越後の龍
上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
生年 | 1530年 |
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没年 | 1578年 |
主君 | 山内上杉家第16代当主 |
拠点・知行 | 越後 |
官位・役職 | 従五位下・弾正少弼、越後守護代、関東管領 |
幼名 | 長尾虎千代 |
法名 | 不識庵謙信、宗心 |
別名 | 長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、平三、越後の龍 |
家族構成
父 | 長尾為景 養父:長尾晴景、上杉憲政 |
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母 | 虎御前(青岩院。長尾房景の娘) |
兄弟 | 長尾晴景、長尾景康、長尾景房?、謙信 義兄弟:上杉憲藤、上杉憲重、上杉憲景 |
正室 | |
側室 | |
子 | 養子:畠山義春、山浦景国、景虎(北条氏康の子)、景勝(長尾政景の子)、織田氏 |
親族 |
逸話
生涯
- 1530年、越後・春日山城にて生誕
- 1536年、父為景が隠居し、兄晴景が家督を継ぐ。虎千代は林泉寺に入門し、住職天室光育の教えを受ける
- 1543年、元服して長尾景虎と名乗る
- 1544年、越後の豪族が謀反を起こす。栃尾城の戦いにて初陣。景虎は兵を二手に分け一方の隊に敵本陣を急襲させ、もう一方の兵を正面から突撃させ挟撃し敵を退ける
- 1545年、家臣の黒田秀忠が謀反を起こすと兄晴景に代わり鎮圧する
- 1548年、越後内で兄晴景派と景虎派が形成され、景虎は晴景の養子となり家督を継承し越後守護代となる
- 1550年、越後守護の上杉定実が死去すると、景虎は将軍足利義輝より守護代理を命じられる。長尾政景が謀反を起こすが鎮圧し、越後を統一する
- 1552年、関東管領・上杉憲政が北条氏康に上野を追われる。憲政を景虎が庇護し長尾家と北条は敵対する。従五位下・弾正少弼に任ぜられる
- また、武田信玄によって信濃を追われた信濃守護・小笠原長時を庇護する
- 1553年、第一次川中島の戦いが勃発する。信濃の村上義清の援軍要請に応え、村上長尾連合軍は武田軍を追い払い葛尾城を一時奪還するが、再度、武田軍に葛尾城を奪われる
- 1554年、家臣の北条高広が武田家に寝返る
- 1555年、高広の居城、北条城を陥落させ鎮圧する。高広の帰参を許す
- 同年、第二次川中島の戦いにて、武田軍と川中島犀川で対峙するが本格的な戦闘には発展せず、武田家の要請を受けた今川家の仲介で景虎に有利な条件で和睦が成立する
- 1556年、出家・隠居を宣言し、出家のため高野山へ向かうが、家臣の大熊朝秀が武田家に寝返ると越後に帰国し大熊軍を撃破する
- 1557年、第三次川中島の戦いが始まる。武田軍は盟約を反故にし葛山城を陥落させ、家臣の高梨正頼の飯山城に押し寄せるが雪のため出陣が遅れる。北信濃で一進一退を繰り返すが決戦には至らなかった
- 1558年、将軍・足利義輝より上洛要請があり翌年に上洛すると返答する。下野の侵攻を進める
- 1559年、上洛し正親町天皇や将軍・義輝に拝謁する。義輝より管領と同等の待遇を受ける
- 1560年、越中の椎名家からの援軍要請に応え神保家の富山城と増山城をを陥落させる
- 同年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、今川家の同盟国の北条家の侵攻を開始する。厩橋城を陥落させ関東の拠点とする
- 1561年、鎌倉・鶴岡八幡宮にて山内上杉家の家督と関東管領職を相続する。名を上杉政虎と改める。就任式の太刀持ちは柿崎影家と斎藤朝信が務めた
- 同年、第四次川中島の戦いが勃発する。上杉・武田両軍は八幡原で激突し上杉軍が大勝する。武田家の武田信繁、山本勘助、両角虎定、初鹿野忠次、三枝守直など多数の武将を討ち取り、武田信玄を負傷させる。里見家と同盟を結び上野で北条・武田連合軍と戦うも次第に劣勢となり、成田・佐野などが離反する。将軍・義輝から輝の字を与えられ名を輝虎と改める
- 1562年、越中の神保長職を降伏させる。武蔵で北条・武田連合軍と一進一退の攻防を繰り広げる
- 1564年、下野の佐野昌綱を降伏させる。その後、常陸の小田氏治を破り、小田城を陥落させる
- 同年、第五次川中島の戦いが始まる。武田家は蘆名家と手を結び越後に侵攻するが撃退する。武田軍と川中島で対峙するも決着はつかず。佐野昌綱が再度北条で寝返るが降伏させる
- 1565年、下総・関宿城の簗田晴助を救援のため出陣。侵攻してきた北条軍は戦わずして撤退する
- 同年、将軍・義輝が三好義継・三好三人衆・松永久通らに殺害される。輝虎は憤慨し、三好・松永の首を討ち滅ぼすことを神仏に誓う
- 1566年、同盟国の里見家と連合し関東に侵攻、北条家・小田家・千葉家と争うが次第に劣勢となり、関東の武士が続々と北条へ寝返る。常陸の佐竹家との関係が悪化する
- 1567年、佐野昌綱と北条高広が謀反を起こすが鎮圧する
- 1568年、越中の椎名康胤が武田家に通じたため制圧に向かうが決着はつかず。家臣の本庄繁長が謀反を起こすが鎮圧する
