌幸に翻弄される。
- 1601年、駿河国沼津2万石を与えられ、沼津城を居城とする。
- 1613年、死去。享年77。
蜂屋 貞次(はちや さだつぐ)
【1539年~1564年】
徳川家康家臣。通称は半之丞。徳川十六神将のひとりとされる場合がある。
蜂屋家は美濃源氏の一族という。
生涯
- 1539年、生誕。
- 1560年、桶狭間の戦いでは、家康に従って丸根砦を攻める。織田方の水野信元が侵攻してきた際、反撃して戦功を立てる。
- 1563年、吉田城攻めでは、渡辺守綱とともに戦功を立てる。三河一向一揆では、渡辺守綱とともに一揆方に加勢する。徳川方の水野忠重と戦う。
- 1564年、家康に許され再び従うが、第二次吉田城攻めで鉄砲で撃たれ負傷し戦死する。享年26。
植村 家存(うえむら いえさだ)
【1541年~1577年】
徳川家康家臣。植村氏明の子。植村家次の父。通称は新六郎。出羽守。徳川十六神将のひとりとされる場合がある。
植村家は土岐家の末裔と称する。
逸話
- 酒井忠次、石川家成、石川数正らとともに、家老、旗本先手役の立場にあった。
- 上杉家、武田家に勇名が轟いていた。
生涯
- 1541年、生誕。
- 1549年、家康に仕える。
- 1552年、父、氏明が死去したため家督を相続する。
- 1562年、清州同盟の際、家康の護衛で清州城に同行する。家康の刀を持って入室しようとし、織田方の警固役に咎められるが一喝し、織田信長から、前漢の猛将、樊噲に似ていると称賛され二振りの太刀を与えられる。
- 1572年、織田家と上杉家の同盟の仲立ちを行い、上杉謙信から刀と具足を贈られる。
- 1577年、死去。享年37。
鳥居 元忠(とりい もとただ)
【1539年~1600年】
徳川家康家臣。鳥居忠吉の子。鳥居忠政の父。鳥居忠広の兄。下総矢作藩祖。徳川十六神将のひとり。
鳥居家は松平家の譜代家臣の家柄。
逸話
- 一説では、元忠の「元」の字は今川義元から偏諱を与えられたと考えられている。
- 家康の三河統一後、旗本先手役に任ぜられた。
- 散り様は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と賞賛された。
- 元忠の子孫には問題を起こす者が2人いたが、いずれも元忠の勲功に免じて断絶は免れた。
生涯
- 1539年、生誕。
- 1551年、家康の人質時代に側近として仕える。
- 1558年、寺部城攻めに従軍する。
- 1570年、姉川の戦いに従軍する。
- 1572年、家督を相続する。
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、足を負傷し、障害が残る。
- 1575年、長篠の戦いでは、石川数正とともに馬防柵を設営する。
- 1581年、高天神城の戦いに従軍する。
- 1582年、天正壬午の乱では、北条氏忠、氏勝軍1万を2000の兵で撃退する。戦後、甲斐国都留郡与えられる。
- 1585年、上田合戦では、真田昌幸に大敗する。
- 1590年、小田原征伐に従軍する。家康の関東移封の際、下総国矢作4万石を与えられる。
- 1599年、領国矢作で検地を行う。
- 1600年、伏見城の戦いでは、戦略上、囮とした伏見城を預かり、少ない手勢で西軍と戦い戦死。享年62。
鳥居 忠広(とりい ただひろ)
【不明~1573年】
徳川家康家臣。鳥居忠吉の子。鳥居元忠の弟。徳川十六神将のひとり。
生涯
- 生年不明。
- 1563年、三河一向一揆では、一揆方に加勢する。後に帰参する。
- 1573年、三方ヶ原の戦いで、殿軍を務め、武田二十四将の土屋昌続と一騎打ちの末、討ち取られる。
渡辺 守綱(わたなべ もりつな)
【1542年~1620年】
徳川家康、義直家臣。渡辺高綱の子。渡辺重綱の父。通称は半蔵。あだ名は槍半蔵。徳川十六神将のひとり。
三河渡辺家は松平家譜代の家柄。
逸話
- 家康とは同い年。
- 同じ半蔵である服部正成とよく引き合いに出される。
生涯
- 1542年、生誕。
- 1562年、三河国八幡の合戦では、殿軍で奮戦し、槍半蔵と呼ばれることとなる。
- 1563年、三河一向一揆では、蜂屋貞次とともに一揆方に加勢するが敗北し、再び家康に仕える。
- 1570年、姉川の戦いでは旗本一番槍。
- 1573年、三方ヶ原の戦いでは、先鋒を務める。
- 1575年、長篠の戦いでは先鋒を務める。山本勘助の嫡子、山本管助を討ち取る。
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務める。
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国比企3000石を与えられる。
- 1600年、長年の功績により1000石を加増。騎馬同心30人の給分6000石を付属させられ足軽100人の組頭となる。
- 1608年、家康の9男、義直の付家老に任ぜられ、尾張国岩作5000石、三河国寺部5000石を加増される。以降寺部城を居城とする。
- 1614年、大坂冬の陣では義直の後見として従軍する。
- 1615年、大坂夏の陣でも義直の後見として従軍する。
- 1620年、名古屋にて死去。享年79。
平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)
【1542年~1612年】
徳川家康、義直家臣。平岩親重の子。従五位下・主計頭。上野厩橋藩主、尾張犬山藩主。徳川十六神将のひとり。
平岩家は松平家の譜代家臣の家柄。
逸話
