加藤 清正(かとう きよまさ)

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    加藤清正の肖像画
    出典:Wikipedia:清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像
    (原本京都府勧持院所蔵の複製画)
    生年1562年
    没年1611年
    主君豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠
    拠点・知行肥後熊本
    官位・役職従五位下・主計頭、従五位上・侍従兼肥後守、従四位下
    幼名夜叉若
    法名
    別名虎之助、虎之介、地震加藤、鬼将軍、肥後の虎

    加藤清正の家族構成

    加藤清忠
    伊都(鍛冶屋清兵衛の娘)
    兄弟
    正室山崎方家の娘
    継室:かな(清浄院。水野忠重の娘)
    側室本覚院(菊池武宗の娘?)、浄光院(赤星親武の娘)、正応院(玉目丹波守の娘)
    虎熊、忠正、忠広、貴田正勝、百助
    親族

    加藤清正の逸話

    • 藤堂高虎・黒田孝高と並ぶ築城の名手であり、熊本城・名護屋城・江戸城・名古屋城をはじめとする多数の城の築城に関わった
    • 身の丈6尺3寸(約190cm)の大男であり、加えて長烏帽子形兜という縦に長い変わり兜を愛用しており、威圧感が強かった

    加藤清正の生涯

    • 1562年、生誕
    • 1564年、父・加藤清忠の死去に伴い母・伊都と共に津島へ移り住む
    • 1573年、羽柴秀吉の生母・大政所と母が従姉妹だった縁から秀吉に小姓として仕える
    • 1576年、この頃に近江守護大名・佐々木氏一族の山崎片家の娘を正室に迎える
    • 1582年、豊臣秀吉の中国攻めの際、冠山城攻略戦で城に一番乗りを果たし、敵将・竹井将監を討ち取る
    • 同年、本能寺の変が起こると豊臣秀吉に従い山崎の戦いに従軍する
    • 1583年、賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る戦功を挙げ賤ヶ岳の七本槍と称えられる
    • 1585年、豊臣秀吉が関白に就任すると従五位下・主計頭に任命される
    • 1586年、豊臣秀吉の九州攻めに従軍する
    • 1588年、肥後北半国19万5000石を与えられ、隈本城に入る
    • 1591年頃、隈本城を改修し熊本城と改める
    • 1592年、文禄の役では二番隊主将として従軍する
    • 1593年、オランカイこと女真族の戦力を確認するために満州南部へ進軍する
    • 同年、第二次晋州城の戦いでは亀甲車を作り北面からの攻城を担い、城を攻め落とす
    • 1597年、慶長の役では左軍の先鋒を担った小西行長に対し、右軍の先鋒を担う
    • 1598年、豊臣秀吉が死去すると日本へ帰国する。五大老・徳川家康に接近し、家康の養女・清浄院を継室に迎える
    • 1599年、前田利家が死去すると七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こすが失敗する。しかし島津重臣・伊集院忠真が起こした謀反・庄内の乱で忠真を支援していたことが発覚する。この乱は徳川家康が五大老として事態の収拾を図っていた事件であり、上洛を禁じられる
    • 1600年、徳川家康の怒りは未だに収まらず、会津攻めへの参戦は許されず、国元に留まる
    • 同年、関ヶ原の戦いでは黒田孝高と共に出陣し、宇土城・小西行長、柳川城・立花宗茂を破った
    • 1603年、豊臣姓を与えられる
    • 1605年、従五位上・侍従兼肥後守に任命される
    • 1606年、徳川四天王・榊原康政の嫡男・康勝に娘・あまを嫁がせる
    • 1610年、徳川家康による尾張・名古屋城の普請に協力する
    • 1611年、二条城における徳川家康と豊臣秀頼の会見を仲介する
    • 同年、帰国途中の船内で発病し後日、熊本で病死する。享年50
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