相模の獅子
北条 氏康(ほうじょう うじやす)
生年 | 1515年 |
---|---|
没年 | 1571年 |
主君 | 後北条家第3代当主 |
拠点・知行 | 相模・伊豆・武蔵 |
官位・役職 | 従五位上、左京大夫、相模守 |
幼名 | 伊勢伊豆千代丸 |
法名 | 太清軒 |
別名 | 新九郎、相模の獅子、相模の虎 |
家族構成
父 | 北条氏綱 |
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母 | 養珠院殿(鎌倉北条氏の末裔の娘?) |
兄弟 | 氏康、為昌、氏尭、義兄弟:綱成(福島正成の子) |
正室 | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
側室 | 遠山康光室の姉妹、松田殿(松田憲秀の娘) |
子 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
親族 |
逸話
- 子供のころは鉄砲の音に怯えるような臆病な性格だったが、成長すると「氏康傷」と呼ばれる刀傷を負いながらも戦う勇猛果敢な武将となった
生涯
- 1515年、生誕
- 1518年、祖父・北条早雲から護符と太刀および置文を授かり、北条氏の後継者として位置づけられる
- 1525年、この頃福島正成の息子・北条綱成と出会う
- 1529年、元服と同時に北条氏を名乗る
- 1530年、小沢原の戦いで初陣を飾り、上杉軍を奇襲し大勝利を収める
- 1535年、山中の戦いでは父・北条氏綱が武田軍に大勝し武田信虎の弟・勝沼信友を討ち取るが、この際、別動隊を指揮して武田軍を混乱させる戦功を挙げる
- 1536年、今川家当主・今川氏輝の死後発生した内乱・花倉の乱では父・北条氏綱が嫡流の今川義元を支援する事を決め、援軍の総大将として駿河に進軍する。今川良真との戦いに勝利し、義元が今川家当主となる
- この頃に又従兄弟にあたる今川氏親の娘・瑞渓院を正室に迎える
- 1537年、第一次河東の乱で扇谷・川越城を落城させると北条綱成を城主とし江戸城に戻る
- 1538年、第一次国府台合戦では父・北条氏綱と共に出陣し、足利義明・里見義堯・真里谷武田家が率いる連合軍と戦い、小弓公方・足利義明を討ち取り、小弓公方を滅亡させる。この合戦以降、氏綱に代わって北条軍を指揮することになる
- 同年、下総・千葉昌胤と共に国府台城・亥鼻城・馬加城を次々と攻め落とし、そのまま小弓御所も落として、下総を制圧する
- 1539年、上総を追放されていた真里谷信隆を支援し、久留里城に入り信隆を城主とし、続いて東上総の酒井定治を調略する
- 同年、孤立していた川越城を救う為、中武蔵へ進軍した。勝沼城・三田綱秀と毛呂城・毛呂顕秀を裏切らせて滝山城主・大石元興を攻め落とし、従属させる。続いて蕨城主・渋川義基も従属させると、太田資正を難波田城まで撤退させる
- 1540年、鶴岡八幡宮本殿が再建されると古河公方・足利晴氏によって父・北条氏綱が関東管領に任じられる。この軍を動かせない間に里見義堯が上総に進軍し、、真里谷信隆の嫡男・真里谷信政がいる真里谷城を攻撃する。援軍要請を受けると正木時茂の水軍を撃破し、真里谷城へ向かうと真里谷信秋の子・真里谷義信を討ち取る
- 1541年、父・北条氏綱が死去し、家督を継ぐ
- 同年、氏綱の死を知った山内上杉家・扇谷上杉家連合軍が河越・江戸方面へ進軍してくるが、撃退し逆に武蔵北部の上杉領を攻撃する
- 1542年、真里谷家の内紛をきっかけに里見義堯と再度激突する
- 1544年、甲斐・武田信玄と和睦する
- 1545年、今川義元から和睦を提案されるが決裂し、第二次河東の乱が起きる。義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定と連携し、父・北条氏綱に奪われた東駿河を奪還する為に進軍してくる。富士川を挟んで発生した狐橋の戦いでは武田軍の援護を受けた今川軍に圧倒され、総崩れになると、興国寺城に籠城する。さらに北条綱成が守る河越城も山内・扇谷両上杉氏に包囲されたという知らせが届く。遂には興国寺城への今川軍の総攻撃が加えられ落城すると長久保城に籠城する。進退窮まるが武田信玄の仲介で義元との和睦を模索し、東駿河・河東地域の旧領を義元に割譲することで締結する
- 1546年、北条綱成が守る河越城の包囲は続いていたが、義兄弟の古河公方・足利晴氏が裏切り、包囲に加わる。劣勢の中、和睦に応じたと見せかけ、川越城まで進軍すると綱成と共に連合軍に夜襲をかける。この河越夜戦で上杉憲政は取り逃がすが、山内上杉家臣・本間近江守・倉賀野行政といった重臣を討ち取る。また、扇谷上杉当主・上杉朝定はこの夜襲で戦死し、扇谷上杉氏は滅亡する
