【美濃斎藤家】斎藤道三と家族・家臣一覧

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    美濃の蝮

    斎藤 道三(さいとう どうさん)

    斎藤道三の肖像画
    出典:Wikipedia:斎藤道三像(常在寺蔵)
    生年1494年
    没年1556年
    主君美濃斎藤家初代当主
    拠点・知行美濃稲葉山城
    官位・役職山城守
    幼名
    法名道三
    別名長井規秀、利政、秀龍、新九郎、左近大夫

    家族構成

    松波庄五郎または松波基宗
    兄弟
    正室小見の方(明智光継の娘)
    側室深芳野(稲葉通則の娘または一色義清の娘)
    義龍、孫四郎、喜平次、日饒、日覚、利堯、利治、長井道利、松波政綱
    養子:正義
    親族

    逸話

    生涯

    • 1494年、生誕
    • 1505年、京都・妙覚寺で出家し僧侶となり法蓮房と名乗る
    • 1527年、目をかけてもらっていた土岐頼芸が兄・土岐頼武との家督争いに敗れると、頼武を襲撃して越前へ追い払う
    • 1530年もしくは1533年、同じく土岐頼芸から信任されていた長井長弘を謀殺すると長井新九郎規秀を名乗る
    • 1535年、土岐頼芸と共に土岐頼武の嫡男・土岐頼純と戦う
    • 1538年、美濃守護代・斎藤利良が病死すると、名跡後を継いで斎藤新九郎利政と名乗る
    • 1539年、居城である稲葉山城の改築を行なう
    • 1541年、土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺する
    • 1542年、土岐頼芸の居城・大桑城を攻めると、頼芸を尾張へ追放して美濃国主となる
    • 1547年、織田信秀が居城・稲葉山城へ攻め込んでくるが、籠城戦で織田軍を壊滅状態に追い込む
    • 同年、土岐頼純が急死した事もあり信秀と和睦する
    • 1548年、娘・帰蝶を織田信秀の嫡子・織田信長に嫁がせる
    • 1552年、揖斐・北方城に留まっていた土岐頼芸を再び尾張へ追放し美濃を完全に平定する
    • 1554年、家督を嫡男・斎藤義龍へ譲ると道三と名乗り鷺山城に隠居する
    • 1555年、斎藤義龍が弟たちを殺害し、道三に対して挙兵する
    • 1556年、娘婿・織田信長の援軍も間に合わず、長良川の戦いで戦死する。享年63

    斎藤道三の息子

    斎藤 義龍(さいとう よしたつ)

    斎藤義龍の肖像画
    出典:Wikipedia:斎藤義龍像(常在寺蔵)
    生年1527年
    没年1561年
    主君美濃斎藤家第2代当主
    拠点・知行美濃稲葉山城
    官位・役職治部大輔、左京大夫、美濃守
    幼名豊太丸
    法名
    別名利尚、范可、高政、一色義龍、新九郎

    家族構成

    斎藤道三
    深芳野(稲葉通則の娘または一色義清の娘)
    兄弟義龍、孫四郎、喜平次、日饒、日覚、利堯、利治、長井道利、松波政綱
    正室近江の方(浅井亮政の娘、浅井久政の養女)
    継室:一条家の娘、某
    側室
    龍興、菊千代
    親族

    逸話

    生涯

    • 1527年、生誕
    • 1554年、父・斎藤道三の隠居に伴い美濃守護代・斎藤家の家督を継ぎ稲葉山城主となる
    • 1555年、叔父とみられる長井道利と共謀し、弟・斎藤孫四郎・喜平次を日根野弘就に殺害させる。このため父・斎藤道三は大桑城へ逃亡する
    • 1556年、長良川の戦いで父・斎藤道三を討ち倒す
    • 尾張・織田信長との戦いが続くこの頃、将軍・足利義輝から一色家を名乗ることを許され、斎藤家から改名する
    • 1558年、治部大輔に任官される
    • 1559年、上洛し将軍・足利義輝に謁見し、家臣の名字を一色へ改めさせる
    • 1561年、左京大夫に任じられる
    • 同年、病死する。享年35

    斎藤 龍興(さいとう たつおき)

    斎藤龍興の肖像画
    出典:Wikipedia:落合芳幾画
    生年1547年または1548年
    没年1573年
    主君美濃斎藤家第3代当主
    拠点・知行美濃稲葉山城
    官位・役職
    幼名喜太郎
    法名
    別名一色義糺、一色義輔、一色義棟、一色義紀、一色式部大輔右兵衛大夫、治部大輔