- 1569年、出羽の大宝寺義増を降伏させる
- 1570年、北条氏康の七男、北条三郎を養子とする。三郎に自身の幼名である「景虎」を与え名乗らせる。
- 同年、不識庵謙信と名乗る
- 1571年、徳川家より新年の祝賀として太刀が贈られる。越中富山城をめぐり椎名家と激闘を繰り広げる。北条氏康が死去する。北条家の要請により佐竹家と戦う
- 1572年、北条氏政は上杉家との同盟を破棄する。再度武田家と同盟を結んだ北条軍と利根川で対峙する。富山城が加賀一向一揆と合流した越中一向一揆に一時奪われる
- 同年、織田家と同盟を結ぶ
- 1573年、武田信玄が病没。越中を自国領とし始める。飛騨にも勢力を拡大する
- 1574年、関東では北条家に苦戦を強いられる
- 1575年、養子の長尾顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲る
- 1576年、将軍・足利義昭から、武田家・北条家との三国で同盟を結ぶ要請があったが、謙信は受け入れず不成立。石山本願寺と和睦が成立。越中を平定する。能登・七尾城の戦いが始まる
- 1577年、能登畠山家家臣・遊佐続光らを調略し七尾城を陥落させる。能登畠山家の救援にきた織田軍と手取川の戦いにて大勝する
- 同年、春日山城内で倒れ昏睡状態となり、そのまま死去。享年49。死因は脳溢血といわれる
五大老・会津中納言
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)
生年 | 1556年 |
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没年 | 1623年 |
主君 | 山内上杉家第17代当主 |
拠点・知行 | 出羽米沢30万石 |
官位・役職 | 弾正少弼、越後守、従四位下、左近衛権少将、従三位、参議、近衛中将、権中納言 |
幼名 | 長尾卯松 |
法名 | 宗心 |
別名 | 長尾顕景、喜平次、越後宰相中将、越後中納言、御中城様、会津中納言 |
家族構成
父 | 長尾政景 養父:上杉謙信 |
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母 | 仙桃院(上杉謙信の姉) |
兄弟 | 長尾義景 義兄弟:畠山義春、山浦景国、景虎(北条氏康の子)、景勝(長尾政景の子)、織田氏 |
正室 | 菊姫(武田信玄の娘) 継室:桂岩院(四辻公遠の娘) |
側室 | |
子 | 定勝 養子:畠山義真(畠山義春の子) |
親族 |
逸話
生涯
- 1555年、越後・坂戸城で生誕
- 1564年、父・長尾政景が死去すると、春日山城に入り、叔父・長尾景虎の養子となる
- 1566年、関東出兵で初陣を飾る
- 1575年、上杉景勝と名乗る。上杉謙信より弾正少弼の官途名を譲られ、上杉一門衆筆頭の立場となる
- 1578年、義父で上杉家当主の上杉謙信が死去すると、北条氏康の7男で上杉謙信の養子である上杉景虎との相続争いである御館の乱が起こる。当初景勝は優勢であったが、武田勝頼が調停のため出兵すると不利になる。景勝は勝頼の妹を正室に迎え武田家と同盟を結び、再び優勢となる
- 1579年、劣勢となった上杉景虎は自害する
- 1580年、越後を掌握し上杉家の当主となる
- 1581年、織田軍4万が越中に侵攻する。家臣の新発田重家が織田軍に連動して謀反を起こす
- 1582年、織田信長が本能寺の変で死去したため、織田軍の侵攻は頓挫する。新発田重家との戦いでは大敗を喫する
- 1583年、羽柴秀吉と通じ越中を織田家から一時奪還するが、佐々成政に再び奪われる
- 1584年、小牧・長久手の戦いにて羽柴家に付く
- 1585年、富山の役でも羽柴家に付く。真田家を従属させる
- 1586年、羽柴家に臣従する。正親町天皇より左近衛少将に任ぜられる
- 1587年、新発田重家を討伐し、越後を完全に支配下に置く
- 1588年、十五里ヶ原の戦いにて、最上軍を破り庄内3郡を支配下に置く。豊臣秀吉より、豊臣姓と羽柴の名字を与えられ、従三位・参議に昇叙される
- 1589年、佐渡・本間家を破り、佐渡を支配下に置く
- 1590年、豊臣家の小田原征伐に従軍し、上野・武蔵の北条家の城を陥落させる
- 1592年、朝鮮出兵では渡海し、熊川に城を築く
- 1595年、豊臣秀吉から越後・佐渡の金山の支配を任される。大老に任ぜられる
- 1596年、中納言に任ぜられる
- 1598年、会津120万石に加増移封され、会津中納言と呼ばれる
- 同年、豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と対立が深まる
- 1599年、領内の城や道の整備を進めると、徳川家康より謀反の嫌疑をかけられる。配下の直江兼続が徳川家康に直江状を送り、徳川家と一触即発の状況になる
- 1600年、徳川軍が会津に侵攻するが、関ヶ原の戦いが勃発し、徳川軍は会津より撤退し大坂へ向かう。上杉軍は伊達・最上軍と交戦する
- 1601年、直江兼続とともに上洛し徳川家康に陳謝し、上杉家の存続は認められるが、出羽米沢30万石に減封となる
