黒田 孝高(くろだ よしたか)

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    黒田孝高の肖像画
    出典:Wikipedia:如水居士画像(崇福寺蔵)
    生年1546年
    没年1604年
    主君小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
    拠点・知行豊前中津城
    官位・役職従五位下、勘解由次官
    幼名小寺万吉
    法名如水円清
    別名祐隆、孝隆、官兵衛、小官、黒官、今世の張良

    黒田孝高の家族構成

    黒田職隆
    小寺政職の養女
    兄弟孝高、利高、利則、直之
    正室光(櫛橋伊定の娘)
    側室
    長政、熊之助、一成、松寿丸
    親族

    黒田孝高の逸話

    • 豊臣秀吉からは才覚を高く評価されていたが、同時に警戒もされており、家臣達に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は孝高の名を挙げたといわれる
    • 風流人で和歌や連歌などを好み、また幼い頃から源氏物語なども読んでいた

    黒田孝高の生涯

    • 1546年、生誕
    • 1561年、小寺政職に仕える
    • 1562年、父・黒田職隆と共に豪族を討伐し初陣を飾る。この頃から小寺官兵衛と名乗る
    • 1567年、父・黒田職隆から家老職と家督を継ぎ、小寺政職の姪で櫛橋伊定の娘・光を正室に迎える。また姫路城代となり、従兄弟・明石則実と同盟を結ぶ
    • 1569年、赤松政秀が姫路城へ攻め込んでくる。兵数は大きく差があったが奇襲攻撃や三木通秋の援軍もあり撃退する
    • 1573年、東播磨三木城主・別所長治が攻め込んでくる
    • 1575年、羽柴秀吉の仲介で岐阜城で織田信長に謁見し、臣従を誓うと名刀・圧切長谷部を授かる
    • 1577年、英賀合戦。安芸・毛利輝元が播磨・三木通秋と同盟を結び、浦宗勝を英賀に上陸させる。これに対し、奇襲を仕掛け退ける
    • 同年、長男・松寿丸を織田信長の元に人質として送る
    • 同年、一族を飾東郡・国府山城に移らせると姫路城本丸を羽柴秀吉に譲り、二の丸を住まいとし、参謀として仕える
    • 同年、秀吉の上月城攻めに従軍し、佐用城攻略では竹中重治と共に先鋒を務める
    • 1578年、宇喜多直家と雑賀衆が別府・阿閉城へ侵攻して来るが救援に向かい撃退する
    • 同年、宇喜多直家を調略する
    • 同年、主君・小寺政職が荒木村重の謀反に同調したため有岡城に説得に向かうが逆に幽閉される
    • 1579年、有岡城は開城し、栗山利安に救出されるが、監禁生活により、足が不自由になる
    • 1580年、織田家臣として羽柴秀吉の与力となり、この頃から黒田姓を名乗る
    • 1581年、羽柴秀吉の第二次鳥取城攻めに従軍する
    • 1582年、毛利方・清水宗治が守る備中高松城攻略の際、秀吉の水攻めに助言し成功させる
    • 同年、本能寺の変が起こると羽柴秀吉に毛利輝元との和睦をし、明智光秀を討伐するよう提案する。光秀との 山崎の戦い後に蜂須賀正勝と共に毛利方・安国寺恵瓊と国境を確定する交渉を行う
    • 1583年、羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは大岩山砦を守る中川清秀が佐久間盛政に敗れるが代わりに守り抜く
    • 1584年、小牧・長久手の戦いでは当初、大坂城で留守居役を務めるが、後に蜂須賀正勝らと共にに本営の備えとして呼び出される。小牧山包囲からの撤退戦・二重堀砦の戦いでは木村重茲と共に殿を務める
    • 1585年、四国攻めでは宇喜多秀家の軍監として従軍し、土佐・長曾我部元親の策略を看破し降伏させる
    • この頃、高山右近・蒲生氏郷の誘いでキリスト教に入信し、洗礼名・シメオンを与えられる
    • 1586年、従五位下・勘解由次官に叙任される
    • 1587年、根白坂の戦いでは島津義久の軍勢と戦い、豊臣秀吉の勝利に貢献する
    • 同年、中津城の築城を始める
    • 同年、隈部親永らによる国人一揆に始まり、野仲鎮兼・城井鎮房らが次々に反乱を起こし、息子・黒田長政が鎮圧に失敗するが、持久戦を選び徐々に鎮圧する
    • 1588年、中津城が完成する
    • 1589年、家督を嫡男・黒田長政に譲るが、豊臣秀吉の側近として引き続き仕える
    • 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際は小田原城で北条氏政・氏直父子を説得し無血開城させる
    • 1592年、文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として従軍する。、加藤清正、小西行長などが従わず、上手く指揮が取れずに病を理由に帰国する
    • 1593年、再度朝鮮へ渡るが豊臣秀吉の考案した晋州城攻略計画に反対して石田三成、増田長盛らと対立し、秀吉を説得するため帰国する。しかし秀吉からは軍令に従わずに戦線離脱したと見なされ、朝鮮に戻される。死罪を覚悟し、剃髪して如水軒円清と号し、長男・黒田長政らに遺書を残すが秀吉に赦免される
    • 1597年、慶長の役では、総大将・小早川秀秋の軍監として従軍する。第一次蔚山城の戦いで長男・黒田長政の留守中に攻め込まれた梁山城の救援に駆けつけ、敵軍を撃退する。その一方で次男・熊之助が乗船した船が朝鮮半島へ向かう途中で沈没し、熊之助を失う
    • 1600年、関ヶ原の戦いで再興を目指して西軍に与した大友義統が東軍・細川忠興の
    • 杵築城を包囲する。救援要請を受け石垣原の戦いで義統を討伐する
    • そのまま加藤清正・鍋島直茂・勝茂父子と共に九州最後の敵勢力である島津討伐に向かうが徳川家康とと島津義久の講和成立による停戦の知らせを受け撤退する
    • 1604年、京都伏見藩邸で死去する。享年59
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