糟屋 武則(かすや たけのり)
生年 | 1562年 |
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没年 | 不明 |
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主君 | 別所長治→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康 |
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拠点・知行 | 播磨加古 |
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官位・役職 | 従五位下・内膳正 |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 数政、数正、宗重、真雄、真安、直雄、宗孝正之助、助右衛門、助左衛門、内膳正 |
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糟屋武則の家族構成
父 | 志村某または粕谷則頼または糟屋忠安 |
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母 | 小寺政職の妹 |
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兄弟 | 政安、次郎三郎、正観、数政、見智、相喜 |
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正室 | |
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側室 | |
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子 | 宗孝、安長、十左衛門、権左衛門 |
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親族 | |
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糟屋武則の逸話
- 黒田孝高から息子・長政の師範となるように頼まれた際に、賤ヶ岳で使った槍を長政に贈ろうとすると「古来より槍の師範を取って功を為すなど聞いたことがありません」と言って断られ、長政のことを大功を上げる人物になると高く評した
糟屋武則の生涯
- 1562年、生誕
- 1577年、羽柴秀吉の播磨攻めの際、別所長治に従っていたが小寺孝高の説得で城主を務める加古川城に戻る
- 同年、小寺孝高の仲介で羽柴秀吉の小姓頭となり、三木合戦に従軍し、野口城の攻略で初陣を飾る
- 1580年、前年に兄・糟屋朝正が平井山合戦で討死したので家督を相続する
- 1582年、本能寺の変が起こると羽柴秀吉の中国大返しに従い明智光秀との山崎の戦いに従軍する
- 1583年、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と戦う。その後も羽柴秀吉の面前で戦功を挙げると賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられる
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、馬廻衆として本陣を守る
- 1586年、方広寺大仏のの作事奉行を担う
- 同年、従五位下内膳正に叙任される
- 1587年、豊臣秀吉の九州攻めに従軍する
- 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに従軍する
- 1591年、近江国検地奉行となり、増田長盛らと共に検地を行う
- 1592年、文禄の役では織田秀信の九番隊に所属し、朝鮮へ渡る
- 1594年、伏見城の普請に参加する
- 1595年、豊臣秀次が失脚すると、秀次が高野山に渡るまでの間、屋敷に監禁する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍に加わり、宇喜多秀家の部隊で奮戦する
- 西軍が敗れると関ヶ原の戦いの戦後処理で家禄を没収され、改易される
- 没年不明