鬼義重
佐竹 義重(さたけ よししげ)
生年 | 1547年 |
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没年 | 1612年 |
主君 | 常陸佐竹家第18代当主 |
拠点・知行 | 常陸太田城、常陸57万石 |
官位・役職 | 常陸介 |
幼名 | 徳寿丸 |
法名 | |
別名 | 次郎、鬼義重、坂東太郎 |
家族構成
父 | 佐竹義昭 |
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母 | 岩城重隆の娘 |
兄弟 | 義重、那須資家、義尚、小場義宗 |
正室 | 宝寿院(伊達晴宗の娘) |
側室 | 細谷氏 |
子 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
親族 |
逸話
- 知勇兼備の将で北条家と戦った際には7人の敵兵を一瞬で切り伏せたといわれる
- 非常に用心深い性格で、就寝時の頭上からの襲撃に備えて毎日寝る場所を変えており、また敷布団を使わず薄い布を敷いていた。寒い出羽に転封された際に息子・義宣から布団を送られても結局使わなかった
生涯
- 1547年、生誕
- 1562年、父・佐竹義昭が隠居し家督を継ぐ
- 1564年、小田城の戦いで越後・上杉謙信と共に小田城主・小田氏治を打ち破る
- 1566年、小田氏治を攻め、小田領の大半を奪い、下野那須郡・武茂氏を攻めて従属させる
- 1567年、白河義親を打ち破る
- 1569年、、手這坂の戦いで小田氏治を破り小田城を奪う。
- 1571年、北条氏政が蘆名盛氏・結城晴朝と同盟を組んで従属する多賀谷政経を攻めるが援軍を送り撃退する
- 1572年、白河結城氏を従属させ、同じ頃に岩城氏・那須氏とも和睦する
- 1575年、白河城を奪う
- 1581年、御代田合戦で蘆名氏と対立する田村清顕を破り、黒川城の蘆名盛隆と同盟を結ぶ
- 1585年、沼尻の合戦で北条氏に長沼城を奪われ、合戦自体は引き分けるものの不利な状況で和睦する
- 同年、人取橋の戦いでは二本松氏救援の名目で蘆名氏と連合軍を結成し伊達政宗と戦うが引き分けに終わる
- 1586年、二本松氏がほろんだのを機に伊達氏と講和する
- 1587年、次男・佐竹義広を蘆名氏の養子にする
- 1588年、郡山合戦で再び伊達政宗と、奥州の諸大名と連合軍を結成し戦うが連合軍はまとまりを欠き数的優位にありながら岩城常隆の仲介で和睦せざるを得なくなる
- 1589年、次男・蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に惨敗し、白河結城氏・石川氏らが政宗へ寝返る
- 同年、隠居し嫡男・佐竹義宣に家督を譲る
- 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると長男・佐竹義宣と共に従軍し石田三成の忍城攻めに加わり、続いて奥州仕置にも参戦する
- 1591年、豊臣秀吉の助力もあり、大掾氏一族と武田信房ら国人領主を太田城に招いた上で謀殺し続いて額田城・小野崎昭通を追放し常陸国統一を果たす
- 1600年、関ヶ原の戦いでは長男・佐竹義宣が石田三成の西軍に付こうとして対立する
- 1602年、長男・佐竹義宣の東西どちらにも付かない中途半端な態度が理由で厳封されるが徳川家康・徳川秀忠親子に請願し改易は免れる
- 1612年、狩猟中に落馬して死去。享年66
豊臣六大将・常陸侍従
佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)
生年 | 1570年 |
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没年 | 1633年 |
主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 |
拠点・知行 | 出羽久保田城、出羽秋田20万石 |
官位・役職 | 従四位上、左近衛中将、右京大夫 |
幼名 | 徳寿丸 |
法名 | |
別名 | 次郎、常陸侍従 |
家族構成
父 | 佐竹義重 |
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母 | 宝寿院(伊達晴宗の娘) |
兄弟 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
正室 | 正洞院(那須資胤の娘)、継室:大寿院(多賀谷重経の娘) |
側室 | 岩瀬御台(蘆名盛興の娘) |
子 | 男子、男子 養子:義直(弟)、義隆(弟・岩城貞隆の子)、盛泰(弟・蘆名義広の子) |
親族 |
逸話
- 徳川家康からは「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」と評されている
- 大坂の陣の活躍で幕府から感状を受けたのはわずか12名だったが、その中の5名が佐竹家中の将だった
生涯
- 1570年、生誕
- 1586年、宇都宮氏と共に壬生氏を攻めた際に初陣を飾る
- この頃に父・佐竹義重が隠居し家督を相続する
- 1589年、豊臣秀吉から小田原攻めへの参戦を促されるが、南郷で伊達政宗と対峙中だった為、すぐに従うことができなかった