- 1604年、嫡男・玉丸が誕生する
- 1609年、母・仙桃院が死去する
- 1614年、伊達政宗の指揮下で天下普請をおこなう。大坂冬の陣では徳川方として参陣し大功をあげる
- 1615年、大坂夏の陣では京都警備を担当する
- 1619年、直江兼続が死去する
- 1623年、米沢城にて死去。享年69
上杉謙信の息子
上杉 景虎(うえすぎ かげとら)
生年 | 1554年 |
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没年 | 1579年 |
主君 | 北条氏康→上杉謙信 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | 西堂丸または竹王丸 |
法名 | 出西堂 |
別名 | 北条三郎、北条氏秀? |
家族構成
父 | 北条氏康 養父:北条幻庵、上杉謙信 |
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母 | 遠山康光の妹 |
兄弟 | 北条氏親、北条氏政、北条氏照、北条氏規、北条氏邦、景虎(北条三郎) 義兄弟:上杉景勝(長尾政景の子)、上条義春(畠山義続の子)、山浦国清(村上義清の子) |
正室 | 北条幻庵の娘 継室:清円院(長尾政景の娘) |
側室 | 妙徳院(遠山康光の義妹) |
子 | 道満丸、男子 |
親族 |
逸話
生涯
- 1554年、生誕
- 1569年、大叔父・北条幻庵の養子になり、幻庵の娘・北条幻庵娘を正室に迎える
- 同年、武田信玄の駿河侵攻に伴い甲相同盟が崩壊し、越後・上杉謙信と越相同盟を結ぶ。その際、北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められるが氏政が拒んだ為、代わりに謙信の養子となることと、謙信の姪・清円院との婚約が決まる
- 1570年、正式に上杉謙信の養子となり、春日山城にて謙信の姪・清円院との祝言が行われ、謙信の幼名・景虎を与えられる
- 1571年、父・北条氏康が死去し小田原へ帰還するが、すぐに越後へ戻る
- 1578年、上杉謙信が病死し、義兄・上杉景勝と家督を巡って争い、御館の乱が勃発する
- 同年、妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館に立て籠もり、武田勝頼の介入もあり、一時的に和睦も成立するが、勝頼が撤退すると破綻し戦いが始まる
- 1579年、御館は落城し、清円院は実弟・上杉景勝による降伏勧告を拒絶し自害する。嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう際に、憲政ともども何者かに殺害される。進退窮まり、小田原城へ逃亡しようとするが鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭い自害する。享年26
上杉十七将
宇佐美 定満(うさみ さだみつ)
生年 | 1489年? |
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没年 | 1564年 |
主君 | 上条定憲→長尾晴景→上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後琵琶島城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 宇駿、四郎右衛門尉、駿河守 |
家族構成
父 | 宇佐美房忠 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 定勝?、勝行? |
親族 |
逸話
生涯
- 1489年、生誕か
- 1535年、越後守護・上杉家一門の上条定憲と越後守護代・長尾為景の争いでは、為景側から定憲側に離反し敗北するも為景を隠居に追い込む
- 1548年、長尾景虎が越後守護代・長尾家を相続すると配下となる。景虎と対立している上田長尾家・長尾政景に対する備えとなる
- 1551年、長尾政景軍と交戦状態に入る
- 1564年、長尾政景と舟遊びの最中、舟が転覆し2人とも溺死したと伝わる。長尾政景の遺体には刀傷があったという
柿崎 景家(かきざき かげいえ)
生年 | 1513年? |
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没年 | 1574年 |
主君 | 長尾為景→長尾晴景→上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後柿崎城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 弥次郎、和泉守 |
家族構成
父 | 柿崎利家 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | 黒田秀忠の娘 |
側室 | |
子 | 祐家、晴家 |
親族 |
逸話
生涯
- 1513年、生誕か。長尾晴景と長尾景虎の争いでは景虎側に属し勝利する。景虎配下として先手組300騎の大将に任じられる
- 1558年、春日山城の留守居役に任じられる