    家族構成

    斎藤義龍
    近江の方(浅井亮政の娘、浅井久政の養女)
    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1547年もしくは1548年、生誕
    • 1561年、父・斎藤義龍の死に伴い斎藤家の家督を継ぐが、祖父・斎藤道三や父・斎藤 義龍ほどの力は無く、尾張・織田信長の侵攻や、祖父の代から仕えた明智光秀・森可成らの流出により家臣団の信望を得られなかった
    • 同年、森部の戦いが起き、戦闘には勝利するが斎藤六宿老・日比野清実・長井衛安が死亡する
    • 1563年、織田信長との新加納の戦いでは家臣・竹中半兵衛の活躍で織田軍を破る
    • 1564年、新加納の戦いで戦功を挙げた竹中半兵衛を称賛するどころか小馬鹿にしたため、半兵衛と西美濃三人衆の1人・安藤守就によって、重用していた斎藤飛騨守を殺害された上、居城・稲葉山城を占領される
    • このため鵜飼山城、続いて祐向山城へ逃走する
    • 後に稲葉山城は返還されるが、この事件で斎藤家の弱体化が知れ渡る
    • 1565年、織田信長へ寝返った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主・岸信周が討たれ、大叔父であり関城主・長井道利も織田家の武将となっていた斎藤利治に敗れ、中濃地方も信長の勢力圏となる
    • 1567年、西美濃三人衆の稲葉良通・氏家直元・安藤守就が織田信長に内通し、稲葉山城の戦いが起きると敗北し、北伊勢・長島へ逃亡する。以後、大名として返り咲くことは無かった
    • 1569年、織田信長が擁立した15代将軍・足利義昭を三好三人衆と共に攻めるが失敗する
    • 1570年、長井道利と共に長島一向一揆に参戦し織田信長への反抗を続ける
    • 同年、野田城・福島城の戦いに参戦する
    • 1573年、織田信長と朝倉義景の間に起きた刀根坂の戦いで義景を支援するが戦死する。享年26もしくは27

    西美濃三人衆

    稲葉 良通(いなば よしみち)

    稲葉良通の肖像画
    出典:Wikipedia:稲葉一鉄像(妙心寺智勝院蔵 長谷川等伯筆)
    生年1515年
    没年1589年
    主君土岐頼芸→斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興→織田信長→豊臣秀吉
    拠点・知行近江曽根城
    官位・役職三位法印
    幼名彦六
    法名一鉄
    別名通以、通朝、貞通、長通、彦四郎、彦六郎、右京亮、伊予守

    家族構成

    稲葉通則
    国枝正助の娘
    兄弟通勝、通房、通明、豊通、通広、良通
    正室三条西実枝の娘
    側室加納家の娘
    重通、貞通、方通、直政
    親族

    逸話

    生涯

    • 1515年、生誕。幼い頃から崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の下で学ぶ
    • 1525年、父・稲葉通則と5人の兄全員が浅井亮政との牧田の戦いで戦死したため、還俗して祖父・稲葉通貞と叔父・稲葉忠通が後見人となり家督と曽根城を継ぐ。
    • 後に土岐頼芸、続いて斎藤道三に仕え西美濃三人衆の1人として活躍する
    • 1556年、斎藤道三とその息子・斎藤義龍との間に起きた長良川の戦いでは義龍側に付く
    • 1561年、斎藤義龍が病死し、斎藤龍興が跡を継ぐと織田信長が美濃侵攻を本格化させる
    • 1563年、西美濃三人衆の安藤守就・氏家直元と共に斎藤龍興に諫言するが聞き入られなかった
    • 1567年、西美濃三人衆の安藤守就・氏家直元と共に斎藤家の配下から離れ織田信長に下る
    • 1568年、織田信長の上洛戦に従軍する
    • 1569年、北畠具教・北畠具房父子が籠城する大河内城攻めに従軍する
    • 1570年、織田信長が朝倉義景討伐のために越前へ進軍すると、斎藤利三と共に江州路警護のため守山城へ入る。一揆勢が襲撃して来るが撃退し信長から感状を与えられる
    • 同年、大阪楼岸を三好長逸の襲撃から守る
    • 1571年、長島一向一揆攻めに従軍する
    • 1573年、槇島城の戦いに嫡男・稲葉貞通と嫡孫・稲葉典通と共に参戦する
    • 1574年、出家して一鉄と名乗る
    • 1575年、長篠の戦い、越前一向一揆攻めに従軍する
    • 1576年、天王寺の戦いに従軍する
    • 1577年、紀州攻め、加賀一向一揆攻め、播磨・神吉城攻めに従軍する
    • 1578年、有岡城の戦いに従軍する
    • 1579年、稲葉家の家督と曽根城を嫡男・稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る
    • 1580年、安藤守就が北方城を追われると織田信長から安藤家の旧領を与えられる
    • 1582年、武田攻めから凱旋した織田信長を領内の呂久の渡しでもてなす
    • 同年、本能寺の変で信長が死去すると美濃国人衆に呼びかけて、岐阜城に甥・斎藤利堯を擁立し、明智光秀に対しての独立を画策する
    • またかつて信長に追放された安藤守就が光秀と手を結び、本田城を襲撃して来るが撃退し、守就らを敗死させる
    • 同年、清州会議後に織田信孝が岐阜城を相続し、美濃は支配下に置かれるはずだったが、信孝と対立を深める羽柴秀吉に従う
    • 1583年、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の不破家の西保城を攻めるが、織田信孝から城下の焼き討ちを受ける
    • 1584年、小牧・長久手の戦いにも従軍し、戦功を挙げる
    • 1585年、豊臣秀吉が関白に就任すると法印に叙任され、三位法印と名乗る
    • 1587年、島津攻めから帰還した豊臣秀吉を西宮に出迎え、大坂城山里丸の茶室に招かれる
    • 1588年、美濃清水城にて死去する。享年74

