源満仲(みなもとのみつなか)

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    源満仲の肖像画
    生年912年?
    没年997年
    氏族清和源氏基経流
    官位正四位下・左馬助、鎮守府将軍、上総介、常陸介、武蔵守、摂津守、越後守、越前守、下野守、美濃守、信濃守、伊予守、陸奥守
    職業殿上人
    法名満慶
    別名明王丸、多田満仲

    源満仲の家族構成

    源基経(基経王)
    橘繁古の娘
    兄弟満仲、満政、満季、満実、満快、満生、満重(満成)、満頼、源元亮室、藤原惟岳室
    配偶者源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘
    頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞、頼範、頼尋、源賢(賢快)、藤原頼親室、源敦室、藤原道綱
    養子:孝道(源元亮の子)

    源満仲の概要

    源満仲の逸話

    • 清原元輔と交流があり、元輔が肥後守として赴任する際に交わした歌が拾遺和歌集に入っている

    源満仲の生涯

    • 912年、生誕
    • 960年、平将門の子が京都へ入ったという噂があり、検非違使や大蔵春実らと共に捜索を命じられる
    • 961年、自宅に強盗が入り、、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえる。弘重の供述によると醍醐天皇の皇孫・親繁王と清和天皇の皇孫・源蕃基がそれぞれ主犯と共犯だった
    • 969年、安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王廃太子の謀反があると密告する。
    • この事件で左大臣・源高明が失脚するが、満仲は高明の一派でありながら、裏切り密告したとの噂がある
    • 同年、密告の恩賞により正五位下に叙任される
    • その後は、藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に任じられる
    • 973年、官職につき、富も得たことを他の武士から嫉妬され、左京一条にあった自邸を武装した集団に襲撃され、放火される。この火災はは周辺の建物300軒から500軒にまで延焼し、弟・源満季が嫌疑人を捕らえたが、実行犯については明らかにならなかった
    • その後は二度国司を務めた摂津に土着し、多田盆地に入り所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成する
    • 986年、寛和の変では花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護する
    • 987年、多田の邸宅で郎党16人及び女房30人余りと共に出家して満慶と名乗る
    • 997年、死去する。享年87

    光る君への源満仲

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