- 1561年、北条家の小田原城攻囲戦に従軍する。第四次川中島の戦いでは戦法を務め、武田信玄本隊を壊滅寸前にまで追い込む
- 1570年、北条家との同盟締結に尽力する
- 1574年、病没
斎藤 朝信(さいとう とものぶ)
生年 | 1527年? |
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没年 | 1592年? |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後赤田城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 下野守、越後の鍾馗 |
家族構成
父 | 斎藤定信 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 景信 |
親族 |
逸話
生涯
- 1527年、生誕か
- 1561年、第四次川中島の戦いにて第三陣を務める。続く北条家の小田原城攻囲戦での第三陣を務める
- 1578年、御館の乱では上杉景勝を支持し勝利する
- 1580年、刈羽郡の6ヶ所と神余親綱の旧領を与えられる
- 1582年、本能寺の変の直後に隠居する
- 1592年ごろ、死去
直江 景綱(なおえ かげつな)
生年 | 1509年? |
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没年 | 1577年 |
主君 | 長尾為景→長尾晴景→上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後与板城 |
官位・役職 | 大和守 |
幼名 | |
法名 | 酒椿斎? |
別名 | 実綱、政綱、与兵衛尉、神五郎 |
家族構成
父 | 直江親綱 |
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母 | |
兄弟 | 景綱、重綱、篠井正信 |
正室 | 北条輔広の娘 継室:正国尼(山吉政久の娘)、山吉政応の娘 |
側室 | |
子 | 伊勢松、男子 養子:信綱(長尾顕方の子)、兼続(樋口兼豊の子) |
親族 |
逸話
生涯
- 1509年頃、生誕
- 1539年、守護・上杉定実の養子問題から起きた天文の乱では、中条藤資・平子氏らと共に入嗣推進派を形成する
- 1542年、伊達実元を迎える使者を務める
- 1546年、長尾景虎が兄・長尾晴景に反抗していた黒田氏を攻め、これを契機に病弱の晴景の代わり景虎を守護代に擁立しようとする流れが出てきて、これを推進する
- 1547年、長尾家中で兄・長尾晴景と弟・長尾景虎の間に争いが起きると中条藤資・本庄実乃らと共に景虎を支援する
- 1556年、長尾景虎の出家騒動中に中条藤資らが守護譜代の大熊朝秀を追放すると、本庄実乃と共に奉行職を務める
- 1559年、長尾景虎の2度目の上洛の際に、神余親綱と共に朝廷および幕府との交渉にあたる
- 1560年、前関白の近衛前久が越後に来訪した際はその饗応役を務める
- 同年、相模・北条氏康討伐に長尾景虎が出陣した際、春日山城の留守居を吉江景資と共に務める
- 1561年、第4次川中島の戦いでは小荷駄奉行を務める
- 1562年、大和守に任官され、政綱と改名する
- 1564年、上杉謙信のかつての名である景虎から一字を拝領して景綱を名乗る
- 1576年、上杉謙信の能登遠征に従い石動山城を守る
- 1577年、病死する。享年69
直江 兼続(なおえ かねつぐ)
生年 | 1560年 |
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没年 | 1620年 |
主君 | 上杉景勝 |
拠点・知行 | 出羽米沢 |
官位・役職 | 従五位下・山城守 |
幼名 | 樋口与六 |
法名 | |
別名 | 樋口兼続、重光 |
家族構成
父 | 樋口兼豊 養父:直江景綱 |
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母 | 藤または蘭子 |
兄弟 | 兼続、大国実頼、樋口秀兼 義兄弟:信綱(長尾顕方の子)、兼続 |
正室 | 船(直江景綱の娘) |
側室 | |
子 | 景明 養子:本庄長房(本庄繁長の子)、本多政重(本多正信の子)、清融阿闍梨? |
親族 |
逸話
生涯
- 1560年、生誕
- 1564年、長尾政景が死去すると、政景の子・長尾顕景に従い春日山城に入る
- 1578年、御館の乱では上杉景勝に属し勝利する。この頃から景勝の側近としての活動がみられる
- 1581年、直江家の婿養子となり、名跡直江家を継ぐ。上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制となる
- 1583年、山城守を名乗る
- 1584年ごろ、狩野秀治が死去すると単独で執政をおこなう
- 1586年、従五位下に叙される。新発田重家の乱にて戦功をあげる
- 1588年、豊臣秀吉より豊臣の姓を与えられる
- 1589年、佐渡征伐に従軍し戦功をあげる
- 1590年、小田原征伐に従軍し戦功をあげる
