花山天皇(かざんてんのう)|本郷奏多(幼少期:伊藤駿太)

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    花山天皇の肖像画
    生年968年
    没年1008年
    氏族天皇家
    官位第65代天皇
    職業なし
    法名入覚
    別名師貞親王、華山院

    花山天皇の家族構成

    冷泉天皇(憲平親王)
    藤原懐子(藤原伊尹の娘)
    兄弟宗子内親王、尊子内親王、花山天皇(師貞親王)、光子内親王、三条天皇(居貞親王)、為尊親王、敦道親王
    義兄弟:永平親王(村上天皇第十皇子)、清仁親王(実子)、昭登親王(実子)
    配偶者女御:藤原忯子藤原為光の娘)、藤原姚子(藤原朝光の娘)、藤原諟子(藤原頼忠の娘)、婉子女王(為平親王の娘)
    愛妾:中務(平祐之の娘)、平平子(平祐忠と中務の娘)
    清仁親王、皇女、皇女、昭登親王、皇女、皇女、覚源、深観

    花山天皇の概要

    花山天皇の逸話

    • 破天荒な行いで知られるが、一方で絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能にも恵まれていた
    • 法皇となった後に伊国熊野から宝印の33の観音霊場を巡礼し修行に勤め、この観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在にも伝わっている

    花山天皇の生涯

    • 968年、生誕
    • 969年、叔父である円融天皇の即位と共に皇太子となる
    • 984年、円融天皇が譲位すると花山天皇として即位する。関白は先代に引き続き藤原頼忠が就任する
    • 985年、寵愛した女御・藤原忯子が死去し深く嘆き悲しむ。出家し忯子を供養したいと申し出るが、藤原義懐は花山天皇の性格から一時的なものであると見抜き、藤原惟成や藤原頼忠と共に説得し翻意させる
    • 986年、宮中を出て出家し退位する。これには女御・藤原忯子死去に伴い、藤原兼家が起こした寛和の変が引き金と言われる
    • 996年、中関白家の内大臣・藤原伊周が足繁く通っていた藤原為光の三女・三の君と同じ屋敷に住む藤原忯子の妹・四の君の元へ通いだしてたが、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の藤原隆家に相談する。隆家は従者を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く事件を起こす。法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり引き籠っていたが事件を藤原道長に利用され、伊周・隆家はそれぞれ左遷される
    • 1008年、花山院の東対にて崩御する。死因は悪性腫瘍と言われる。享年41

    光る君への花山天皇

    • 幼少期(伊藤駿太さん)は第1回「約束の月」で初登場
    • 成人期(本郷奏多さん)は第2回「めぐりあい」で初登場
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