生年 | 1543年 |
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没年 | 1616年 |
主君 | 江戸幕府初代征夷大将軍 |
拠点・知行 | 武蔵江戸城 |
官位・役職 | 従五位下・三河守、左京大夫、従五位上・侍従、正五位下、従四位下・右近衛権少将、従四位上、正四位下・左近衛権中将、従三位・参議、権中納言、正三位、従二位・権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、正二位・内大臣、従一位・右大臣、征夷大将軍、太政大臣 |
幼名 | 松平竹千代 |
法名 | |
別名 | 松平元信、松平元康、松平家康、次郎三郎、蔵人佐、大御所 |
徳川家康の家族構成
父 | 松平広忠 継父:久松俊勝 |
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母 | 於大の方(伝通院。水野忠政の娘) |
兄弟 | 松平忠政、家康、樵臆恵最、松平家元、内藤信成、松平康元、松平康俊、松平定勝 |
正室 | 築山殿(関口氏純の娘) 継室:朝日姫(豊臣秀吉の異父妹) |
側室 | 西郡局(蓮葉院。加藤義広の娘、鵜殿長忠の養女)、於万の方(長勝院。永見貞英の娘)、於愛の方(西郷局、竜泉院、宝台院。戸塚忠春の娘、西郷清員の養女)、於竹の方(良雲院。市川昌永の娘)、於都摩の方(下山殿、妙真院。秋山虎康の娘、穴山信君の養女)、於久の方(茶阿局、朝覚院)、於亀の方(相応院。志水宗清の娘)、於久の方(普照院。間宮康俊の娘)、於万の方(養珠院。正木頼忠の娘、江川英長の養女)、於梶の方(英勝院。太田康資の娘)、於富の方(信寿院。山田氏の娘)、於夏の方(清雲院。長谷川藤直の娘)、於六の方(養儼院。黒田直陣の娘)、於仙の方(泰栄院。宮崎泰景の娘)、於梅の方(蓮華院。青木一矩の娘)、於須和の方(阿茶局、雲光院。飯田直政の娘)、於牟須の方(正栄院。三井氏の娘?)、於松の方(法光院)、三条の方(三条氏の娘)、松平重吉の娘 |
子 | 松平信康、結城秀康、秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、平岩仙千代、義直、頼宣、頼房 養子:松平家治(奥平信昌の子)、松平忠政(奥平信昌の子)、松平忠明(奥平信昌の子)、八宮良純親王(後陽成天皇の皇子) |
親族 |
徳川家康の逸話
徳川家康の生涯
- 1542年、岡崎城にて生誕
- 1547年、今川家の人質として駿府へ移送途中に捕らわれ、尾張・織田家へ送られる
- 1549年、今川家と織田家の間で人質交換が成立し、駿府へ送られる
- 1555年、駿河・川義元の下で元服し、次郎三郎元信と名乗る
- 1556年もしくは1557年、今川義元の姪・築山殿を正室に迎える
- 1558年、祖父・松平清康の一字をとり、名を元康と改める
- 1560年、桶狭間の戦いにて、大高城の兵糧入れを成功させる。今川義元が織田信長に討たれると岡崎城に入り独立を図る
- 1561年、織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対する
- 1563年、名を家康と改める
- 同年、同盟の証として嫡男・竹千代と織田信長の娘・五徳が婚約する
- 1564年、三河一向一揆が起こる。家中が真っ二つに分かれるが鎮圧に成功する
- 1566年、苗字を徳川に改める。従五位下・三河守に叙任される
- 1567年、嫡男・信康と信長の娘・五徳との政略結婚が結ばれる
- 1568年、信長の上洛に合力し、左京太夫に任命される
- 1570年、本城を岡崎城から曳馬城に移し、曳馬を浜松と改名する