- 1592年、朝鮮出兵では景勝に従い渡海し、熊川に城を築く
- 1598年、上杉家が会津120万石に加増移封されると、出羽米沢6万石を与えられる
- 1600年、徳川家康が会津に侵攻するが、関ヶ原の戦いが勃発したため西上をはじめる。慶長出羽合戦にて伊達・最上軍と交戦する
- 1601年、上杉景勝に従い上洛し、徳川家康に謝罪する。上杉家は出羽米沢30万石へ減封となる。名を重光と改める
- 1614年、大坂冬の陣にて、徳川方として参陣し大功をあげる
- 1619年、江戸にて死去。享年60
甘粕 景持(あまかす かげもち)
生年 | 不明 |
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没年 | 1604年 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後三条城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 長重、近江守 |
家族構成
父 | 甘粕泰重 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | 黒金景信の妹 |
側室 | |
子 | 尚政、重政 |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明。
- 1547年、長野県長野市豊野近辺に三日城を築城したと伝わる
- 1559年、披露太刀之衆の一人として金覆輪の太刀を長尾景虎に進呈する
- 1561年、第四次川中島の戦いにて殿軍を務める。小田原城攻囲戦に従軍する
- 1577年、上杉謙信が没すると上杉景勝に仕える
- 1582年、新発田重家の乱にて三条城将に任ぜられる
- 1586年、新発田征伐にて第二陣を務め戦功をあげる
- 1595年、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄・大槻庄・保内の検地奉行に任ぜられる
- 1601年、米沢移封に際し1100石を与えられる
- 1602年、米沢に天正寺を開基する
- 1604年、米沢にて死去
安田 能元(やすだ よしもと)
生年 | 1557年 |
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没年 | 1622年 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後安田城 |
官位・役職 | 上総介 |
幼名 | 久千代丸 |
法名 | 順易 |
別名 | 元兼、弥九郎 |
家族構成
父 | 安田景元 |
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母 | |
兄弟 | 景広、顕元、能元 |
正室 | |
側室 | |
子 | 養子:俊広(那波氏の子) |
親族 |
逸話
生涯
- 1557年、生誕
- 1578年、上杉謙信の死後に起きた御館の乱では、兄・安田顕元と共に上杉景勝に味方する。しかし、顕元が戦後の論功行賞で起きた諍いの仲裁に失敗し、責任を感じて自害したため、家督を相続する
- 1580年、本領を安堵されると、さらに堀江宗親の旧領も与えられる
- 1582年、新発田重家の乱の鎮圧に従軍するが、そこで片足に癒えることのない傷を負ったため、跛上総と呼ばれることになる
- 1586年、上杉家が豊臣家に臣従するようになると、内政手腕に優れていたため、上杉景勝が領国を留守にする際には、政務を任せられる
- 1592年、文禄の役では藤田信吉と共に越後春日山城の留守居役を務める
- 1598年、上杉家が会津120万石へ国替えになると、浅香城と二本松城の守備を命じられる。この頃、上杉家に仕えるようになった前田慶次と親しくしている
- 1600年、徳川家康の上杉家征伐に備え小峰城を守備する
- 1601年、上杉家が出羽米沢30万石に減封されると、浅香城・二本松城を退去する
- 1602年、直江兼続の主催で亀岡文殊堂で歌会が行われると、前田慶次らと共にその時の和歌や漢詩が「直江兼続等詩歌百首帖」として奉納される
- 1612年、直江兼続らと共に十七箇条の家中法度を制定する
- 1614年、大坂冬の陣に出陣し、鴫野の戦いに参加する
- 1622年、死去する。享年66
高梨 政頼(たかなし まさより)
生年 | 1508年 |
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没年 | 1576年 |
主君 | 上杉謙信 |
拠点・知行 | 信濃 |
官位・役職 | 従四位上・刑部少輔 |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | 高梨澄頼 |
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母 | 長尾能景の娘? |
兄弟 | 政頼、清秀 |
正室 | 岩井成能の娘? |
側室 | |
子 | 頼治、秀政、頼親、内記? |
親族 |
逸話
生涯
- 1508年頃、生誕
