生年 | 1562年 |
---|---|
没年 | 1600年 |
主君 | 丹羽長秀→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
拠点・知行 | 近江岡山城 |
官位・役職 | 従五位下・大蔵大輔、従四位下・侍従 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 新三郎、利兵衛 |
長束正家の家族構成
父 | 長束盛里 |
---|---|
母 | |
兄弟 | 正家、直吉、玄春 |
正室 | 栄子姫(本多忠勝の妹) |
側室 | |
子 | 助信、長吉、祐順、還誉岌閑 |
親族 |
長束正家の逸話
- 丹羽長秀が亡くなった際に豊臣秀吉から丹羽家の財政の不備を指摘されると、それまで記した帳簿を証拠として示した
長束正家の生涯
- 1562年、生誕
- 1585年、それまで丹羽長秀に仕えていたが羽柴秀吉の奉公衆に取り立てられ、高い算術能力を評価され財政を一手に担う
- 1586年、九州攻めでは兵糧奉行として従軍する
- 同年、本多忠勝の妹・栄子を正室に迎える
- 1590年、小田原攻めでは兵糧奉行として味方への輸送以外にも小田原周辺の米を買い占め、小田原城に兵糧攻めを行う
- 1592年、文禄の役でも肥前名護屋にて兵糧奉行を務める
- 1594年、豊臣秀次に相談し、中川秀成の豊後入封に際に隣接する蔵入地代官・太田一吉に協力を求め、戦乱によって荒廃した農村の再建を行う
- 1595年、近江水口城5万石を拝領し、五奉行に名を連ねる
- 1597年、従四位下侍従に叙任される
- 1600年、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家と共に南宮山に陣取るが広家が妨害し本戦には参戦できず、西軍が敗北すると撤退する
- 水口城に帰還するが、徳川方の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束され城から出るが欺かれて捕縛される
- 弟・長束直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹する。享年39