- 1547年、岩槻城主・太田資顕が病死するが後継者がおらず、弟・太田 資正が強引に家督を継ぎ、城を乗っ取る。事態を悪化させないために出陣し、岩槻城を包囲する
- 1548年、上田朝直に太田資顕を説得させ降伏させる。これにより扇谷は完全に滅亡する
- 1549年、秩父郡領主・藤田氏や深谷城主・上杉憲賢を調略で従属させ、御嶽城を除く武蔵のほぼ全域を制圧する。
- 同年、関東で大地震が発生するが、領民への対応が遅れて大規模な逃亡を招く
- 1550年、混乱を治めるために公事赦免令を発令し、税の一部免税や農民の直訴を認める
- 1551年、古河公方・足利晴氏の次男・梅千代王丸を葛西城に入れて晴氏の動きを封じ、上杉憲政の居城・平井城を攻めるが落しきれなかった
- 同年、足利晴氏の重臣・簗田高助が死去した隙をついて、晴氏の継室となっていた妹・芳春院とその息子で甥・足利義氏を北条領・下総・葛西城に移すことに成功する
- 同年、武田信玄の娘・黄梅院と嫡男・西堂丸の正室として迎える交渉をする
- 1552年、上野へ出陣し御嶽城を攻略して城主・安保全隆を降伏させ上杉憲政の嫡男・竜若丸を人質にする。その後、平井城を大軍で包囲し攻略すると憲政を白井城へ撤退させ、憲政は越後守護代・上杉謙信の元へ身を寄せる。
- 同年、元服した嫡男・氏親が死去し、次男・松千代丸を新たな後継者にすると共に、武田信玄に婚約者の変更を申し入れる
- 1553年、真里谷城主・武田信政が里見義堯との戦いに敗れ自害すると報復を決意する
- 1554年、古河城で足利晴氏とその長男・足利藤氏が挙兵するが、すぐに対応し古河城を落とすと足利晴氏・藤氏を捕え、秦野に幽閉する
- 同年、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真の正室として嫁がせ、武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・松千代丸の正室として迎え入れる。こうして北条・武田・今川の間に甲相駿三国同盟が成立する
- 1555年、足利晴氏の次男・足利義氏を元服させ、古河公方になった影響で館林城・赤井文六、赤石城・那波宗俊、足利城・長尾当長らを降伏させ、上野東部まで勢力を広げる
- 同年、里見氏の金谷城や造海城、岡本城、笹子城、有吉城など多くの城を落とし、里見義堯を追い詰めるが、義堯は本拠・久留里城に籠城し戦いは膠着状態になる
- 1557年、上杉憲政の依頼で将軍・足利義輝から幽閉している足利晴氏・藤氏の解放を指示する御内書が送られてくる。憲政はこれを利用し足利晴氏・藤氏を古河城で、更に安房・里見義堯、下総・千葉親胤などを挙兵させ、足利義氏を捕えようとするが失敗する。これにより晴氏・藤氏の挙兵が憲政の策略によるものだと判断し鉢形城に主戦力を集める。同時に新田金山城・由良成繁、厩橋城・長野賢忠、安中城・安中重繁を寝返らせると平井城の戦い以来の上野侵攻を決断する
- 1558年、上野侵攻を開始し、倉賀野城、総社城、箕輪城を次々に攻め落とし、別動隊で岩下城も落とす。白井城の守りは手薄となり、上杉憲政は沼田城まで退却するが沼田城では当主と嫡男の間に内紛が起こっていた為、越後・上杉謙信に匿われる。その後白井城、沼田城を落とし、祖父・北条早雲以来の悲願だった山内上杉・扇谷上杉両家の討伐を完了させる
- 1559年、家督を次男・北条氏政に譲り隠居する
- 1560年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると上杉謙信が関東へ侵攻し、甲相駿三国同盟は崩壊する。仇敵・里見義堯を久留里城で追い詰めるが、謙信が関東へ進軍して来た為、川越へ向かい松山城、続いて小田原城へ入城する
- 1561年、上杉謙信の小田原城包囲に対し籠城を選択、小田原城の戦いが起こる。小田原城は堅固であり、また同盟を組む武田信玄が信濃北部で支配域を広げ、謙信を牽制し撤退させる。
- 同年、生野山の戦いで第四次川中島の戦い直後の上杉謙信を急襲し越後まで撤退させる
- 1562年、葛西城を奪った正木時茂・正木時忠兄弟を弟・北条氏尭と北条綱成らに攻めさせ落とす。しかしこの戦いで受けた傷が原因で氏尭は死去する
- 同年、北条に従属する国衆を動員し、古河城へ進軍し攻め落とす。この勝利で北関東の国衆は次々に北条方へ寝返る。
- 1563年、松山城の戦いでは武田信玄の援軍もあり、上杉憲勝を降伏させ、松山城を攻略する
