豊臣 秀長(とよとみ ひでなが)
生年 | 1540年 |
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没年 | 1591年 |
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主君 | 織田信長→織田秀信→豊臣秀吉 |
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拠点・知行 | 大和郡山城 |
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官位・役職 | 従五位下、美濃守、従四位上、参議兼右近衛権中将、従三位、権中納言、正三位、従二位、権大納言 |
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幼名 | 小竹 |
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法名 | |
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別名 | 木下秀長、羽柴秀長、長秀、小一郎、美濃守、大和大納言 |
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豊臣秀長の家族構成
父 | 竹阿弥 |
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母 | 仲(大政所) |
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兄弟 | 秀吉、秀長、羽柴小四郎 |
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正室 | 智雲院 |
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側室 | お藤(秋篠伝左衛門の娘) |
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子 | 小一郎 養子:秀保(三好吉房の子)、藤堂高吉(仙丸。丹羽長秀の子) |
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親族 | |
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豊臣秀長の逸話
- 温厚な性格で、頭の回転も速く秀吉に頼られていた。秀長の寿命が長ければ、豊臣の天下を永く続いたかもしれないと評される
豊臣秀長の生涯
- 1540年、生誕
- 1573年、兄・豊臣秀吉が浅井氏を滅ぼした武功により長浜城主となるとその城代を務めることもあった
- 1574年、兄・豊臣秀吉が越前一向一揆を鎮圧に進軍していたため、代理として長嶋一向一揆の鎮圧に出陣する
- 1575年、羽柴の姓を与えられる
- 1576年、のちに右腕となる藤堂高虎が仕官してくる
- 1577年、兄・豊臣秀吉が織田信長の命令で中国攻めの司令官に就任すると山陰道・但馬平定の指揮官に任じられる
- 同年、竹田城が斎村政広によって攻め落とされると城代に任じられる
- 1578年、東播磨・別所長治が反抗し、兄・豊臣秀吉と共に制圧する
- 同年、黒井城の戦いに救援に赴く
- 1579年、三木合戦で三木城・別所長治への補給路を断つために丹生山に奇襲をかける
- 同年、竹田城から丹波北部・天田郡及び何鹿郡へ進軍し、江田氏の治める綾部城を攻め落とす
- 1581年、兄・豊臣秀吉の鳥取城の戦いに従軍する
- 1582年、備中高松城の戦いに従軍し、鼓山付近に陣を敷く
- 同年、本能寺の変が起きると山崎の戦いに従軍し、黒田孝高と共に天王山を守る
- 1583年、賤ヶ岳の戦いに従軍、田上山に布陣し木ノ本の本陣を守る
- 同年、美濃守に任官され、播磨・但馬の2ヶ国を拝領し、姫路城・有子山城を居城とする
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは織田信雄領・伊勢へ進軍し、松ヶ島城を落とし、講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴く
- 1585年、紀州攻めでは甥・羽柴秀次と共に兄・豊臣秀吉の副将を務め、太田城攻めなどに従軍する
- 同年、居城となる和歌山城の築城の普請奉行に藤堂高虎を任命する
- 同年、四国攻めでは病で出陣できない秀吉の代理として総大将を務め、苦戦するものの一宮城を落城させて長宗我部元親を降伏させる
- この頃に豊臣姓を与えられ、従二位・大納言の官位を得て、大和大納言と称される
- 1586年、摂津・有馬湯山へ入り、体調不良のため数回湯治に訪れる
- 1587年、島津氏との間に起きた九州攻めでは日向方面の総大将として出陣する。島津軍が薩摩へ撤退すると島津家久が講和に訪れ進軍は終了し、この戦功で従二位権大納言に叙任される
- 1588年、紀伊の雑賀で材木の管理をしていた代官・吉川平介が熊野の材木2万本の代金を着服する事件が起き、秀吉の耳にも入ると吉川は処刑される。自身も責任を問われ、秀吉から翌年始めの挨拶を拒まれる
- 1589年、大坂城で諸大名と共に、兄・豊臣秀吉に新年を祝う太刀進上を行う
- 同年、鶴松を懐妊した秀吉の側室・茶々の産所とする淀城の改修工事を務める
- 1590年、病が悪化し、小田原攻めには従軍しなかった
- 1591年、郡山城内で病死する。享年52