藤原道綱(ふじわらのみちつな)|上地雄輔
生年 | 955年 |
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没年 | 1020年 |
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氏族 | 藤原北家九条流 |
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官位 | 正二位・大納言 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 傅大納言 |
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藤原道綱の家族構成
藤原道綱の概要
藤原道綱の逸話
- 母である藤原寧子が著した「蜻蛉日記」では「大人し過ぎるおっとりとした性格である」と記されている
- 弓の名手だったといわれる
藤原道綱の生涯
- 955年、生誕
- 969年、円融天皇の即位に伴い、童殿上となる
- 970年、従五位下に叙爵される
- 974年、右馬助に任官される
- 977年、左衛門佐となるが、関白・藤原兼通が道綱の父である藤原兼家の右近衛大将を解いて治部卿に左遷すると、道綱も土佐権守へ左遷される
- 978年、父・藤原兼家が右大臣に任官され復権すると、まもなく左衛門佐に戻る
- 983年、左近衛少将に任官される
- 986年、花山天皇が開催した寛和二年内裏歌合に末弟・藤原道長と共に出席するが、この際に詠んだ和歌は母・藤原寧子による代作と言われる
- 同年、寛和の変により一条天皇が即位すると、父・藤原兼家は摂政・藤氏長者となり、道綱は五位蔵人となる
- 987年、従三位に叙任され、公卿に列する
- 990年、正三位に叙任される
- 991年、参議に任官され、長男・藤原道隆、三男・藤原道兼、五男・藤原道長に遅れながらも議政官に列する
- 996年、弟・藤原道長が長徳の変を経て権力を掌握するとそれに伴い中納言に昇進する
- 997年、大納言に任じられる
- 1000年、従二位に叙任される
- 1001年、右大将を辞任するが正二位に叙任され、筆頭大納言となる
- 1012年、藤原妍子が三条天皇の中宮に冊立されると中宮大夫を兼任する
- 1018年、藤原妍子が皇太后になると、皇太后宮大夫となり引き続き妍子に仕える
- 1020年、病に倒れると法性寺で出家し、藤原道長の見舞いも受けるが、死去する。享年66
光る君への藤原道綱