大久保 忠世(おおくぼ ただよ)
生年 | 1532年 |
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没年 | 1594年 |
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主君 | 徳川家康 |
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拠点・知行 | 相模小田原城 |
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官位・役職 | |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 新十郎、七郎右衛門 |
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大久保忠世の家族構成
父 | 大久保忠員 |
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母 | |
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兄弟 | 忠世、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠教、忠元 |
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正室 | 近藤幸正の娘 |
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側室 | |
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子 | 忠隣、忠基、忠成、忠高、忠永 |
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親族 | |
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大久保忠世の逸話
- 大久保家は松平家の最古参の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 戦で崖から落とされたことがある。が、そのまま這い上がり敵兵3人を一度に切った
- 本多正信の帰参を助けた
- 月に7日間、絶食をし倹約に努めた
大久保忠世の生涯
- 1532年、生誕
- 1563年、三河一向一揆では、徳川家康に従い戦功を挙げる
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは、既に勝敗は決していたが、夜に武田軍の陣に銃撃を行い混乱に陥れ、武田信玄より賞賛されたと伝わる
- 1575年、長篠の戦いでは、弟・大久保忠佐とともに戦功を挙げ、織田信長から賞賛され、徳川家康からほら貝を与えられる。また、二俣城の城主に任ぜられる
- 1582年、本能寺の変後、徳川家康が甲斐、信濃を攻略すると、信州惣奉行として小諸城に在番する
- 1585年、上田合戦では、真田昌幸に大敗を喫する
- 1590年、徳川家康の関東移封の際、相模小田原4万5000石を与えられる
- 1594年、死去する。享年63