土佐の出来人
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
生年 | 1539年 |
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没年 | 1599年 |
主君 | 土佐長宗我部家第21代当主 |
拠点・知行 | 土佐岡豊城 |
官位・役職 | 従五位下・宮内少輔、土佐守、侍従 |
幼名 | 弥三郎 |
法名 | 雪蹊恕三 |
別名 | 土佐侍従、姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠 |
家族構成
父 | 長宗我部国親 |
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母 | 祥鳳玄陽(斎藤家の娘) |
兄弟 | 元親、親貞、親泰、親益 |
正室 | 石谷光政の娘 |
側室 | 小少将、小宰相 |
子 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
親族 |
逸話
- 幼少の頃は長身だったが色白で軟弱な様子だったので「姫若子」と呼ばれていたが、初陣で目覚ましい活躍をしたため「鬼若子」と称えられた
生涯
- 1539年、生誕。土佐守護・細川晴元の偏諱を受けて、元親と名乗る
- 1560年、父・長宗我部国親が土佐・朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いで弟・長宗我部親貞と共に初陣を飾る
- 同年、父・国親が急死し、家督を相続する
- 1561年、本山方の神田・石立を攻め落とし、本山茂辰を朝倉城と吉良城へ追い込む
- 1562年、一条氏と共闘して朝倉城を攻めるが、本山茂辰の息子で自身の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北する
- 1563年、美濃・石谷光政の娘を正室に迎える
- 1564年、本山茂辰は瓜生野城に籠城して徹底抗戦するが、その最中に病死し本山親茂が後を継ぐ
- 1567年、毛利氏の伊予出兵により勢力を大きく減少させた一条兼定からの自立を図り、河野氏へ戦勝祝いを送るなど独立性を強める
- 1568年、本山親茂が降伏し、土佐中部を平定する
- 1569年、八流の戦いで安芸国虎を滅亡させ土佐東部を平定する
- 1571年、一条家の家臣・津野家を滅ぼして三男・長宗我部親忠を養子として送る
- 1574年、一条家の内紛に介入すると、一条兼定を追放して兼定の子・一条内政に娘を嫁がせる
- 1575年、一条兼定が再起を図り、伊予南部の諸将と共に土佐へ攻め込んで来る。苦戦しながらも弟・吉良親貞の奮戦もあり、四万十川の戦いで兼定を撃破し土佐を完全に統一する
- 1578年、阿波・白地城に攻め込み、大西覚養を討伐する
- 同年、次男・長宗我部親和を讃岐・香川信景に養子として送り込む
- 1579年、重清城を奪い、三好長治の実弟・十河存保に大勝する
- 同年、三好康俊を岩倉城に追い込み、実子を人質にとって降伏させる
- 1580年、阿波・讃岐の制圧をほぼ完了する
- 同年、織田信長から土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫られるが、拒絶したため信長と敵対関係になる
- 1581年、織田信長から助力を得た三好康長・十河存保らの反撃を受ける
- 1582年、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成され、窮地に追い込まれると三好家旧臣らは康長に寝返り、更に阿波・一宮城と夷山城を落とされると斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意思を示す
- 四国攻撃軍が渡海の直前に本能寺の変が起き、信長が死去したことにより四国攻撃軍が撤退し危機を脱する
- 同年、中富川の戦いで十河存保を撃破し阿波の大半を支配する
- 1583年、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結び羽柴秀吉に対抗する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでも徳川家康・織田信雄と共に羽柴秀吉に対抗し、秀吉家臣・仙石秀久を撃破する
- 同年、河野家を降伏させる
- 1585年、西予の豪族も降伏させ、四国全土をほぼ統一する
- 同年、羽柴秀吉が紀州攻めを行うと続いて伊予及び讃岐の返納命令を発令する。元親は伊予を割譲することで事態の収拾を図ったが秀吉は許さず、羽柴秀長を総大将とする大軍を派兵する。大軍に押される形で秀吉に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵されると、上洛し秀吉に謁見し臣従する
- 1586年、豊臣秀吉の九州攻めに嫡男・長宗我部信親と共に従軍する。しかし戸次川の戦いで島津軍に敗れ信親は討死する。信親の死を知ると自害を試みるが家臣の諫めで思い直すと伊予・日振島に撤退する
- 1588年、本拠地を大高坂城へ移す
- 同年、家督相続問題が起こるが最終的に四男・長宗我部盛親に家督を譲る。その際反対した家臣・比江山親興・吉良親実などに切腹を命じる
- 1589年、この頃羽柴の名字を豊臣秀吉から与えられる
- 1590年、小田原攻めでは長宗我部水軍を率いて後北条氏の下田城を攻め、続いて小田原城包囲に従軍する
- 1591年、浦戸湾に迷い込んだ鯨を捕えて大阪城内へ持ち込み豊臣秀吉や大阪の町人を驚愕させる
- 1592年、文禄の役に従軍する
- 1596年、サン=フェリペ号事件に対応する
- 1597年、四男・長宗我部盛親と共に分国法・長宗我部元親百箇条を制定する
- 1599年、三男・津野親忠を幽閉する
- 同年、病の療養のために上洛し伏見屋敷に滞在し、豊臣秀頼に謁見する
- しかし病は快方に向かわず死期を悟ると四男・長宗我部盛親に遺言を遺し死去する。享年61
長宗我部元親の兄弟
吉良 親貞(きら ちかさだ)
生年 | 1541年 |
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没年 | 1576年 |