- 1524年、高梨家が上杉定実派との対立していたことで一時的に領国を追われる
- 1530年、長尾為景に従って上条上杉氏の反乱を破る
- 1537年、従四位下に叙任される
- 1544年、従四位上に叙任される
- 1559年、武田家の海津城代・春日虎綱の侵攻で本拠地・中野城が落とされ、飯山城に後退する
- 1561年、第四次川中島の戦いに実子の高梨秀政・高梨頼親らと共に参戦し戦功を挙げるが旧領回復には至らなかった
- 1576年頃、死去する。享年69とされる
小島 弥太郎(こじま やたろう)
生年 | 不明 |
---|---|
没年 | 1547年または1561年または1582年 |
主君 | 上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後乙吉城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 貞興、一忠、勝忠、慶之助、鬼小島 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明、上杉謙信が幼い頃から側近として仕え、剛力無双で鬼小島と恐れられる
- 没年不明
荒川 長実(あらかわ ながざね)
生年 | 不明 |
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没年 | 不明 |
主君 | 上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後荒川保 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 伊豆守 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1561年、第四次川中島の戦いで旗本先陣を務め、武田信玄を3太刀斬りつけ、身体2箇所に傷を負わせたとされる
- 没年不明
飯盛 澄之(いいもり すみゆき)
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
唐崎左馬之介
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
鴫山周防守
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
神藤出羽守
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
永井丹波守
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
桃井 直光(もものい なおみつ)
生年 | 不明 |
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没年 | 不明 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | 讃岐守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 清七郎 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1531年、越後衆連判軍陣壁書に署名し、長尾為景方に加わり、上条定憲と争う意思を示したが、後に反故にし定憲に助力する
- 1561年、小田原城攻めに従軍する
- 1578年、御館の乱が起きると上杉景虎に加勢するが討死する
本庄 繁長(ほんじょう しげなが)
生年 | 1540年 |
---|---|
没年 | 1614年 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後本庄城 |
官位・役職 | 越前守 |
幼名 | 千代猪丸 |
法名 | 雨順斎全長 |
別名 | 弥次郎、鬼神 |
家族構成
父 | 本庄房長 |
---|---|
母 | 鮎川清長室の姉妹 |
兄弟 | |
正室 | 上杉景信の娘 継室:須田満親の娘 |
側室 | 大川忠秀の娘 |
子 | 顕長、充長、長房、弥吉、久長、長明、長能、利長、左源太、 |
親族 |
逸話
生涯
- 1540年、生誕
- 1551年、父の本庄房長の13回忌の法要で、父の仇である叔父の本庄長資を自害に追い込み家中の実権を握る。
- 1553年、長尾景虎の配下となる
- 1568年、武田家と大宝寺家と結び、長尾景虎に謀反を起こし色部勝長を討ち取る
- 1569年、蘆名盛氏の仲介により長尾景虎に降伏する
- 1578年、御館の乱では上杉景勝を支持し勝利する
- 1582年、新発田重家の乱にて戦功をあげる
- 1583年、大宝寺家と最上家の争いでは大宝寺家に付くが、大宝寺家は親最上の国人の反乱を招き、庄内の領地を最上家に奪われる
- 1588年、養子の大宝寺義勝とともに庄内へ侵攻し大宝寺家の旧領を奪還する
- 1589年、豊臣秀吉より、大宝寺家は上杉家の与力大名に認められる
- 1590年、庄内の藤島一揆を扇動した嫌疑をかけられ改易され大和に配流となる
- 1592年、文禄の役に参陣し赦免され、1万石を与えられる
