石田 三成(いしだ みつなり)
生年 | 1560年 |
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没年 | 1600年 |
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主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
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拠点・知行 | 近江佐和山城 |
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官位・役職 | 従五位下・治部少輔 |
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幼名 | 佐吉 |
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法名 | |
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別名 | 三也、治部 |
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石田三成の家族構成
父 | 石田正継 |
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母 | 瑞岳院(岩田氏の娘) |
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兄弟 | 弥治郎、正澄、三成 |
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正室 | 皎月院(宇多頼忠の娘) |
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側室 | |
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子 | 重家、重成、佐吉(清幽)、八郎? |
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親族 | |
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石田三成の逸話
- 幼少の頃過ごしていた寺院に羽柴秀吉が鷹狩の帰りに立ち寄った際、もてなしを担当し初めに大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に初めよりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した細かな心遣いを褒められて家臣となった
- 秀吉から4万石を加増されるとその半分の2万石で島左近を召し抱えた
- 処刑前にのどが渇いたため見張りの者に水を求めるが、「水は無いから柿を食え」と言われると「柿には毒が入っているかもしれないから食べれない」と答えた。見張りの者に「処刑目前なのに、毒を怖がるとは」と笑われるが、「大義を抱くものは、最期の瞬間まで命を大切にする」と答えた
石田三成の生涯
- 1560年、生誕
- 1574年、羽柴秀吉が織田信長に仕え、近江長浜城主となると父・石田正継、兄・正澄と共に秀吉に士官する
- 1583年、、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担い、また先鋒として一番槍の戦功を挙げる
- 1584年、小牧・長久手の戦いにも従軍し、その後近江・蒲生郡の検地奉行を務める
- 1585年、羽柴秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される
- 1586年、名将と名高かった島左近を知行の半分を与えて召し抱えると、豊臣秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促す
- 同年、秀吉から堺奉行に任命されると堺を取り締まり、兵站基地として整備する
- 1587年、豊臣秀吉の九州攻めでは後方支援を担い、平定後は博多奉行に任じられ黒田孝高と共に博多の復興に注力する
- 1589年、美濃を検地する
- 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに従軍し、館林城・忍城攻撃を命じられる
- 同年、奥州仕置後は奥州の検地奉行を務める
- 1591年、近江佐和山城代となる
- 1592年、文禄の役では朝鮮へ渡り、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める
- 1595年、豊臣秀吉の命令で秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の疑惑で糾弾する
- 1596年、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を公布する
- 同年、京都奉行に任命され豊臣秀吉のにキリシタン弾圧を命じられる
- 1597年、慶長の役では国内で後方支援に奔走する
- 1598年、豊臣秀吉から小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を加増移封されようとしたが辞退する。しかしながら筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命され、名島城を与えられ事実上支配する
- 同年、翌年に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則・増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していたが豊臣秀吉の死去に伴い計画は白紙になる
- 1599年、徳川家康による縁組計画が明るみに出て、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起きる。家康が起請文を提出したことで事態は沈静化する
- 同年、賤ヶ岳の七本槍により屋敷を襲撃され暗殺されかける
- 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し当初は優位に戦いを進めるが小早川秀秋・脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れになる。西軍が敗れると古橋まで逃れるが徳川家康の命令を受けた田中吉政に捕縛される。家康の命令で六条河原で斬首となる。享年41