- 1564年、息子・北条氏政と共に、上総の支配権をめぐり、里見義堯・里見義弘父子と国府台で激突する。緒戦で遠山綱景・富永直勝といった有力武将を失うが、北条綱成・氏政を後方から、自身は正面から挟撃する形で夜襲を仕掛け里見軍を安房に退却させ、勝利する
- 1565年、上杉氏の関宿城を攻撃するが、城主・簗田晴助が奮戦し、なかなか城は落ちず、上杉謙信が関東へ進軍してくるのを知り、撤退する
- 1566年、簗田晴助と和睦する
- 1567年、厩橋城・北条高広を調略するなど、上杉謙信に奪われた領土をほぼ奪還する
- 1568年、武田信玄が駿河に侵攻し、甲相駿三国同盟は破棄され、息子・北条氏政と共に娘婿・今川氏真を支援する
- 1569年、息子・北条氏政が武田信玄と合戦を繰り返す中、徳川家康と密約を結ぶ
- 信玄が甲斐へ退却すると東駿河を奪還する
- 同年、甲相駿三国同盟が破棄されたことで、武田信玄・上杉謙信・里見義堯の3勢力に囲まれる状況になる。この危機を乗り切るため、上杉謙信と同盟交渉を開始する。謙信は当初同盟には否定的だったが、家臣団の説得もあって態度を軟化し、謙信の旧臣・由良成繁を仲介で越相同盟を締結する
- 同年、小田原城から帰還する武田信玄を三増峠で急襲し、浅利信種・浦野重秀といった武田家重臣を討ち取るが信玄は甲斐に帰還する
- 1571年、病死。享年57
地黄八幡
北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
生年 | 1515年 |
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没年 | 1587年 |
主君 | 北条氏綱→北条氏康→北条氏政→北条氏直 |
拠点・知行 | 相模玉縄城 |
官位・役職 | |
幼名 | 勝千代 |
法名 | 道感 |
別名 | 孫九郎、左衛門大夫、上総介、地黄八幡 |
家族構成
父 | 福島正成 養父:北条氏綱 |
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母 | 養勝院殿(朝倉氏の娘?) |
兄弟 | 綱成、綱房、義兄弟:氏康、為昌、氏尭 |
正室 | 大頂院(北条氏綱の娘) |
側室 | |
子 | 氏繁(康成)、氏秀(沼田康元) |
親族 |
逸話
- 戦場では大将ながら常に先頭に立って「勝った!勝った!」と叫びながら突撃し、その旗印から「地黄八幡」と呼ばれ畏れられた
- 若い頃の北条氏康が臆病な性格だったこともあり、北条家当主に擁する動きもあった
生涯
- 1515年、生誕
- 1521年、もしくは1536年に父・福島正成が討たれた為、北条氏綱の保護を受ける
- 1537年頃から上杉家との戦いで各地を転戦し、北条家の部隊・北条五色備では、黄備えを担当する
- 1542年、後見役を務めた北条為昌が死去すると、為昌の養子となる形で玉縄城主となる
- 1546年、河越夜戦では半年以上も籠城を耐え抜き、北条軍の逆転勝利に繋がる戦功を立てた。この戦功で河越城主を務める
- 1557年、第三次川中島の戦いでは武田信玄の援軍を率いて上杉謙信を撤退させる
- 1564年、国府台合戦では里見義弘・太田資正の連合軍を奇襲部隊を率いて撃破する
- 1569年、武田信玄との三増峠の戦いでは、指揮下の鉄砲隊が武田家重臣・浅利信種を討ち取る
- 1571年、北条氏康が病死すると隠居し家督を嫡男・北条氏繁に譲り隠居し、出家して上総入道道感と名乗る
- 1787年、病死。享年73
北条氏康の兄弟
北条 為昌(ほうじょう ためまさ)
生年 | 1520年 |
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没年 | 1542年 |
主君 | 北条氏綱 |
拠点・知行 | 相模玉縄城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 彦九郎 |
家族構成
父 | 北条氏綱 |
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母 | |
兄弟 | 氏康、為昌、氏尭 義兄弟:綱成(福島正成の子) |
正室 | |
側室 | |
子 | 養子:綱成(福島正成の子)?、綱房(福島正成の子)? |
親族 |
逸話
- 子がいなかったため、北条綱成が養子となる事で家督を継いだ
生涯
- 1520年、生誕
- 1531年、叔父である北条氏時が死去すると、跡を継ぎ玉縄城主となる