- 1600年、伊達政宗の福島城侵攻を防ぎ上杉家中での立場が向上する。対徳川の政策では早期講和を主張し、上杉景勝は繁長の意見を容れる
- 1614年、死去。享年74。上杉景勝より武人八幡の称号を与えられる
揚北衆
中条 藤資(なかじょうふじすけ)
生年 | 不明 |
---|---|
没年 | 1568年? |
主君 | 上杉房定→上杉房能→上杉定実→上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後鳥坂城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 梅波斎 |
別名 | 与次郎、弥三郎、弾正左衛門尉、越前守、越州 |
家族構成
父 | 中条定資 |
---|---|
母 | |
兄弟 | |
正室 | 高梨政盛の娘 |
側室 | |
子 | 景資、資興、資泰 養子:河田堅親(河田元親の子) |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1494年、父・中条定資が戦死したため家督を継ぐ
- 1507年、越後守護代・長尾為景が、越後守護に上杉定実を擁立すると、藤資は安田実秀とともに為景に付き、反為景派の本庄城を陥落させる
- 1508年、反為景派の色部昌長の平林城を陥落させる
- 1513年、長尾為景と血判起請文を交わす
- 1548年、長尾晴景が長尾為景の跡を継ぐと、晴景の弟の長尾景虎を守護代に擁立しようと画策する。長尾景信・直江実綱・本庄実乃・大熊朝秀・山吉行盛らと派閥を形成し、景虎に家督を継がせることに成功し藤資は重臣の待遇を得る。その後は各地で戦功を重ねる
- 1568年ごろ、死去
新発田 長敦(しばた ながあつ)
生年 | 1538年 |
---|---|
没年 | 1580年 |
主君 | 長尾晴景→上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後新発田城 |
官位・役職 | 尾張守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 源次郎 |
家族構成
父 | 新発田綱貞 |
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母 | |
兄弟 | 長敦、重家、盛喜 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 1538年、生誕
- 1578年、御館の乱では上杉景勝に付き勝利するが不遇な扱いを受ける
- 1580年、死去。享年42
新発田 重家(しばた しげいえ)
生年 | 1547年 |
---|---|
没年 | 1587年 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後新発田城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 五十公野治長、源太、因幡守 |
家族構成
父 | 新発田綱貞 五十公野弘家 |
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母 | |
兄弟 | 長敦、重家、盛喜 |
正室 | |
側室 | |
子 | 治時 |
親族 |
逸話
生涯
- 1547年、生誕
- 1578年、御館の乱では上杉景勝に付き勝利するが不遇な扱いを受ける。重家を景勝陣営に引き入れた安田顕元は責任を感じ自刃する
- 1580年、兄・新発田長敦の死により家督を相続する
- 1581年、新潟津を奪い独立する
- 1582年、上杉景勝の侵攻を防ぐ
- 1583年、放生橋の戦いにて上杉景勝を討ち取る寸前まで追い詰める
- 1584年、通じていた蘆名盛隆が家臣の謀反で殺害されると、伊達軍が蘆名領に侵攻をはじめる。重家は上杉に対して劣勢を強いられる
- 1586年、上杉景勝が羽柴秀吉に臣従すると、新発田討伐に総力を注ぐ。新発田軍では兵糧が不足し、配下の寝返りや討ち死にが相次ぐ
- 1587年、新発田城が上杉軍により陥落する。重家は親族の色部長真の陣に突撃し討ち取られる。享年40
色部 勝長(いろべ かつなが)
生年 | 1493年 |
---|---|
没年 | 1568年 |
主君 | 長尾為景→長尾晴景→上杉謙信 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | 修理進 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 弥三郎 |
家族構成
父 | 色部憲長 |
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母 | |
兄弟 | 勝長、長継 |
正室 | |
側室 | |
子 | 顕長、長実 |
親族 |
逸話
生涯
- 1493年頃、生誕
- 1533年、上条定憲の乱では本庄房長・黒川清実・中条藤資ら揚北衆の国人と共に上条定憲に加勢し、長尾為景を隠居に追い込む。最終的には長尾晴景に従属する
- 1539年、天文の乱が起きると本庄房長・黒川清実らと共に伊達晴宗方につき、伊達稙宗方についた中条藤資の居城・鳥坂城に攻め入る