- 1572年、武田家との抗争が本格化し、二俣城を奪われ、三方ヶ原の戦いで大敗するが、武田信玄の病死により武田軍は撤退する
- 1574年、武田勝頼に東美濃・明智城、遠江・高天神城を奪われる
- 1575年、長篠の戦いで織田信長と連合し大勝する。この頃から織田家に同盟ではなく従属の色が濃くなる
- 1579年、北条家と同盟を結ぶ。正室・築山殿と嫡男・松平信康に武田家との内通容疑がかかり、築山殿を殺害、信康を切腹させる
- 1581年、武田勝頼から高天神城を奪還する
- 1582年、天目山の戦いにて武田家が滅亡
- 同年、本能寺の変にて信長が明智光秀に討たれると、堺にいた家康は伊賀を抜けて三河へ帰還する。混乱を極めた甲斐・信濃・駿河を併呑し、三河・遠江と合わせ5か国の大名となる
- 1584年、小牧・長久手の戦いにて織田信雄と連合し羽柴軍を打ち破るが、外交戦の末、羽柴家優勢で和睦する
- 1585年、上野国沼田をめぐり真田家と衝突し、第一次上田合戦が勃発する。知将・真田正幸に翻弄され上田城を落とせないまま撤退する。石川数正が出奔し羽柴秀吉に仕える
- 1586年、前年に関白となった豊臣秀吉の懐柔策により、秀吉の妹・朝日を正室に迎え豊臣家に臣従する。正三位に叙任される。本城を浜松城から駿府城へ移す
- 1587年、従二位・権大納言に叙任される。その後、左近衛大将・左馬寮御監に任ぜられる
- 1590年、正室・朝日姫が死去する。小田原征伐で北条家が滅亡すると、遺領の武蔵・相模・伊豆・上総・上野・下野一部・常陸一部へ転封となり250万石の大大名となる
- 1591年、豊臣秀次を総大将とする奥州仕置軍に加わり、各地で一揆の鎮圧に協力する
- 1592年、朝鮮出兵がはじまる。家康は渡海せず名護屋城で在陣する
- 1596年、豊臣秀吉の推挙で内大臣に任じられる
- 1597年、2度目の朝鮮出兵。家康はまたも渡海はせず
- 1598年、秀吉が病に倒れると五大老に任命される。秀吉が没すると朝鮮から軍を引き上げる。伊達家・福島家・加藤家・蜂須賀家・黒田家と婚姻をおこなう
- 1599年、前年の婚姻を合議を通さずおこなったため、堀尾吉晴ら問罪使に詰問されるが、逆に恫喝し追い返す。福島正則・加藤清正らに襲撃された石田三成を匿い両者を仲裁、三成は失脚し本領の佐和山で隠居する
- 1600年、関ヶ原の戦いにて東軍総大将となり西軍に勝利し、天下人としての地位を確立する
- 1601年、伏見城で政務を執るようになる
- 1603年、征夷大将軍・右大臣・源氏長者に任命される。二条城を本拠とし将軍就任の祝賀の儀をおこなう
- 1605年、将軍職を嫡男・徳川秀忠に譲る
- 1607年、駿府城に移り大御所政治を開始する。李氏朝鮮と国交を回復する
- 1608年、朝廷に働きかけ大阪方が豊臣秀頼を左大臣にしようとするのを察知し阻止する
- 同年、右大臣・九条忠栄を関白に推挙する
- 1610年、足尾銅山を開山する
- 1611年、九男義直・十男頼宣を参議中将に、十一男頼房を少将に叙任させ御三家体制の構築に動く。二条城にて豊臣秀頼と会見をおこなう。スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る
- 1612年、九条忠栄を左大臣に、鷹司信尚を関白に推挙する
- 1613年、イングランド国王ジェームズ1世の親書と献上品を受け取る
- 1614年、大阪冬の陣を優位に運び和睦を結ぶ。大坂城の堀を埋める
- 1615年、大坂夏の陣で勝利し豊臣家を滅亡させ、日本全国を支配下に置く
- 1616年、鷹狩りの最中に病で倒れる。太政大臣に任ぜられる。駿府城にて病のため死去する。享年75