源雅信(みなもとのまさのぶ)|益岡徹
生年 | 920年 |
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没年 | 993年 |
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氏族 | 宇多源氏始祖 |
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官位 | 従一位・左大臣 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | 覚実 |
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別名 | 一条左大臣、鷹司左大臣 |
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源雅信の家族構成
父 | 敦実親王 |
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母 | 藤原時平の娘 |
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兄弟 | 寛信、寛朝、雅信、重信、雅慶 |
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配偶者 | 源公忠の娘、藤原穆子(藤原朝忠の娘)、藤原元方の娘、藤原為光の娘 |
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子 | 時中、扶義、済信、倫子(藤原道長の嫡妻)、時通、時叙、時方、中の君(藤原道綱室)、通義、済時、致平親王妃、藤原定時室 |
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源雅信の概要
源雅信の逸話
- 父・敦実親王が琵琶の名手であり、自身も蹴鞠や和歌、雅楽にも長けていた
- 堅物な性格であり、村上天皇からはやや煙たがられていた
源雅信の生涯
- 920年、生誕
- 936年、従四位下に叙任される
- 938年、侍従に任じられる
- 942年、右近衛権中将に任じられる
- 945年、従四位上に叙任される
- 948年、蔵人頭に任じられる
- 951年、参議に任じられ、公卿に列する
- 955年、正四位下に叙任される
- 962年、従三位に叙任される
- 968年、正三位に叙任される
- 969年、円融天皇が即位し、信頼を得て以後、昇進が進む
- 970年、権中納言、続いて中納言に任じられる
- 972年、大納言に任じられる
- 977年、右大臣に任じられる
- 985年、今まで通り政務に励むが、高齢による足腰の不調を訴えるようになる
- 986年、娘・倫子を嫁がせようとした花山天皇が藤原兼家の起こした寛和の変で退位する
- 987年、自身は反対したが、妻・藤原穆子の後押しもあり、娘・倫子が藤原道長に嫁ぐ
- 989年、一条天皇の春日大社行幸が、陰陽頭・賀茂光栄の勘文を受けた円融法皇の命令で延期の宣旨が出されるが、これに藤原氏出身の公卿・弁官が反発する中、上卿として奉行する
- 991年、病のため勅許を得ずに辞任し、出家するとその翌日に死去する。享年74
光る君への源雅信