主君 | 長宗我部国親→長宗我部元親 |
拠点・知行 | 土佐中村城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 長宗我部親貞、弥五郎、左京進、播磨守 |
家族構成
父 | 長宗我部国親 養父:吉良宣直 |
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母 | |
兄弟 | 元親、親貞、親泰、親益 |
正室 | 吉良宣直の娘 |
側室 | |
子 | 如淵、親実、親正、親英? |
親族 |
逸話
- 大恩のある一条家を攻めることに兄・元親は難色を示したが親貞は押し切った
生涯
- 1541年、生誕
- 1560年、長浜の戦いで兄・長宗我部元親と共に初陣を飾る
- 1563年、兄・長宗我部元親の命令で土佐・吉良宣直の養子となって吉良家の家督を継ぐ。その後、一条家討伐で戦功を挙げると戦によっては元親に代わって総大将を務める
- 1574年、中村城主になる
- 1575年、四万十川の戦いで一条兼定を破り、長宗我部家の危機を救う
- 1576年、病死する。享年36
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)
生年 | 1543年 |
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没年 | 1594年 |
主君 | 長宗我部国親→長宗我部元親 |
拠点・知行 | 土佐安芸城 |
官位・役職 | |
幼名 | 弥七郎 |
法名 | |
別名 | 内記、安芸守 |
家族構成
父 | 長宗我部国親 養父:香宗我部親秀 |
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母 | |
兄弟 | 元親、親貞、親泰、親益 |
正室 | 香宗我部秀通の娘 |
側室 | |
子 | 親氏、貞親 |
親族 |
逸話
- 織田信長の死後も、や徳川家康・柴田勝家と通じて四国平定を有利に進められたのは、親泰の手腕が大きいといわれる
生涯
- 1543年、生誕
- 1558年、父・ 長宗我部国親の命令で香宗我部親秀の養子になる
- 1569年、安芸国虎が自害したため、安芸城主になる
- 1579年、新開道善の富岡城を奪取する
- 1580年、織田信長と安土城で謁見し、三好家との和睦を求める
- 1582年、十河存保を中富川の戦いで破る
- 1583年、阿波・木津城を攻略する
- 1585年、羽柴秀吉の四国攻めの際、阿波・牛岐城を守っていたが、木津城が落ちたため、土佐へ退却する
- 1593年、朝鮮半島に渡海する際、長門で急死する。享年51
島 親益(しま ちかます)
生年 | 不明 |
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没年 | 1571年 |
主君 | 長宗我部元親→島家 |
拠点・知行 | 土佐 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 親房 |
家族構成
父 | 長宗我部国親 養父:島某 |
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母 | 島某の妻 |
兄弟 | 元親、親貞、親泰、親益 |
正室 | |
側室 | |
子 | 親典 |
親族 |
逸話
- 徳島県海部郡海陽町の那佐神社に慰霊碑が現存する
生涯
- 生年不明、父・長宗我部国親が家臣・島家の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗る。武勇に優れ異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で戦功を挙げる
- 1571年、那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした海部城主・海部友光に襲われ病身を押して奮戦するが討たれる。その死に兄・長宗我部元親は激怒し海部城を攻め落とす
長宗我部元親の息子
長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)
生年 | 1565年 |
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没年 | 1587年 |
主君 | 長宗我部元親 |
拠点・知行 | 土佐 |
官位・役職 | |
幼名 | 千雄丸 |
法名 | |
別名 | 弥三郎 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 |
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母 | 石谷光政の娘 |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | 石谷頼辰の娘 |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 文武両道な上に礼儀正しい性格で家臣や民からの人望も厚かった
- ルイス・フロイスによるとキリスト教への入信を検討していたといわれる
生涯
- 1565年、生誕
- 1575年、父・長宗我部元親が中島可之助を使者として織田信長と通じた際に、信長を烏帽子親として信の字を与えられ以後、信親と名乗る。この時、信長から左文字の銘刀と名馬も与えられている
- 1587年、島津家久が豊後へ侵攻し、大友家の鶴ヶ城へ攻め込む。父・長宗我部元親と共に救援に向かい、戸次川の戦いが起きる。
- 乱戦の中で元親と離れ離れになり、鈴木大膳に討たれる。享年22
香川 親和(かがわ ちかかず)
生年 | 1567年 |
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没年 | 1587年 |
主君 | 長宗我部元親 |
拠点・知行 | 讃岐天霧城 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 親孝、親政、五郎次郎 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 養父:香川之景 |