- 1590年、宇都宮国綱と共に小田原へ向かい、豊臣秀吉に謁見して臣下の礼をとり、
- 石田三成の指揮下で忍城攻めに従軍する
- 同年、小田原攻めの後、秀吉から知行として認められ奥州仕置後に本領・常陸と下野の一部を知行として安堵する朱印状を与えられる
- 同年、秀吉から従四位下の位を与えられ、侍従・右京大夫に任命される
- 1591年、豊臣秀吉から羽柴姓を与えられる
- 同年、京から帰ると鹿島郡・行方郡に残る南方三十三館の国人衆を謀殺し、常陸全域を支配する
- 同年、水戸城に入城する
- 1592年、豊臣秀吉に命じられた朝鮮出兵の為名護屋城へ入る
- 1593年、朝鮮へ渡るよう命じられるが、その後に渡海を見合わせる連絡が入り、朝鮮へは渡らなかった
- 1594年、豊臣秀吉から伏見城の普請を命じられる
- 1595年、太閤検地で54万石を安堵する朱印状を豊臣秀吉から受領する
- 1597年、従兄弟・宇都宮国綱が改易され、佐竹氏への影響も考えられたが、親交のあった石田三成の取成しで処分を免れる
- 1599年、前田利家の死に乗じて加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政・細川忠興・池田輝政が石田三成の屋敷を襲撃する
- この知らせを聞くと三成を女輿に乗せて宇喜多秀家の屋敷へ脱出させる
- 1600年、徳川家康の会津攻めに応じ京都へ入る
- 同年、家康から上杉景勝の討伐を命じられるが、景勝との間に上杉方に与する密約を交わし水戸城へ引き上げる。その後、重臣・小貫頼久を使者として家康へ送り水戸城へ帰った理由を釈明させる
- 1602年、関ヶ原の戦い後、徳川家康に謝罪せず処分もまだだったが、父・佐竹義重の説得でようやく上洛し、謝罪する
- 同年、大阪城で豊臣秀頼と徳川家康に謁見し、出羽・秋田郡へ転封される
- 同年、秋田・土崎湊城に入城する
- 1603年、久保田城の築城が始まり、土崎湊城から本拠地を移す
- 1614年、大坂冬の陣では徳川方として参戦し、今福の戦いで上杉景勝と共に木村重成・後藤基次と戦う
- 1616年、養子に迎えた弟・蘆名義広の長男・蘆名盛泰が22歳で死去する
- 1621年、佐竹北家当主となっていた末弟・佐竹義直を引き上げて嫡子にする
- 1626年、江戸城で開かれた猿楽の見物中に佐竹義直が居眠りをし、伊達政宗に注意された為、義直を廃嫡する
- 同年、大御所・徳川秀忠から亀田藩主・岩城吉隆を新たな継嗣にする許可を得る
- 1633年、死去。享年64
佐竹義重の兄弟
那須 資家(なす すけいえ)
生年 | |
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没年 | |
主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | 義重、那須資家、義尚、小場義宗 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
佐竹 義尚(さたけ よしひさ)
生年 | 1550年? |
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没年 | 1571年 |
主君 | 佐竹義昭→佐竹義重 |
拠点・知行 | 常陸府中城 |
官位・役職 | 左衛門尉 |
幼名 | 鶴寿丸 |
法名 | |
別名 | 那須資綱、長倉義尚、五郎 |
家族構成
父 | 佐竹義昭 養父:佐竹義里 |
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母 | 岩城重隆の娘 |
兄弟 | 義重、那須資家、義尚、小場義宗 |
正室 | 結城氏の娘 |
側室 | |
子 | 義種 |
親族 |
逸話
- 正室は結城家から迎えているが、それより前に佐竹義里の娘を娶ったともいわれている
生涯
- 1550年頃、生誕
- 1567年、那須氏で那須資胤と大関高増の内紛が起き、高増の支援の為に宇都宮氏と共に那須領へ進軍するが、那須軍の夜襲で大敗する
- 1571年、死去。享年22
小場 義宗(おば よしむね)
生年 | |
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没年 | |
主君 | 佐竹義昭→佐竹義重 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 義家 |
家族構成
父 | 佐竹義昭 養父:小場義忠 |
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母 | |
兄弟 | 義重、那須資家、義尚、小場義宗 |
正室 | 小場義忠の娘 |
側室 | |
子 | 義成 |
親族 |
逸話
生涯
佐竹義重の息子
蘆名 義広(あしな よしひろ)
生年 | 1575年 |
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没年 | 1631年 |
主君 | 佐竹義宣 |
拠点・知行 | 出羽 |
官位・役職 | |
幼名 | 喝食丸 |
法名 | |
別名 | 白河義広、盛重、義勝、義廣、平四郎、主計頭 |