- 戦いの最中に小川長資・鮎川清長による本庄家中の謀反が起き、房長が死去すると、両者の調停に入る
- 1551年、本庄房長の子・本庄繁長が小川長資を自害に追い込んで仇討ちを果たし、続いて鮎川清長を討ち取ろうとしたときにも両者の調停に入る
- 1561年、第四次川中島の戦いでは窮地の柿崎景家を救うなどの戦功を挙げ上杉謙信から血染めの感状を賜る
- 1564年、下野佐野城攻撃でも戦功を挙げ、上杉謙信から感状を賜り、以後佐野城主を務める
- 1568年、本庄繁長の乱で繁長の居城・村上城を包囲中に繁長の夜襲に遭い討死する。享年76とされる
安田 長秀(やすだ ながひで)
生年 | 1516年? |
---|---|
没年 | 1582年 |
主君 | 長尾為景→長尾晴景→上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後安田城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 有清、武包、治部少輔、伯耆守、但馬守 |
家族構成
父 | 安田実秀? |
---|---|
母 | |
兄弟 | |
正室 | 長尾政景の妹 |
側室 | |
子 | 堅親 |
親族 |
逸話
生涯
- 1516年頃、生誕
- 1533年、上条定憲の乱で長尾氏に従い、以降長尾氏・上杉氏の家臣として仕える
- 1561年、第四次川中島の戦いでは、奮戦し色部勝長・中条藤資らと共に上杉謙信から血染めの感状を賜る
- 1578年、御館の乱では上杉景勝に味方する
- 1582年頃、死去する。享年67
越後上杉家の家臣
山本寺 定長(さんぽんじ さだなが)
生年 | 1519年 |
---|---|
没年 | 不明 |
主君 | 長尾晴景→上杉謙信→上杉景虎 |
拠点・知行 | 越後不動山城 |
官位・役職 | 伊予守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 景定 |
家族構成
父 | 山本寺定景 |
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母 | 長尾能景の娘? |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 景長、勝長 |
親族 |
逸話
生涯
- 1519年、生誕
- 1555年、第二次川中島の戦いに従軍し戦功をあげる
- 1572年、神通川渡し場の戦いに従軍するが敗れた
- 1578年、御館の乱では上杉景虎を支持し敗北する。居城を捨てて失踪する
山吉 豊守(やまよし とよもり)
生年 | 1525年 |
---|---|
没年 | 1575年 |
主君 | 上杉謙信 |
拠点・知行 | 越後三条城 |
官位・役職 | 丹波守? |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 豊盛、孫次郎、孫二郎 |
家族構成
父 | 山吉政応または山吉政久 |
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母 | 高梨頼宗の娘 |
兄弟 | |
正室 | 本庄実乃の娘 |
側室 | |
子 | 盛信、景長(景盛) |
親族 |
逸話
生涯
- 1525年、生誕
- 1552年、家督を相続する
- 1575年、または1577年ごろ、死去
狩野 秀治(かのう ひではる)
生年 | 不明 |
---|---|
没年 | 1584年? |
主君 | 尼子勝久→上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後春日山 |
官位・役職 | 讃岐守 |
幼名 | |
法名 | 彦伯 |
別名 | 新介 |
家族構成
父 | 狩野秀基 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1578年、御館の乱では上杉景勝に付き勝利する
- 1581年、上杉家の内政・外交全般の取次を担当する
- 1582年、讃岐守の官位を与えられる
- 1584年ごろ、死去
甘粕 景継(あまかす かげつぐ)
生年 | 1550年 |
---|---|
没年 | 1611年 |
主君 | 上杉謙信→上杉景勝 |
拠点・知行 | 越後五泉城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 清長、藤右衛門 |
家族構成
父 | 登坂清高 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 吉継、信綱、長継 |
親族 |
逸話
生涯
- 1550年、生誕
- 1583年、五泉城主に任じられる
- 1598年、上杉家の会津移封の際、白石城代に任じられ2万石を与えられる
- 1600年、徳川家康の会津征伐にて、伊達政宗に白石城を奪われる
- 1601年、上杉家の米沢移封の際、6600石を与えられる
- 1606年、桜田御門普請の頭取を務め、徳川将軍家より時服と銀子を賜る
- 1611年、死去。享年61