【肥前龍造寺家】龍造寺隆信と家族・家臣一覧

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    肥前の熊

    龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

    龍造寺隆信の肖像画
    出典:Wikipedia:龍造寺隆信像(宗龍寺蔵、佳山宗勗賛)享保4(1719)年、佐賀県重要文化財
    生年1529年
    没年1584年
    主君肥前龍造寺家当主
    拠点・知行肥前佐嘉
    官位・役職
    幼名長法師丸
    法名円月、円月坊
    別名胤信、隆胤、山城守、中納言、中将、肥前の熊、五州二島の太守、九州三強の一人

    家族構成

    龍造寺周家
    慶誾尼(龍造寺胤和の娘)
    兄弟隆信、信周、長信
    義兄弟:鍋島直茂
    正室龍造寺家門の娘
    側室
    政家、隆平、江上家種、後藤家信
    親族

    逸話

    • 若い頃から肥前を統一するまでは、英気にあふれた人物だったといわれるが、隠居後は酒色に溺れるなど、乱行が目立ったとされる
    • かなりの肥満体で馬には乗れず、六人担ぎの駕籠に乗っていたといわれる

    生涯

    • 1529年、生誕。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられる
    • 1536年、出家して寺僧となり、円月と名乗る
    • 1545年、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣・馬場頼周に誅伐され、曾祖父・龍造寺家兼に連れられて筑後・蒲池氏の下へ逃れる
    • 1546年、蒲池鑑盛の援助を受け挙兵し、馬場頼周を討伐し龍造寺家を再興するが龍造寺家兼は高齢と病のために死去する
    • 1547年、重臣・石井兼清の先導で曾祖父・龍造寺家兼の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗ると水ヶ江龍造寺家の家督を継ぐ
    • 同年、龍造寺本家当主・龍造寺胤栄に従い少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放する
    • 1548年、龍造寺胤栄が死去するとその未亡人と婚姻し、本家・村中龍造寺の家督も継承する
    • 1550年、家督継承に不満を抱く家臣も多かったため、大内義隆と手を結び、義隆から一字を与えられ、隆胤と名を改め続いて隆信と名乗り、大内家の力を背景に家臣の不満を抑え込む
    • 1551年、大寧寺の変で大内義隆が家臣・陶隆房の謀反で死去すると、後ろ盾を失い家臣・土橋栄益よって肥前を追われると筑後に逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛の庇護を受ける
    • 1553年、蒲池鑑盛の援護を受けて挙兵し肥前を奪還すると土橋栄益を捕らえて処刑する
    • 1559年、勢福寺城を攻め少弐冬尚を自害に追い込み、大名としての少弐氏を完全に滅ぼす
    • 1560年、千葉胤頼を攻め滅ぼす
    • 1561年、川上峡合戦で神代勝利を討ち破る
    • 1563年、丹坂峠の戦いで千葉胤連と同盟を組み、有馬氏や大村氏の連合軍を破る
    • 1569年、大友宗麟が大軍を率いて肥前へ攻め込んでくるが、毛利元就が豊前へ侵攻して来たため、宗麟は肥前から退却する
    • 1570年、大友宗麟の弟・大友親貞を総大将とする軍が侵攻して来るが、鍋島直茂の奇襲で撃退する
    • 1572年、少弐政興を肥前から追放する
    • 1573年、西肥前を平定する
    • 1575年、東肥前を平定する
    • 1578年、有馬鎮純の松岡城を攻略して肥前の統一を果たす
    • 同年、耳川の戦いで大友宗麟が島津義久に大敗すると、大友氏の混乱の隙を付いて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの自立を果たす
    • 1580年、家督を嫡男・龍造寺政家に譲り、須古城へ隠居する
    • 1584年、有馬晴信が龍造寺氏から離反し、深江城を攻め、さらに島津氏がこれに加担する。深江城を救援し有馬氏討伐のため派兵するが攻略が進まず自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決断し、沖田畷の戦いが起きる
    • 龍造寺軍は2万5千で島津軍は1万未満と大きな兵力差があったが、狭く進行が難しい路へ追い込まれ島津義久の弟・島津家久と有馬勢の挟撃を受け敗北し、島津家臣・川上忠堅に討ち取られる。享年56

    龍造寺の仁王門

    鍋島 直茂(なべしま なおしげ)

    鍋島直茂の肖像画
    出典:Wikipedia:鍋島直茂像(鍋島報效会所蔵)
    生年1538年
    没年1618年
    主君龍造寺家兼→龍造寺隆信→龍造寺政家→豊臣秀吉→徳川家康
    拠点・知行肥前佐嘉
    官位・役職従五位下・飛騨守、加賀守
    幼名彦法師丸
    法名
    別名信安、信真、信昌、信生、孫四郎、左衛門大夫、龍造寺の仁王門、老虎

    家族構成

    鍋島清房
    華渓(龍造寺家純の娘)
    兄弟信房、直茂、小河信俊、龍造寺康房
    義兄弟:龍造寺隆信
    正室慶円(高木胤秀の娘)
    継室:彦鶴(藤、陽泰院。石井常延の娘)
    側室井手口小左衛門の妹
    勝茂、忠茂
    養子:茂里(石井信忠の子)、龍造寺高房(龍造寺政家の子)
    親族

    逸話

    • 義兄弟の龍造寺隆信とははじめは仲が良かったが、隆信が隠居し酒色に溺れると次第に疎まれていった
    • 豊臣秀吉からは「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評された