    安藤 守就(あんどう もりなり)

    生年1503年
    没年1582年
    主君土岐頼芸→斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興→織田信長
    拠点・知行美濃北方城
    官位・役職
    幼名
    法名道足、無用斎
    別名安東守就、日向守、伊賀守

    家族構成

    伊賀定重
    稲葉良通の伯母
    兄弟頼郷、郷重、郷氏
    正室
    側室
    郷良、郷利、郷春、守吉、定郷、賢郷、郷純、郷忠
    親族

    逸話

    生涯

    • 1503年、生誕。当初は土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三に奪われると、道三の家臣として仕える。稲葉良通・氏家直元と並んで西美濃三人衆と称される
    • 1556年、斎藤道三とその息子・斎藤義龍との間に起きた長良川の戦いでは義龍側に付く
    • 1564年、斎藤義龍の死後に仕えていた斎藤龍興が一部の重臣を重用したので、諫言したが聞き入れられなかったため、娘婿の竹中半兵衛と共に斎藤飛騨守らを殺害し稲葉山城を占領する
    • 同年、立政寺に禁制を与える
    • 1567年、織田信長の美濃侵攻の際に稲葉良通・氏家直元と共に内通しそのまま信長の家臣となる
    • 1568年、織田信長の上洛戦に従軍する
    • 上洛の際に医師・曲直瀬道三と交流する
    • 1570年、姉川の戦いに従軍する
    • 1571年、長島一向一揆攻めに従軍するが負傷する
    • 1573年、槇島城攻めに従軍する
    • 同年、越前朝倉攻めに従軍する
    • 1574年、長島一向一揆攻めに従軍する
    • 同年、石山本願寺攻めに従軍する
    • 1577年、柴田勝家の援軍として加賀に進軍する
    • 1578年、羽柴秀吉の援軍として播磨・神吉城攻めへ進軍する
    • 同年、織田信長に造反した荒木村重の有岡城包囲戦に従軍する
    • 1580年、織田信長に野心ありと嫌疑をかけられて林秀貞・丹羽氏勝と共に追放される
    • 1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、長男・安藤定治と共に再起を試みて北方城を奪う。しかし稲葉良通に攻められ敗北し、一族揃って自害する。享年80

    氏家 直元(うじいえ なおもと)

    生年1512年
    没年1571年
    主君土岐頼芸→斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興→織田信長
    拠点・知行美濃
    官位・役職
    幼名
    法名貫心斎卜全
    別名友国、常陸介、桑原三河守

    家族構成

    氏家行隆
    長井利隆の娘
    兄弟
    正室
    側室
    直昌、行広、行継
    親族

    逸話

    生涯

    • 1512年、生誕。当初は土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三に奪われると、道三の家臣として仕える
    • 1556年、斎藤道三とその息子・斎藤義龍との間に起きた長良川の戦いでは義龍側に付く
    • 1567年、織田信長の美濃侵攻の際に稲葉良通・安藤守就と共に内通しそのまま信長の家臣となる
    • この頃から卜全と名乗る
    • 1569年、北畠具教が籠城する大河内城攻めに従軍する
    • 1570年、姉川の戦いで戦功を挙げる
    • 1571年、織田信長の長島一向一揆攻めの際に信長の命令で、伊勢・桑名郡の多度大社の本宮や多度大社の神宮寺であった宝雲寺の七十余りに及ぶ堂や塔を全て焼き尽くす
    • 同年、柴田勝家と共に織田軍が撤退する際に殿軍を務めるが、織田軍に抵抗していた六角一族の佐々木祐成に討ち取られる。享年38とされるが、59という説もある