家族構成
父 | 佐竹義重 養父:白河義親 |
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母 | 宝寿院(伊達晴宗の娘) |
兄弟 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
正室 | 小杉山御台(円通院。蘆名盛隆の養女、蘆名盛興の娘) |
側室 | 安昌院 |
子 | 盛泰、盛俊 |
親族 |
逸話
- 城下を移転させた際に、会津若松・天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに角館城下東方の花場山の麓に天寧寺を建立した
生涯
- 1575年、生誕
- 1579年、白河義親の養子になる
- 1587年、蘆名盛隆の養女・小杉山御台と婚姻し蘆名義広と名乗り蘆名氏当主となる
- 1588年、郡山合戦で佐竹氏・蘆名氏・相馬義胤で連合軍を結成し伊達政宗と戦うが敗れる
- 1589年、摺上原の戦いでは重臣・富田氏実をはじめとする家臣の造反が相次ぎ、伊達政宗に大敗する。
- 1590年、豊臣秀吉の欧州征伐で伊達政宗は奪った蘆名領地を全て没収されるが蘆名氏には返還されず、佐竹氏与力として龍ヶ崎・江戸崎に領地を与えられる
- 1600年、関ヶ原の戦いで兄・佐竹義宣が西軍に属した為、連帯責任の形で領地を没収される
- 1602年、父・佐竹義重と兄・佐竹義宣と共に秋田へ入り名を義勝に改める
- 1620年、城下町が度々河川の氾濫等に悩まされていたので古城山の南側に城下町を移す
- 1631年、病死。享年57
岩城 貞隆(いわき さだたか)
生年 | 1583年 |
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没年 | 1620年 |
主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 信濃中村1万石 |
官位・役職 | 但馬守 |
幼名 | 能化丸 |
法名 | |
別名 | 定隆、忠次郎 |
家族構成
父 | 佐竹義重 養父:岩城常隆 |
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母 | 宝寿院(伊達晴宗の娘) |
兄弟 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
正室 | 慶雲院(桂雲院。相馬義胤の娘) |
側室 | |
子 | 佐竹義隆 |
親族 |
逸話
- 浪人となった貞隆を支え続けた42人の家臣が描かれた「岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚」が存在する
生涯
- 1583年、生誕
- 1590年、岩城常隆が病死し、家督を継ぎ、豊臣秀吉も岩城氏の家督継承を認め磐城平12万石を安堵される
- 1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に属するが、兄・佐竹義宣に従って上杉景勝の征伐には参加しなかった
- 1602年、上杉景勝の征伐に参加しなかったのを理由に兄・佐竹義宣と共に処分を下される。義宣は厳封で済んだが自身は領地を全て没収される。後に土井利勝の意向で徳川家康に再興を嘆願し本多正信の配下となる
- 1615年、大坂夏の陣で本多正信の配下として従軍し戦功を挙げる
- 1616年、大坂夏の陣での戦功により、信濃・中村に1万石を与えられ、大名として復帰する
- 1620年、死去。享年38
岩城 宣隆(いわき のぶたか)
生年 | 1584年 |
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没年 | 1672年 |
主君 | 佐竹義宣→徳川家光→徳川家綱 |
拠点・知行 | 出羽亀田 |
官位・役職 | 従五位下・但馬守 |
幼名 | 彦太郎 |
法名 | |
別名 | 多賀谷宣家、佐竹宣家、宣家 |
家族構成
父 | 佐竹義重 養父:多賀谷重経 |
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母 | 宝寿院(伊達晴宗の娘) |
兄弟 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
正室 | 珪台院(多賀谷重経の娘) 継室:顕性院(真田信繁の娘) |
側室 | |
子 | 重隆、隆家 養子:多賀谷隆経(戸村義国の子) |
親族 |
逸話
- 山形城番を務めた際は検地などを進め、後の藩政の基礎を固めた
生涯
- 1584年、生誕
- 年代不明、多賀谷重経の養子となり、多賀谷宣家と名乗る
- 1600年、席雄鹿原の戦いで多賀谷家が改易され、佐竹家へ戻る
- 1602年、兄・佐竹義宣が秋田へ転封すると養父・多賀谷重経と共に従い、久保田藩重臣となり仙北・白岩城主、続いて山本・檜山城主を務める
- 1628年、亀田藩主の甥・佐竹義隆が久保田藩主で兄・佐竹義宣の養子となった為、亀田藩主となる
- 1634年、名を宣隆に改める
- 1643年、山形藩主・保科正之が陸奥・会津藩に転封となる際に戸沢政盛・六郷政勝と共に山形城番を務める