- 1532年、元服前であったが大道寺盛昌や北条綱成などの補佐で朱印状を発行する
- 1533年、安房・里見氏の内乱・天文の内訌の際には里見義堯への援軍として進軍する
- 1535年、山中の戦いに父・北条氏綱や兄・北条氏康と共に従軍する
- 1542年、病死。享年23
北条 氏尭(ほうじょう うじたか)
生年 | 1522年 |
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没年 | 1562年 |
主君 | 北条氏綱 |
拠点・知行 | 武蔵河越城 |
官位・役職 | 左衛門佐 |
幼名 | 菊王丸 |
法名 | |
別名 | 十郎 |
家族構成
父 | 北条氏綱 |
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母 | |
兄弟 | 氏康、為昌、氏尭 義兄弟:綱成(福島正成の子) |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 伊達家との外交交渉も担うなど北条家において重要な武将だった
生涯
- 1522年、生誕
- 1560年、後見人だった北条幻庵の長男・北条三郎が死去すると、武蔵・小机城主となる
- 1561年、上杉謙信の関東進出の際、河越城に入り城を守る
- 1562年、死去、死因不明。享年41
北条氏康の息子
北条 氏親(ほうじょう うじちか)
生年 | 1537年 |
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没年 | 1552年 |
主君 | 北条氏康 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | 西堂丸 |
法名 | |
別名 | 新九郎 |
家族構成
父 | 北条氏康 |
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母 | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 「喜連川文書」に足利義氏に関連する文書として収められている北条家一門による和歌短冊集の中に登場している
生涯
- 1537年、生誕
- 1549年、弟・北条氏政と共に、飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を与えられる
- 1551年、元服し、北条新九郎氏親と名乗る。元服後に甲斐・武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎える予定だった
- 1552年、死去。享年16
北条 氏政(ほうじょう うじまさ)
生年 | 1538年 |
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没年 | 1590年 |
主君 | 後北条家第4代当主 |
拠点・知行 | 相模小田原城 |
官位・役職 | 左京大夫、相模守 |
幼名 | 松千代丸 |
法名 | 截流斎(せつるさい) |
別名 | 新九郎 |
家族構成
父 | 北条氏康 |
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母 | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
正室 | 黄梅院(武田信玄の娘) 継室:鳳翔院殿 |
側室 | |
子 | 新九郎、氏直、直定、源蔵、勝千代 |
親族 |
逸話
- 愛妻家であり、有能な弟たちとも良好な関係を維持した家族思いの人物だった
- 汁かけ飯を食した際、汁が少なかったので途中でかけ足したが、それを見た父・北条氏康が毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆いたといわれる
- 農民が麦を収穫しているのを見て、その採れたての麦で昼飯にしようと言ったが、それを聞いた武田信玄が収穫した麦が食べられるようになるまで、どれだけの過程が必要なのかも知らないのかと嘲笑したといわれる
生涯
- 1538年、生誕
- 1549年、兄・北条氏親と共に、飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を与えられる
- 1552年、兄・北条氏親が死去した為、嫡男となり元服後に北条新九郎氏政と名乗る
