藤原顕光(ふじわらのあきみつ)|宮川一朗太
生年 | 944年 |
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没年 | 1021年 |
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氏族 | 藤原北家九条流 |
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官位 | 従一位・左大臣 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 堀河左大臣、悪霊左府 |
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藤原顕光の家族構成
父 | 藤原兼通 |
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母 | 昭子女王(元平親王の娘) |
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兄弟 | 顕光、媓子、時光、朝光、遠光、正光、婉子、親光、用光 |
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配偶者 | 盛子内親王(村上天皇第五皇女)、藤原遠量の娘 |
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子 | 重家、元子、延子、重慶、顕忠 |
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藤原顕光の概要
藤原顕光の逸話
- 調停の儀式で失敗を重ね、世間から無能者と言われた
- 藤原道長の娘たちが立て続けに亡くなったのは顕光の祟りとされ、悪霊左府と呼ばれた
藤原顕光の生涯
- 944年、生誕
- 961年、従五位下に叙任される
- 973年、従五位上・左衛門佐に叙任される
- 974年、正五位下・蔵人頭に叙任される
- 975年、従四位下・参議に叙任され公卿に列するが、弟・藤原朝光は権中納言となっており、官位では追い抜かれる
- 977年、権中納言へ昇進する
- 995年、都で疫病が流行し、大納言だった弟・藤原朝光が病死する。この疫病で朝光以外の管人が多数死去したため、権大納言に昇進する
- 996年、娘・藤原元子を一条天皇に女御として入内させる
- 997年、娘・藤原元子は懐妊し、産気づくが水が流れるばかりで赤子は生まれず、元子共々世間の嘲笑を受ける
- 1008年、中宮となっていた藤原道長の娘・藤原彰子が後一条天皇となる敦成親王を出産し、顕光が外戚となる可能性はほぼ無くなる
- 1011年頃、未亡人となっていた娘・藤原元子が参議・源頼定と恋仲となり、激怒して勘当し無理やり尼にさせようとするが、元子は頼定と駆け落ちし後に娘を二人儲ける
- 1016年、三条天皇の譲位に伴う固関・警固の儀式が行われた際に儀式の主催を買って出るが、藤原道長には老齢な上に無能な顕光が取り仕切ることに不安を感じて婉曲に断られる。最終的に反対を押し切り引き受けるが、結果は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿らの嘲笑を買う
- 1017年、藤原道長が辞任して空席になった左大臣となる
- 同年、三条天皇が崩御すると間もなく敦明親王は自ら東宮の辞退を申し出る。すると藤原道長は敦明親王に報いるために上皇待遇として小一条院の称号を与え、さらに娘・藤原寛子を娶らせる。結果、敦明親王は延子と幼い敦貞親王を捨てて、寛子の許へ去ってしまい、夫を奪われた顕光の娘・藤原延子は絶望し、間もなく病死する。この事件で一夜にして白髪となり、道長を恨み道摩法師呪詛させたという
- 1021年、従一位に叙任される
- 同年、死去する。享年78
光る君への藤原顕光