藤原兼通(ふじわらのかねみち)
生年 | 925年 |
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没年 | 977年 |
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氏族 | 藤原北家九条流 |
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官位 | 従一位・関白、太政大臣、贈正一位 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 忠義公(漢風諡号)、遠江公(国公) |
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藤原兼通の家族構成
父 | 藤原師輔 |
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母 | 藤原盛子(藤原経邦の娘) |
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兄弟 | 伊尹、兼通、安子、兼家、遠量、忠君、遠基、遠度、登子、源高明室、高光、愛宮、為光、尋禅、深覚、公季、怤子、繁子、源重信室 |
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配偶者 | 昭子女王(元平親王の娘)、大江皎子(大江維時の娘)、能子女王(有明親王の娘)、平寛子(平時望の娘)、藤原有年の娘 |
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子 | 顕光、媓子、時光、朝光、遠光、正光、婉子、親光、用光 |
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藤原兼通の概要
藤原兼通の逸話
- きらきらと輝くような美しい容姿をしていたといわれる
藤原兼通の生涯
- 925年、生誕
- 943年、従五位下に叙任される
- 946年、村上天皇の即位後、侍従に任じられる
- 948年、左兵衛佐に任じられる
- 955年、左近衛少将に任じられる所生の東宮・憲平親王に仕える
- 同年、父・藤原師輔が死去する
- 967年、蔵人頭兼内蔵頭に任じられる
- 同年、村上天皇が崩御して冷泉天皇が即位すると共に、蔵人頭を弟・藤原兼家と交代する。
- 兼通の昇叙は7年ぶりだったが、この1年に兼通は三度の昇叙を受けて一挙に従三位に昇っており位階面で先を越されてしまい、以降も兼通との官位の逆転状態が続き、これが後まで続く、二人の不和の原因になったとされる
- 969年、従三位・参議に叙任され公卿に列する
- 972年、兄・藤原伊尹が病に倒れ危篤に陥ると辞意を示す上表を行う。それを知った兼通と兼家は円融天皇の御前で後任を巡って口論を始める有様だった
- 兼通は妹である天皇の母后・安子が生前に記した「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従って補任すること」を奉り、それを見た天皇は亡き母の遺命に従う
- 伊尹が死去すると権中納言から一挙に内大臣に引き上げらる
- 973年、長女・藤原媓子を入内させると間もなく中宮とする
- 974年、藤原頼忠に代わって藤氏長者となり、正二位・関白太政大臣に叙任される
- 975年、従一位に叙任される
- 977年、重い病に倒れる。家人より東三条第から車がやって来ると報を受け、兼家が見舞いに来ると察すると来訪を待っていたが、兼家の車は門前を通過して内裏へ行ってしまう。これを知ると激怒して立ち上がり、危篤状態ながら参内し、最後の除目を行うと宣言し、左大臣・藤原頼忠を自分の後任の関白とし、兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格させる。それから間もなく死去する。享年53
光る君への藤原兼通