平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)
生年 | 1542年 |
---|
没年 | 1612年 |
---|
主君 | 徳川家康→徳川義直 |
---|
拠点・知行 | 上野厩橋城 |
---|
官位・役職 | 従五位下・主計頭 |
---|
幼名 | |
---|
法名 | |
---|
別名 | 七之助 |
---|
平岩親吉の家族構成
父 | 平岩親重 |
---|
母 | 天野貞親の娘 |
---|
兄弟 | 正広、親吉、康重、康長 |
---|
正室 | 石川正信の娘 |
---|
側室 | |
---|
子 | 伯耆守、堀隼人正重 養子:松平仙千代 |
---|
親族 | |
---|
平岩親吉の逸話
- 平岩家は松平家の譜代家臣の家柄
- 徳川十六神将のひとり
- 家康とは同い年
- 私欲が無く、豊臣秀吉からの黄金100枚の祝儀を受け取らなかった。本多忠勝と、井伊直政は受け取り、榊原康政は受け取るべきか家康に相談した
- 正直で、私心がなく、家中での人望は厚かった
- 親吉には嗣子がおらず、家康の8男、仙千代を養嗣子としてもらい受けたが、仙千代は1600年に夭折した
平岩親吉の生涯
- 1542年、生誕
- 1547年、徳川家康の小姓として駿府へ送られる
- 1558年、初陣を飾る
- その後、三河、遠江攻略で戦功を立て、徳川信康が元服すると傅役となる
- 1579年、松平信康が切腹すると、責任を感じ蟄居する。後年、徳川家康により直臣として復帰する
- 1576年、三河大樹寺にて、水野信元親子を誅殺する
- 1582年、本能寺の変後、甲斐国甲府城の築城を始める。また、甲斐の郡代を任じられる
- 1590年、小田原攻めで戦功を挙げる。徳川家康の関東移封の際、上野厩橋3万3000石を与えられる
- 1601年、甲斐甲府6万3000石に移封される
- 1603年、幼少の徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、代理として現地の統治を行う
- 1607年、徳川義直が尾張藩主となると附家老を任ぜられ藩政を執る。尾張犬山12万3000石に移封される
- 1611年、名古屋城にて死去する。享年70