- 1554年、甲相駿三国同盟が成立すると同盟の証として武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎える
- 1559年、父・北条氏康が隠居し、家督を継ぐ
- 1561年、関東へ進軍して来た上杉謙信に大軍で小田原城を包囲される。兵数の差もあり、危機に陥るが、武田信玄・今川氏真の援護もあり、籠城戦の末、上杉軍を撃退する
- 同年、謙信が越後へ帰還すると、父・北条氏康、弟・大石氏照・藤田氏邦と共に進軍し、領地を回復する
- 同年、父・氏康と共に太田資正が守る松山城を攻略中に、第四次川中島の戦いを終えた上杉軍が松山城の救援に向かってくるとこれを奇襲する。松山城は落とせなかったが、上杉軍を撃退する
- 1564年、第二次国府台合戦で仇敵・里見義堯・里見義弘父子と激突する。緒戦は富永直勝・遠山綱景が討ち取られ敗北するが、油断した里見軍を北条綱成と共に背後から、父・北条氏康が正面から挟撃し、壊滅させ勝利する
- 1566年、臼井城の戦いで上杉謙信が敗北すると、謙信に従属していた上野・由良成繁を従属させ、続いて佐野昌綱・北条高広も従属させ上野国にも勢力を広げる。
- 1567年、三船山合戦で里見義堯・里見義弘父子に敗北し上総国を奪われる。
- 1568年、武田信玄が駿河へ侵攻し、甲相駿三国同盟が破綻する。信玄から今川領の割譲を持ちかけられるが、駿相同盟を優先し甲相同盟も破綻する。掛川城に籠城した今川氏真を助ける為、三河・徳川家康と和睦し氏真を救出する。信玄に対抗する為、上杉謙信に弟・北条三郎を人質として差し出し、越相同盟を結ぶ。しかし信玄との関係悪化の為、最愛の妻・黄梅院と離縁する
- 1569年、武田信玄が小田原城へ進撃してくるが、父・北条氏康と共に籠城して撃退する。その後信玄を追撃し、三増峠の戦いが起こるが敗北し、甲斐への帰国を許す。
- 1571年、父・北条氏康が死去すると、上杉謙信との越相同盟を破棄し、再び武田信玄と甲相同盟を結ぶ
- 1572年、武田信玄の西上作戦の際に大藤秀信や清水太郎左衛門を援軍として送り、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に勝利する
- 1574年、簗田晴助の関宿城を攻め落とす
- 1575年、小山秀綱の下野祇園城を攻め落とす
- 1577年、仇敵・里見義弘と和議を結ぶ
- 1578年、上杉謙信の死後、弟・上杉景虎と上杉景勝の間で後継者を争う御館の乱が起き、援軍に弟・大石氏照・藤田氏邦を送る。しかしながら坂戸城で粘り強い抵抗にあい、積雪も重なり撤退を余儀なくされる
- 1579年、弟・上杉景虎は敗北し自害する
- 1580年、景虎の死で甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結び武田勝頼を攻撃するが決着はつかなかった
- 1582年、織田信長・徳川家康が甲州征伐を始めると藤田氏邦に情報収集を支持する
- 同年、本能寺の変で織田信長が死去すると嫡男・北条氏直と弟・藤田氏邦に上野への侵攻を命じ、滝川一益と激突、神流川の戦いが起きる。緒戦は押されるが、最終的には大勝し一益を退却させる。しかし次第に徳川家康に押され徐々に戦況は不利になり、嫡男・北条氏直と家康の娘・督姫の婚姻関係を結ぶことで和睦する
- 1583年、古河公方・足利義氏が死去し、関東の頂点に立つ
- 1585年、那須資晴と手を結び下野へ侵攻を始め、下野の南半分を支配下に置く
- 1588年、豊臣秀吉から息子・北条氏直と共に上洛し聚楽第への列席を促されるが拒否し秀吉との関係が悪化する
- 1589年、北条家臣・板部岡江雪斎が上洛し、豊臣秀吉に謁見し、問題解決を要請するが、結果的には改善されなかった
- 1590年、弟・藤田氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取し、豊臣秀吉は諸大名に北条氏討伐を促し、また首謀者の処罰と上洛を要求してくる
- 上洛を引き延ばしていると遂に秀吉は小田原攻めを開始する
- 当初は優勢だったが秀吉が到着すると次第に押され始め降伏する
- 秀吉の命令で弟・北条氏照、宿老の松田憲秀・大道寺政繁と共に切腹する。享年53
北条 氏照(ほうじょう うじてる)
生年 | 1542年 |
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没年 | 1590年 |
主君 | 北条氏康→北条氏政→北条氏直 |
拠点・知行 | 武蔵滝山城 |
官位・役職 | |
幼名 | 藤菊丸 |