- 1656年、隠居し家督を嫡男の岩城重隆に譲る
- 1672年、死去。享年89
佐竹 義直(さたけ よしなお)
生年 | 1612年 |
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没年 | 1656年 |
主君 | 佐竹義宣 |
拠点・知行 | 山城尊寿院 |
官位・役職 | |
幼名 | 申若丸 |
法名 | 芳揚軒阿證 |
別名 | 義継?、寂尓、彦五郎 |
家族構成
父 | 佐竹義重 養父:佐竹義廉、佐竹義宣 |
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母 | 細谷氏 |
兄弟 | 義宣、蘆名義広、岩城貞隆、岩城宣隆、義直 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 20回忌にあたる1675年に法印号を、100回忌にあたる1755年に上人号が贈られている
生涯
- 1612年、生誕
- 1614年、有力な分家の北家・佐竹義廉が、大坂冬の陣への進軍中に遠江・掛川で急死した為、養子となって北家を継ぐ
- 1621年、江戸で元服し、彦次郎義直と名乗る
- 同年、将軍・徳川秀忠に御目見し、佐竹義宣の嫡子として認められる
- 1626年、江戸城で開かれた猿楽の見物中に居眠りをし、伊達政宗に注意された為、
- 廃嫡される
- 1628年、佐竹家臣・梅津政景を通じて佐竹義宣に秋田を離れ高野山へ移ることを許可される
- 1638年、出家し、芳揚軒阿證と名を改める
- 1646年、師事した仁和寺の一品親王覚深から尊寿院号と社地を賜わる
- 1650年、佐竹家の協力を得て翌年に尊寿院跡地に堂舎を再興して住職となった
- 1656年、死去。享年45
鬼真壁
真壁 氏幹(まかべ うじもと)
生年 | 1550年 |
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没年 | 1622年 |
主君 | 佐竹義重→佐竹義宣 |
拠点・知行 | 常陸真壁城 |
官位・役職 | 安芸守 |
幼名 | |
法名 | 暗夜軒 |
別名 |
家族構成
父 | 真壁久幹 |
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母 | |
兄弟 | 氏幹、義幹 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 | 養子:幹房 |
逸話
- 武勇に秀でており、全長2メートルにも及ぶ金砕棒を戦場で振り回し鬼真壁と恐れられた
- 剣豪である塚原卜伝に剣術を学んだとされ、後に霞流棒術を創始したとされている
生涯
- 1550年、生誕
- 1560年頃、真壁家当主となり早くから佐竹義重に仕え、妹婿・梶原政景と共に対北条家の最前線に立つ
- 1585年と1588年に江戸重通と大掾清幹の間で争いが起こると親族である清幹の救援に馳せ参じて1588年には佐竹義重とも戦った
- 1590年、豊臣秀吉が小田原攻めを始めると佐竹義宣と共に従軍し、秀吉に拝謁もしている
- 1592年、文禄の役では佐竹軍として弟・真壁義幹と共に朝鮮へ渡海している
- 1598年、嫡男がいなかったため、弟・真壁義幹の息子で甥・真壁房幹を養子に迎え家督を譲る
- 1622年、死去。享年73
常陸佐竹家の家臣
岡本 禅哲(おかもと ぜんてつ)
生年 | 不明 |
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没年 | 1583年 |
主君 | 佐竹義重 |
拠点・知行 | 常陸太田城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 梅江斎、竹閑斎、慕叟庵 |
別名 | 又太郎 |
家族構成
父 | 岡本曾端 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | 小山秀綱の娘 |
側室 | |
子 | 岡本顕逸 |
親族 |
逸話
- 和歌の達人
- 足利義昭や細川幽斎と交流があった
生涯
- 生年不明
- 1583年、死去
岡本 顕逸(おかもと けんいつ)
生年 | 不明 |
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没年 | 不明 |
主君 | 佐竹義重→佐竹義宣 |
拠点・知行 | 常陸松山館 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 好雪斎 |
別名 | 良哲 |
家族構成
父 | 岡本禅哲 |
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母 | 小山秀綱の娘 |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 宣綱 |
親族 |
逸話
佐竹義重・義宣の父子に仕え、父・禅哲同様に外交面で手腕を発揮した
生涯
- 生年不明
- 1590年、佐竹義重の三男・岩城貞隆が岩城氏に様子に入った際、貞隆を補佐して政務を取り仕切るが病のため隠居し、家督を子の岡本宣綱に譲る
- 没年不明