藤原隆家(ふじわらのたかいえ)|竜星涼
生年 | 979年 |
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没年 | 1044年 |
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氏族 | 藤原北家中関白家 |
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官位 | 正二位・中納言 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 阿古 |
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藤原隆家の家族構成
父 | 藤原道隆 |
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母 | 高階貴子(高階成忠の娘) |
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兄弟 | 道頼、頼親、伊周、定子、隆家、原子、隆円、頼子、御匣殿、周家、周頼、藤原妍子女房、好親、平重義室 |
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配偶者 | 源重信の娘、藤原景斉の娘、源兼資の娘、藤原為光の娘、加賀守正光の娘 |
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子 | 良頼、経輔、行昭、隆明、敦儀親王妃、藤原兼経室、季定、家房、良員、政則? |
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藤原隆家の概要
藤原隆家の逸話
- 世間から「さがな者」として有名だった
- 気骨のある人物として藤原道長からも一目置かれていた
- 和歌にも優れており、後拾遺和歌集・新古今和歌集に和歌が収録されている
藤原隆家の生涯
- 979年、生誕
- 989年、元服し、従五位下に叙任される
- 990年、侍従に任官され、後に右兵衛権佐に任じられる
- 991年、従五位上に叙任される
- 992年、正五位下・左近衛少将に叙任・任官される
- 993年、従四位上・右近衛中将に叙任・任官される
- 994年、正四位下に叙任され、同年中に従三位に叙任され公卿に列する
- 995年、権中納言に任じられるが、父・藤原道隆が死去する
- 同年、道隆の弟である藤原道兼が関白となるが道兼も間もなく死去し、執政の座は内覧・右大臣となった藤原道長に移る
- 996年、兄・藤原伊周の女性関係に関連して、従者の武士を連れて花山法皇を襲撃し、法皇の衣の袖を弓で射抜く。この事件を藤原道長に利用され、隆家は出雲権守に、伊周は大宰権帥に左遷される長徳の変が起きる
- 998年、東三条院・藤原詮子の病の快癒を祈った大赦を受けて帰京する
- 1002年、権中納言に復職する
- 1007年、従二位に叙任される
- 1009年、中納言に任じられる
- 1010年、兄・藤原伊周が死去する
- 1011年、外甥にあたる敦康親王を東宮に立てようと試みるが、東宮には藤原道長の外孫である敦成親王が立てられる
- 1012年、先端の尖った物により傷を受け眼病を患い、出仕や交際もできず邸宅に籠るようになる
- 1014年、大宰府に眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞き、進んで大宰権帥への任官を望む。藤原道長の妨害もあったが、同じく眼病に悩む三条天皇の隆家への同情もあり、大宰権帥に任じられる
- 1015年、大宰府では善政を施し、功労により正二位に叙任される
- 1019年、刀伊の入寇が起き、対馬・壱岐に続き博多も襲撃されるが、総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退する
- 同年、大宰権帥を辞任して帰京する
- 1020年、京に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家にうつって京に及んだものと噂される
- 1023年、次男・藤原経輔を右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する
- 1037年、藤原実成に代わって再度大宰権帥に任じられる
- 1044年、死去する。享年66
光る君への藤原隆家