    生涯

    • 1538年、生誕
    • 1541年、主君・龍造寺家兼の命令で、小城郡・千葉胤連の養子になる
    • 1545年、少弐氏によって龍造寺家純らが殺され、龍造寺氏と少弐氏が敵対すると、実父・鍋島清房は養子縁組を解消させて実家に戻らせる
    • 1548年、龍造寺隆信が龍造寺の家督を継ぎ、隆信の生母・慶誾尼が父・鍋島清房の継室となり隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信頼を受けるようになる
    • 1559年、勢福寺城を攻めに従軍し戦功を挙げ、少弐氏を滅亡させる
    • 1569年、大友宗麟が肥前へ侵攻して来ると、隆信に籠城を進言すると同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請する
    • 1570年、今山の戦いでは夜襲隊を指揮して大友親貞を討ち破る
    • 1575年、少弐氏の残党を完全に滅ぼす
    • 1578年、肥前南部の有馬氏・大村氏を服従させる
    • 1580年、龍造寺隆信が隠居し隆信の嫡男・龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人となる
    • 1581年、龍造寺隆信と共謀し島津氏と内通した筑後柳川城主・蒲池鎮漣を肥前へ誘い出して殺害する
    • 1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れ戦死すると、直茂は続いて自害しようとしたが家臣に止められて肥前に撤退する
    • 1589年、豊臣秀吉から嫡男・鍋島勝茂と共に豊臣姓を与えられる
    • 1592年、文禄の役では龍造寺家臣団を率いて、加藤清正を主将とする日本軍二番隊として従軍する
    • 1597年、息子・鍋島勝茂と交代して日本へ帰国する
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは息子・鍋島勝茂が当初西軍に属していたが本線が始まる前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させる
    • その後、徳川家康への恭順を示すため小早川秀包の久留米城を攻略し、立花宗茂の柳川城を開城させる
    • 戦後、江戸時代に入り佐賀藩が成立すると龍造寺家中への遠慮のためか、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は嫡男・鍋島勝茂が就いた
    • 1618年、病死する。享年81

    龍造寺四天王

    成松 信勝(なりまつ のぶかつ)

    生年1540年?
    没年1584年
    主君龍造寺隆信
    拠点・知行肥前
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名新十郎、刑部少輔、遠江守

    家族構成

    兄弟信勝、又兵衛
    正室
    側室
    親族

    逸話

    • 成松家は佐賀藩士として存続し、孫・成松新兵衛は祖父の武勇を遺すため「成松新十郎信勝戦功略記」を記した

    生涯

    • 1540年頃、生誕
    • 1570年、今山の戦いで大友軍に夜襲をかけ、敵の総大将・大友親貞を討ち取る戦功を挙げ、龍造寺隆信より感状を受ける
    • 1584年、沖田畷の戦いで島津氏と戦い、主君・龍造寺隆信と共に討死する。享年45

    百武 賢兼(ひゃくたけ ともかね)

    生年不明
    没年1584年
    主君龍造寺隆信
    拠点・知行肥前
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名兼道、兼通、志摩守

    家族構成

    戸田兼定
    兄弟賢兼、兼政
    正室因久妙月
    側室
    養子:茂兼(石井賢次の子)
    親族

    逸話

    • 百武家は養子・百武茂兼が家督を継ぎ、龍造寺家が没落すると鍋島家の重臣として代々仕えた

    生涯

    • 生年不明、父・戸田兼定の代より龍造寺家に仕える。龍造寺軍の中核として各地を転戦し戦功を挙げ、主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を持つと賞され、百武姓を与えられる
    • 1584年、島津氏との沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信と共に討死する

    木下 昌直(きのした まさなお)

    生年不明
    没年1610年
    主君龍造寺隆信→鍋島直茂
    拠点・知行肥前
    官位・役職
    幼名
    法名生安
    別名生直、四郎兵衛尉

    家族構成

    養父:木下覚順
    兄弟義兄弟:仙叔蔵王
    正室木下覚順の娘
    側室
    四郎兵衛
    親族

    逸話

    • 龍造寺四天王の中では唯一、沖田畷の戦いを生き延びた

    生涯

    • 生年不明
    • 1562年、梶峰城攻めに従軍し、敵将・内田治部少輔を討つ戦功を挙げる
    • 1578年、梅尾城・小代氏を攻めた際は交流のあった小代親忠の降伏を仲介する
    • 1584年、島津氏との沖田畷の戦いは鍋島直茂の率いる別動隊に属する。しかし主君・龍造寺隆信や主だった武将が相次いで戦死し、本隊が壊滅状態になると、撤退を始めた鍋島隊の殿を務め奮戦し大野城へ帰還する
    • 1592年、文禄の役では鍋島直茂に従い渡海する。帰国後は出家し生安と名乗る
    • 1610年、死去する

    江里口 信常(えりぐち のぶつね)

    生年1548年?
    没年1584年
    主君鍋島直茂→龍造寺隆信
    拠点・知行肥前
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名藤七兵衛

    家族構成

    江里口常併
    兄弟某、信常
    正室
    側室
    九郎右衛門
    親族

    逸話

    • 敵対した島津家久からも「無双の剛の者」と称えられた

    生涯

    • 1548年頃、生誕。はじめは鍋島信房に仕え、その後龍造寺隆信に仕える
    • 1584年、島津氏との沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信が戦死すると単身、味方と偽って敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久の首を狙うが力及ばず討たれる。享年37

    円城寺 信胤(えんじょうじ のぶたね)

    生年不明
    没年1584年
    主君龍造寺隆信
    拠点・知行肥前
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名美濃守

    家族構成

    増誾
    鹿江兼明の娘
    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    • 円城寺家は千葉家の子孫に当たるといわれている

    生涯

    • 生年不明
    • 1570年、今山の戦いでは同僚の鍋島直茂を援護して大友親貞を破る
    • 1584年、島津氏との沖田畷の戦いでは主君・龍造寺隆信の影武者を演じ、敵軍に切り込み、身代わりとなって討死する