法名 | |
別名 | 大石氏照、源三、由井源三、陸奥守 |
家族構成
父 | 北条氏康 養父:大石定久 |
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母 | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
正室 | 比左(大石定久の娘) |
側室 | |
子 | 養子:源蔵、千葉直重(北条氏政の子) |
親族 |
逸話
- 兄弟の中でも特に武勇に優れていた
生涯
- 1542年、生誕
- 1555年、下総・葛西城で行われた古河公方・足利義氏の元服式に兄弟で唯一、父・北条氏康と一緒に参加する
- 1556年、元服し、源三氏照と名乗る
- 1559年、大石家・由井城に入城し大石定久の娘・比左を正室に迎え、養子縁組をし、大石源三氏照と名乗り、大石家の家督を継ぐ
- 1562年、前年に滅ぼした三田氏の勝沼領を与えられ、由井領に併合しその後、滝山城を築城し本拠地を移す
- 1567年、北関東・南関東の取次を務め、今後の北条家の外交・軍事において重要な役割を果たす
- 1569年、弟・北条氏邦と共に、上杉謙信との越相同盟の実現に注力し、伊達政宗・
- 蘆名盛氏との外交も行う
- 同年、武田信玄との三増峠の戦いで弟・北条氏邦と共に敗北する
- この頃、大石姓から北条姓に戻している
- 1575年、兄・北条氏政の指示で下野へ侵攻し榎本城を落城させ、この頃から小田原城の総奉行を務め、陸奥守を名乗るようになる
- 1579年、武田信玄との甲相同盟が破綻すると織田信長・徳川家康との同盟交渉を始め、使者を信長の本拠地・安土城へ送る
- 1582年、本能寺の変で信長が死去すると甥・北条氏直らと共に上野へ進軍し、神流川の戦いで織田家臣・滝川一益を破る
- 1584年、この頃に滝山城から八王子城へ本拠地を移す
- 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠城するが降伏し、秀吉に兄・北条氏政と共に切腹を命じられる。享年49
北条 氏規(ほうじょう うじのり)
生年 | 1545年 |
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没年 | 1600年 |
主君 | 北条氏康→北条氏政→北条氏直→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
拠点・知行 | 相模三崎城 |
官位・役職 | 従五位下、左馬助、美濃守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 助五郎 |
家族構成
父 | 北条氏康 |
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母 | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
正室 | 高源院(北条綱成の娘) |
側室 | |
子 | 氏盛、菊千代、勘十郎、松千代 |
親族 |
逸話
- 今川家で人質だった頃、同じく人質となっていた徳川家康と親交が会ったといわれる
生涯
- 1545年、生誕
- 1558年頃、駿府・今川義元の下で元服する
- 1562年頃、小田原へ帰還する
- 1567年、房総方面への軍事行動を担い、三崎城を本拠地にする
- 1569年、武田信玄との抗争が始まると伊豆の防衛を担う
- 1570年頃、韮山城将を務める
- 1571年、武田信玄と和議を結び、韮山城の軍事的価値が低下した為、韮山城将を解任される
- 1576年、この頃から左馬助を名乗る
- 1577年、左馬助から美濃守へ改める
- 1580年、前年に上杉家の内乱・御館の乱で弟・上杉景虎が死去した為、武田家との同盟関係が崩れ、再び韮山城将を務める
- 1582年、織田信長による甲州征伐が始まり、甥・太田源五郎と共に、出陣した北条軍の先陣を務める
- 同年、天正壬午の乱では伊豆から駿河へ進軍する
- 同年、織田方の織田信雄・織田信孝から徳川・北条両家に対して和睦の申し出があり、交渉担当として駿府城の徳川家康のもとへ交渉に赴き、和睦を成立させる
- 1586年、兄・北条氏政と徳川家康が伊豆・駿河国境で会談すると家康を三枚橋城まで送る役を果たす
- 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めでは韮山城の守備を担当し奮戦するが、徳川家康と黒田官兵衛の説得で開城する
