柴田 勝家(しばた かついえ)

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    柴田勝家の肖像画
    出典:Wikipedia:柴田勝家像(個人蔵)
    生年1522年から1530年の間
    没年1583年
    主君織田信秀→織田信行→織田信長→織田秀信
    拠点・知行越前北ノ庄
    官位・役職従六位下・左京大進、従五位下・修理亮
    幼名
    法名浄勝、幡岳
    別名権六郎、権六、勝栄、修理進、鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田

    柴田勝家の家族構成

    柴田勝義
    兄弟
    正室お市の方(織田信長の妹)
    側室
    勝里、勝忠、権六
    養子:勝春(兄の子?)、勝政(佐久間盛次の子)、勝豊(姉の子)、勝敏(妹の子?)、佐久間勝之(佐久間盛次の子)
    親族

    柴田勝家の逸話

    柴田勝家の生涯

    • 1522年から1530年の間に、生誕
    • 1551年、仕えていた織田信秀が死去するとその子・織田信行に家老として仕える
    • 1552年、尾張下四郡を支配する守護代清洲城主・織田信友と織田信長の萱津の戦いでは中条家忠と共に坂井甚介を討ち取るなどの戦功を挙げる
    • 1556年、織田信行を織田信秀の後継者にするべく林秀貞と共に織田信長の打倒を試み、稲生の戦いが起きるが敗れ信長に降伏する。この時、信長・信行兄弟の生母・土田御前の強い要望で赦免され、清州城で信長に礼を述べる
    • 1557年、織田信行が兄・織田信長に対し謀反を企むと信長に密告し、信長は仮病を装い信行は清州城に見舞いに訪れると河尻秀隆らに殺害される。信行の遺児・津田信澄を信長の命により養育することになる
    • 1568年、勝竜寺城の戦いなどに織田軍の先鋒の一人として活躍し、戦功を挙げる
    • 1569年、三好三人衆による本圀寺の変が起きると織田信長と共に京都へ向かう
    • 同年、南伊勢を支配する北畠氏との戦いに従軍する
    • 1570年、浅井長政が織田信長を裏切ると長光寺城に配属され六角勢と戦闘となり、佐久間信盛・森可成・中川重政と共に撃退する
    • 同年、姉川の戦いで浅井・朝倉氏と戦う
    • 1571年、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かうが氏家直元ら多くの兵を失う
    • 同年、織田信長の比叡山焼き討ちに加わる
    • 1573年、織田信長と将軍・足利義昭が対立し石山城・今堅田城の戦いが起きると進軍し落城させる
    • 同年、将軍・足利義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条御所に立て籠るが、藤英の説得を任され二条御所を開城させる。その後槙島城攻撃に参加し義昭は降伏し室町幕府は滅びる
    • 同年、織田信長と朝倉義景の間で行なわれた一乗谷城の戦い、浅井長政との間で行なわれた小谷城の戦いにも従軍するとその後2度目の長嶋一向一揆攻めに加わる
    • 1574年、3度目かつ最終戦となる長嶋一向一揆攻めに従軍し、兵糧攻めを行い、助命を約束に開城させたところをだまし討ちで殲滅する
    • 1575年、三好康永・石山本願寺との間に起こった高屋城の戦い、甲斐・武田勝頼との間に起こった長篠の戦いにも従軍する
    • 1576年、北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らを与力に付けられる
    • 1577年、越後・上杉謙信との間に手取川の戦いが起きるが羽柴秀吉と軍議の場で仲違いし、秀吉が離脱し敗走する
    • 1580年、一向一揆を制圧し加賀を平定させる
    • 1581年、織田信長の行った京都御馬揃えでは、与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加する
    • 1582年、上杉方の魚津城・松倉城を攻めている最中に本能寺の変が起きる。丹羽長秀と連携して明智光秀を討つ計画を立てるが、本能寺の変を知った上杉方の妨害にあい動けない間に光秀は羽柴秀吉に討たれる
    • 同年、本能寺の変後に行われた清洲会議で織田信長の後継者に信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐し、実績や発言力が大きかった羽柴秀吉が推した信長の嫡孫・三法師が織田氏の家督を継ぐことになる
    • 信長の遺領配分で北近江3郡と長浜城を得、信長の妹・お市の方を正室に迎えるが、秀吉との立場は逆転する
    • 1583年、羽柴秀吉との間に賤ヶ岳の戦いが起きるが秀吉に敗れ、北ノ庄城で、お市と共に自害する。享年64~72
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