加藤 嘉明(かとう よしあき)
生年 | 1563年 |
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没年 | 1631年 |
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主君 | 羽柴秀勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 |
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拠点・知行 | 伊予正木城 |
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官位・役職 | 従五位下・左馬助、従四位下、侍従 |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 茂勝、孫六、左馬助 |
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加藤嘉明の家族構成
父 | 加藤教明 |
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母 | 川村氏の娘 |
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兄弟 | 嘉明、忠明、嘉政 |
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正室 | 堀部市右衛門の娘 |
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側室 | |
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子 | 明成、明信、明利 |
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親族 | |
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加藤嘉明の逸話
- 河川改修による治水工事及び築城や城下町の建設に長けていた
- 近習が嘉明秘蔵の虫喰南蛮という小皿10枚組のうち1枚を誤って割った際に、近習を叱らずに残りの9枚も割り、「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べた
加藤嘉明の生涯
- 1563年、生誕
- 1576年、播磨攻めで羽柴秀吉の養子で主君・羽柴秀勝に無断で従軍し、秀吉夫人・おねの方の怒りを買うが秀吉には意欲を評価され直臣に取り立てられる
- 1578年、羽柴秀吉の三木城攻めに従軍し初陣を飾る
- 1582年、山崎の戦いに従軍する
- 1583年、羽柴秀吉と柴田勝家との間で起こった賤ヶ岳の戦いでは戦功を挙げ賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる
- 1584年、小牧・長久手の戦いと紀州攻めに従軍する
- 1585年、羽柴秀吉が関白に叙任された際に従五位下・左馬助を叙任され以後左馬助を名乗る
- 同年、四国攻めではは小早川隆景の与力を務める
- 1586年、四国攻め・伊予平定の恩賞で淡路・津名・三原郡に封じられ大名となり志知城主を任じられる
- 1587年、九州攻めでは淡路水軍を率いて従軍する
- 1590年、小田原攻めでも淡路水軍を率いて従軍する
- 1592年、文禄の役では淡路水軍を率いて各地を転戦する
- 1597年、慶長の役では6番隊に所属する
- 1598年、蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正を救援し、また豊臣秀吉に虎を狩って献上する
- 1599年、他の賤ヶ岳の七本槍と共に石田三成暗殺未遂事件を起こす
- 1600年、徳川家康の会津攻めに先鋒として従軍する
- 同年、関ヶ原の戦いでは石田三成の本隊と戦い戦功を挙げる
- 1601年、徳川家康に勝山城築城の許可を得て翌年から築城を始める
- 1603年、本拠地を正木から勝山に移し地名を松山に改める
- 1606年から1609年の間、江戸城修築・駿府城修築・篠山城築城・名古屋城造営など相次ぐ工事に他の武将と共に務める
- 1614年、大坂冬の陣では江戸城留守居を務め、嫡男・加藤明成が代って従軍する
- 1615年、大坂夏の陣では江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の軍に所属して従軍し戦功を挙げる
- 1619年、広島城を無断で修繕したことで福島正則が改易となり広島城の接収役を担い、正則の身柄も預かる
- 1622年、徳川家光の鎧着初で、介添役を務める
- 1623年、徳川家光が徳川幕府第3代将軍になると、従四位下に叙任される
- 1626年、侍従に任じられ、後水尾天皇の二条城行幸においても警護役を務める
- 1627年、長年に渡り不仲だった藤堂高虎の推挙で、会津藩に移封され拠を若松城に移し、同時に高虎と和解し以降は親密な関係を築く
- 1631年、病死する。享年69