- 1594年、狭山城主となる
- 1600年、病死。享年56
北条 氏邦(ほうじょう うじくに)
生年 | 1548年 |
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没年 | 1597年 |
主君 | 北条氏康→北条氏政→北条氏直 |
拠点・知行 | 上野鉢形城 |
官位・役職 | |
幼名 | 千代丸 |
法名 | 宗青 |
別名 | 藤田氏邦、新太郎、安房守 |
家族構成
父 | 北条氏康 養父:藤田康邦 |
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母 | 三山綱定の姉妹? 養母:瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) |
正室 | 大福御前(藤田康邦の娘) |
側室 | |
子 | 東国丸、亀丸、光福丸、庄三郎 養子:直定(北条氏政の子) |
親族 |
逸話
- 兄・北条氏照同様に武勇に優れていた
- 武人として優れていただけでなく、養蚕・林業など地領の殖産にも熱心だった
生涯
- 1548年、生誕
- 1558年、武蔵北部の有力国衆・藤田氏の養子になる
- 1558年、武田信玄との抗争が始まると、鉢形城を築城する
- 1569年、越後・上杉謙信との越相同盟の交渉には由良成繁と交渉の忠臣的役割を務める
- 1576年、安房守を名乗る
- 1578年、上杉家で御館の乱が起こると弟・上杉景虎の救援に兄・北条氏照と共に越後へ向かうが上杉景勝方の抵抗と雪の影響で撤退を余儀なくされる。冬の間に景勝に景虎は敗れ自害する
- 1582年、本能寺の変後に起きた滝川一益との神流川の戦いでは甥・北条氏直と共に一益を撤退させる
- 1587年頃、北条姓に戻る
- 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めでは居城の鉢形城で籠城し抵抗するが包囲され降伏し、戦後は前田利家の家臣となる
- 同年、藤田家の菩提寺・正龍寺に入り出家し、宗青と名乗る
- 1697年、病死。享年50
北条 三郎(ほうじょう さぶろう)
生年 | 1554年 |
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没年 | 1579年 |
主君 | 北条氏康→上杉謙信 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | 西堂丸または竹王丸 |
法名 | 出西堂 |
別名 | 氏秀?、上杉景虎 |
家族構成
父 | 北条氏康 養父:北条幻庵、上杉謙信 |
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母 | 遠山康光の妹 |
兄弟 | 氏親、氏政、氏照、氏規、氏邦、三郎(上杉景虎) 義兄弟:上杉景勝(長尾政景の子)、上条義春(畠山義続の子)、山浦国清(村上義清の子) |
正室 | 北条幻庵の娘 継室:清円院(長尾政景の娘) |
側室 | 妙徳院(遠山康光の義妹) |
子 | 道満丸、男子 |
親族 |
逸話
- 容姿端麗かつ聡明な人物であったといわれている
生涯
- 1554年、生誕
- 1569年、大叔父・北条幻庵の養子になり、幻庵の娘・北条幻庵娘を正室に迎える
- 同年、武田信玄の駿河侵攻に伴い甲相同盟が崩壊し、越後・上杉謙信と越相同盟を結ぶ。その際、北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められるが氏政が拒んだ為、代わりに謙信の養子となることと、謙信の姪・清円院との婚約が決まる
- 1570年、正式に上杉謙信の養子となり、春日山城にて謙信の姪・清円院との祝言が行われ、謙信の幼名・景虎を与えられる
- 1571年、父・北条氏康が死去し小田原へ帰還するが、すぐに越後へ戻る
- 1578年、上杉謙信が病死し、義兄・上杉景勝と家督を巡って争い、御館の乱が勃発する
- 同年、妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館に立て籠もり、武田勝頼の介入もあり、一時的に和睦も成立するが、勝頼が撤退すると破綻し戦いが始まる
