徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)

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    徳川秀忠の肖像画
    出典:Wikipedia:徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
    生年1579年
    没年1632年
    主君江戸幕府第2代征夷大将軍
    拠点・知行武蔵江戸城
    官位・役職従五位下・侍従、蔵人頭、正五位下・武蔵守、従四位下、正四位下・右近衛少将、参議、右近衛中将、従三位・権中納言、権大納言、従二位・右近衛大将、正二位・内大臣、征夷大将軍、従一位・右大臣、太政大臣
    幼名長松、長丸、竹千代
    法名
    別名江戸中納言、江戸右大将、相国様

    徳川秀忠の家族構成

    徳川家康
    於愛の方(西郷局、竜泉院、宝台院。戸塚忠春の娘、西郷清員の養女)
    養母:於須和の方(阿茶局、雲光院。飯田直政の娘)
    兄弟松平信康、結城秀康、秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、平岩仙千代、義直、頼宣、頼房
    正室小姫(織田信雄の娘)
    継室:江姫(浅井長政の娘)
    側室
    長丸、家光、忠長、保科正之
    親族

    徳川秀忠の逸話

    徳川秀忠の生涯

    • 1579年、生誕
    • 1590年、小田原攻めの際に人質として上洛する。上洛中に元服し、秀忠と名乗り豊臣姓を与えられる。さらに織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫と祝言を挙げると豊臣秀吉の許しを得て帰国するなど他大名の妻子とは別格の待遇を受ける
    • 1591年、小姫が病死する
    • 1592年、文禄の役では名護屋へ赴いた父・徳川家康の替わりに関東領国の統治を榊原康政・井伊直政の後見を受けながら行う
    • 1595年、豊臣秀次に謀反の疑いが生まれ、豊臣秀吉に切腹を命じられると、豊臣秀頼が秀吉の後継者となる。秀頼の生母・淀殿の妹・達子を秀吉の養女として継室に迎え再婚し、秀吉から羽柴姓を与えられる
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは当初は上杉に対する備えとして宇都宮に陣を敷くがその後、真田軍に対する部隊の指揮を命じられる
    • 1603年、父・徳川家康が朝廷に働きかけ、右近衛大将に任命される
    • 1605年、将軍職を父・徳川家康から譲られ第2代征夷大将軍となる
    • 1614年、右大臣となり官位で豊臣秀頼に追いつき、位階は従一位となり正二位の秀頼を超える
    • 同年、大坂冬の陣では土井利勝を徳川家康のもとへ派遣する。また冬の陣の講和後、大阪城の堀埋め立ての現場指揮を担う
    • 1615年、大坂夏の陣ではは豊臣家重臣・大野治房に本陣を混乱状態に追い込まれるが反撃する
    • 同年、豊臣家滅亡後、徳川家康と共に武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定する
    • 1616年、キリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定する
    • 1623年、将軍職を嫡男・徳川家光に譲ると、父・徳川家康に倣って大御所として二元政治を行う
    • 1626年、水尾天皇より太政大臣に任じられる
    • 1632年、死去する。享年52
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