片桐 且元(かたぎり かつもと)
生年 | 1556年 |
---|
没年 | 1615年 |
---|
主君 | 浅井長政→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康 |
---|
拠点・知行 | 大和竜田城 |
---|
官位・役職 | 従五位下・市正 |
---|
幼名 | |
---|
法名 | |
---|
別名 | 直盛、直倫、且盛、助佐、助作 |
---|
片桐且元の家族構成
父 | 片桐直貞 |
---|
母 | |
---|
兄弟 | 且元、貞隆 |
---|
正室 | 片桐半右衛門の娘 |
---|
側室 | |
---|
子 | 孝利、為元 |
---|
親族 | |
---|
片桐且元の逸話
- 二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見を行う際、会見の吉凶を占うくじで淀殿が大凶を引くと、密かに吉に書き直させた
片桐且元の生涯
- 1556年、生誕
- 1573年、織田信長による浅井長政への攻撃では長政に協力する
- 1574年頃、石田正澄・三成兄弟と同じように羽柴秀吉に仕える
- 1577年、羽柴秀吉による中国攻めに従軍する
- 1583年、豊臣秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則・加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功績を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは本陣を守る
- 1586年、従五位下・市正に任官され豊臣姓を賜る
- 同年、方広寺大仏殿建設で作事奉行に任命され、丹波・大和・伊予で小堀正次・浅野長政・福島正則などと検知奉行に携わる
- 1587年、九州攻めに従軍し、軍船の調達を担う
- 1590年、小田原攻めでは、脇坂安治や徳川家臣と共に小田原城の接収に立ち会いまた早川長政と共に鎌倉・鶴岡八幡宮の修復造営手配と所領安堵及び検地を行う
- 同年、奥州仕置では出羽・秋田での検地と浅利事件の調査を担う
- 1592年、文禄の役では弟・片桐貞隆と共に従軍する
- 1594年、伏見城の普請を担い、文禄検地では、摂津・河内北部の奉行となる
- 1596年、慶長伏見地震が起きると復興事業に関連した大坂の都市改造計画に関わる
- 1598年、醍醐の花見では三の丸殿に警護役として同行する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大津城の戦いに援軍を送る
- 戦いが東軍・徳川家康の勝利に終わると長女・采女を家康の人質に出し、徳川・豊臣の調整に注力する
- 1601年、和竜田城を居城とし小出秀政と共に豊臣宗家の家老に就任し、幼い秀頼の代行を担い大坂総奉行と呼ばれる
- 1604年、小出秀政が死去すると唯一の家老として豊臣宗家の外交・財政を一手に担う
- 1605年頃から徳川家康から摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する立場に任じられる
- 1611年、徳川家康が上洛し行われた二条城会見に相席する
- 1614年、方広寺大仏と大仏殿の再建に豊臣秀頼の名で鋳物師を招集する
- 同年、納められた梵鐘を巡り、方広寺鐘銘事件が起き、解決に奔走する
- 同年、織田信雄より薄田兼相らを実行役とした自身の暗殺計画を知らされ屋敷に籠り、後に大阪を脱出する
- 同年、大坂冬の陣では先鋒を担い、真田丸への攻撃に参戦する
- 1615年、前年より罹患した咳病が悪化し病死する。享年60