- 1579年、御館は落城し、清円院は実弟・上杉景勝による降伏勧告を拒絶し自害する。嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう際に、憲政ともども何者かに殺害される。進退窮まり、小田原城へ逃亡しようとするが鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭い自害する。享年26
北条家一門
北条 幻庵(ほうじょう げんあん)
生年 | 1492年? |
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没年 | 1589年 |
主君 | 北条早雲→北条氏綱→北条氏康→北条氏政→北条氏直 |
拠点・知行 | 相模箱根権現社 |
官位・役職 | |
幼名 | 菊寿丸 |
法名 | 長綱、宗哲 |
別名 | 幻庵宗哲、三郎、駿河守 |
家族構成
父 | 北条早雲 |
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母 | 善修寺殿(葛山氏の娘) |
兄弟 | 氏綱、氏時、葛山氏広、幻庵 |
正室 | 栖徳寺殿 |
側室 | |
子 | 三郎(時長)、綱重、長順 養子:三郎(上杉景虎。北条氏康の子) |
親族 |
逸話
- 儀作法に詳しく、北条氏康の娘が嫁ぐ際に礼儀作法について記した「幻庵覚書」を持たせたとされている
- 馬術に秀でており、弓矢も達人だったとされている
生涯
- 1492年頃、生誕、幼少のころに金剛王院に入寺し僧籍に入る
- 1519年、父・北条早雲の死の直前に4400貫の所領を与えられる
- この頃は菊寿丸を名乗る
- 1521年、近江・三井寺に入寺する
- 1524年、この頃に出家し、箱根権現の40世別当になり長綱と名乗る
- 1535年、武田信虎との甲斐山中合戦と上杉朝興との武蔵入間川合戦に従軍する
- 1536年、この頃から宗哲と名乗る
- 1540年、別当を退く
- 1542年、甥の玉縄城主・北条為昌が死去し三浦衆・小机衆を指揮下に置く
- 1546年、河越城の戦いに従軍する
- 1560年、長男・北条三郎が死去し、次男・北条綱重に家督を譲る。また、甥・北条氏尭を小机城主とする
- 1561年、上杉謙信と曽我山での合戦後、戦功のあった大藤式部丞を賞することを北条氏康・北条氏政に進言する
- 1569年、武田信玄の小田原城攻撃の際は松田憲秀と共に籠城を主張する
- 同年、信玄により蒲原城を落とされ、少数で籠城していた次男・北条綱重と三男・北条長順が討死する。跡継ぎを失い、意気消沈し高齢になったこともあり、北条氏康の7男・西堂を末娘と結婚させ養子・三郎として所領を継がせ、隠居すると幻庵宗哲を名乗る
- 同年、越相同盟の成立し三郎が上杉謙信の養子となり、翌年に越後へ移ると大甥・北条氏光に小机城を継がせ、家督は孫・北条氏隆に継がせる
- 1589年、死去。享年97
相模北条家の家臣
板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい)
生年 | 1537年 |
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没年 | 1609年 |
主君 | 北条氏康→北条氏政→北条氏直→豊臣秀吉→徳川家康 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 江雪斎 |
別名 | 田中融成、融成、岡野融成、岡野嗣成 |
家族構成
父 | 田中泰行 |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 房恒、房次 |
親族 |
逸話
- 愛刀・江雪左文字は、国宝になっている
生涯
- 1537年、生誕
- 1571年、主君・北条氏康が病に倒れると鶴岡八幡宮で快癒を祈願する
- 1573年、武田信玄の死去した時、主君・北条氏康の命令で甲斐に見舞いの使者として赴いたが信玄の弟・信廉が影武者を演じているのを見抜けなかった
- 1582年、本能寺の変後、信濃を巡り北条氏直と徳川家康が対立すると和睦交渉に奮闘し、氏直の正室に家康の娘・督姫を迎えることで和睦を成立させる。
- 1589年、北条氏と豊臣秀吉の対立が深まると、北条氏規と共に関係修復に奔走した
- 同年、小田原攻めで小田原城の明け渡しが決まるが、秀吉に赦免され御伽衆となり姓を岡もしくは岡野に改める
- 1598年、豊臣秀吉が死去すると長男・岡野房恒が仕えていた徳川家康に近づく
- 1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従属し小早川秀秋を説得する
- 1609年、死去。享年73