- 家康とは同い年。
- 私欲が無く、豊臣秀吉からの黄金100枚の祝儀を受け取らなかった。本多忠勝と、井伊直政は受け取り、榊原康政は受け取るべきか家康に相談した。
- 正直で、私心がなく、家中での人望は厚かった。
- 親吉には嗣子がおらず、家康の8男、仙千代を養嗣子としてもらい受けたが、仙千代は1600年に夭折した。
生涯
- 1542年、生誕。
- 1547年、家康の小姓として駿府へ送られる。
- 1558年、初陣を飾る。
- その後、三河、遠江攻略で戦功を立て、徳川信康が元服すると傅役となる。
- 1579年、信康が切腹すると、責任を感じ蟄居する。後年、家康により直臣として復帰する。
- 1576年、三河大樹寺にて、水野信元親子を誅殺する。
- 1582年、本能寺の変後、甲斐国甲府城の築城を始める。また、甲斐の郡代を任じられる。
- 1590年、小田原征伐で戦功を立てる。家康の関東移封の際、上野厩橋3万3000石を与えられる。
- 1601年、甲斐甲府6万3000石に移封される。
- 1603年、幼少の義直が甲斐25万石に封ぜられると、代理として現地の統治を行う。
- 1607年、義直が尾張藩主となると附家老を任ぜられ藩政を執る。尾張犬山12万3000石に移封される。
- 1611年、名古屋城にて死去。享年70。
服部 正成(はっとり まさなり)
【1542年~1597年】
徳川家康家臣。服部保長の子。服部正就の父。通称は半蔵。あだ名は鬼半蔵。石見守。徳川十六神将のひとり。
服部家は松平家の譜代家臣の家柄。
逸話
- 本人は忍者ではない。また、伊賀忍者の頭領でもないが、忍者を思わせる戦闘術の使い手であった。
- 同じ槍の名手として、よく渡辺守綱の引き合いに出される。
- 父、保長が伊賀出身の忍者であったため、伊賀同心が徳川家に召し抱えられた際に統率する立場となった。
- 伊賀同心は徳川家の直臣ではなく、服部家の家臣となることを不満に思っていた。
生涯
- 1542年、生誕。
- 1548年、大樹寺に預けられる。
- 1551年、出家を拒否。以後7年間の消息は不明。
- 1557年、上ノ郷城を夜襲し戦功を立てたと伝わるが、どのような戦功かは不明。この戦功により槍を拝領する。
- 1560年の桶狭間の戦い以降、渡辺守綱と同じく、旗本馬廻衆に属する。
- 1563年、三河一向一揆では、一向宗であるにも関わらず、家康に従い一揆方と戦う。
- 1569年、掛川城攻めに従軍する。
- 1570年、姉川の戦いでは、若い将兵の育成を任せられる。また姉川堤で一番槍の戦功を立てる。
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは、大須賀康高隊に属し一番槍の戦功を立てる。戦には敗戦したが奮闘を称えられ槍二穂を拝領し、伊賀衆150人を預けられる。
- 1575年、長坂信政の娘を正室に迎える。高天神城攻めに従軍する。
- 1579年、徳川信康が自刃に追い込まれた際、検使に遣わされる。介錯を命じられたが感情的に遂行できなかった。このことで、家康からはより一層の信用を受けた。
- 1582年、伊賀越えに同行し、先祖の縁から、伊賀、甲賀の土豪との交渉役を務める。一揆の襲撃に遭い家康を守り大怪我を負う。天正壬午の乱に従軍し、天神ヶ尾砦の陥落に功があり家康から賞賛される。
- 1590年、小田原征伐では、鉄砲奉行として従軍し18の首級を挙げる。
- 1592年、肥前名護屋へ従軍する。
- 1597年、病のため死去。享年55。
松平 康忠(まつだいら やすただ)
【1546年~1618年】
徳川家康、信康、秀忠家臣。松平政忠の子。松平康直の父。徳川家康の従弟。通称は源七郎。徳川十六神将のひとりとされる場合がある。
逸話
- 松平張忠の子で同姓同名の武将がいる。
生涯
- 1546年、生誕。
- 1560年、桶狭間の戦いでは、父、政忠が戦死すると、母、碓井姫は酒井忠次に再嫁する。
- 1562年、元服。三河国宝飯1810貫文の知行を受ける。
- 1570年、姉川の戦いでは、義父、忠次に属して従軍する。
- 1575年、長篠の戦いでも、義父、忠次に属して従軍し、長篠城を開放する。
- 1579年時点では、信康の家老であったが、信康の自刃により蟄居。後に許され家康の直臣となる。
- 1582年、伊賀越えに同行する。
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍する。
- 1588年、嫡子、康直に家督を譲り京都で隠居する。
- 1593年、康直が急逝すると、生後間もない家康の7男、松千代が康直の養子となる。
- 1599年、松千代が6歳で夭折。松千代の兄、松平忠輝が後を継ぐ。
- 1618年、死去。享年73。
松平 家忠(まつだいら いえただ)
【1555年~1600年】
徳川家康家臣。松平伊忠の子。松平忠利の父。通称は又八。徳川十六神将のひとりとされる場合がある。
逸話
- 家忠の記した「家忠日記」は貴重な資料として現存している。
- 忠吉の成人後は下総国小見川に移封された。
生涯
- 1555年、生誕。
- 1575年、長篠の戦いでは、父、忠利に従い参加するが忠利が戦死し、家督を相続する。その後も主要な合戦には従軍するが、戦闘よりも、付城の普請などを担当することが多かった。
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国埼玉1万石を与えられる。また、幼少の松平忠吉の忍城を預かる。
- 1600年、伏見城の戦いで戦死。享年46。