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母 | 石谷光政の娘 |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | 香川之景の娘 |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 親和の死因には家督相続をめぐるショックによる病気という説や、家督相続の可能性が無くなってしまったのでに断食し命を絶った説、更には元親による毒殺説など様々な説がある
生涯
- 1567年、生誕
- 1578年、父・長宗我部元親が讃岐への侵攻を始める
- 1581年、西讃岐4郡の守護代・香川之景との講和のために養子として送られ香川家を継ぐ。このときに香川五郎次郎を名乗る
- 1583年、讃岐をほぼ平定した頃に天霧城に入る
- 1585年、羽柴秀吉の四国攻めで長宗我部家が降伏すると、香川家は改易され人質として大和郡山へ送られる
- 1586年、岡豊に帰国し、父・長宗我部元親から所領に幡多郡山田郷一帯を与えられる
- 同年、兄・長宗我部信親が戸次川の戦いで討死すると豊臣秀吉から元親へ親和に家督を継がせるように圧力がかかるが、元親は受け入れず四男・長宗我部盛親に家督を継がせる
- 1587年、岡豊城下で病死する。享年21
津野 親忠(つの ちかただ)
生年 | 1572年 |
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没年 | 1600年 |
主君 | 長宗我部元親→長宗我部盛親 |
拠点・知行 | 土佐 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 孫次郎 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 養父:津野勝興 |
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母 | 石谷光政の娘 |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 当時の当主だった弟・長宗我部盛親が久武親直の讒言で親忠を殺害したことが徳川家康の怒りを買い、後の長宗我部家が改易される一因となった
生涯
- 1572年、生誕。後に父・長宗我部元親が土佐・津野勝興の養子として送り、津野家の当主となる
- 1585年、羽柴秀吉の四国攻めで父・長宗我部元親が敗れると秀吉のもとへ人質として送られる
- 1586年、兄・長宗我部信親が戸次川の戦いで討死すると家督は弟・長宗我部盛親が継ぐ
- 1599年、父・長宗我部元親によって幽閉される
- 1600年、関ヶ原の戦いで弟・長宗我部盛親が西軍として戦い敗れると、徳川家康に井伊直政を通じて謝罪するが、久武親直の謀略で盛親によって香美郡岩村・霊厳寺で殺害される。享年29
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)
生年 | 1575年 |
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没年 | 1615年 |
主君 | 土佐長宗我部家第22代当主 |
拠点・知行 | 土佐 |
官位・役職 | 宮内少輔、土佐守 |
幼名 | 千熊丸 |
法名 | 祐夢 |
別名 | 右衛門太郎 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 |
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母 | 石谷光政の娘 |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | 長宗我部信親の娘 |
側室 | |
子 | 盛恒、盛高、盛信、盛定、男 |
親族 |
逸話
- 徳川家康により改易された浪人時代には寺子屋の師匠をしていたともいわれる
生涯
- 1575年、生誕
- 1588年、家臣の反対を押し切って父・長宗我部元親から後継者に指名される
- 1590年、小田原攻めに従軍する
- 1592年、朝鮮出兵に従軍する
- 1597年、父・長宗我部元親と共に長宗我部元親百箇条を制定・公布する
- 1599年、父・長宗我部元親の死去に伴い家督を継ぎ、土佐の国主となる
- 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属する
- 西軍の敗北後は池田輝政・浅野幸長・小出吉親の追撃を受けるが天満から土佐へ帰還する
- 戦後、交流のあった徳川家重臣・井伊直政を通じて徳川家康に謝罪しようとしたが、家臣・久武親直の讒言から兄・津野親忠を殺害したことで家康の怒りを買い改易される
- 1610年、出家し大岩祐夢と名乗る。この頃は旧家臣らの仕送りで暮らす
- 1614年、弟・長宗我部康豊と共に大阪城へ入り、真田信繁・後藤基次・毛利勝永・明石全登と共に五人衆に数えられる
- 大坂冬の陣が始まると真田丸の支援拠点を担う
- 1615年、大坂夏の陣では八尾・若江の戦いで藤堂高虎と戦うが戦場で孤立し大阪城へ撤退する
- 京都八幡に潜んでいたところを捕らえられると大路を引廻され、六条河原で斬られる。享年41
長宗我部 右近大夫(ちょうそかべ うこんたいふ)
生年 | 不明 |
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没年 | 1615年 |
主君 | 長宗我部元親→長宗我部盛親→加藤清正 |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 右近、右近太夫 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 |
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母 | 小少将 |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | |
側室 | |
子 | 主水?、宗我部重良? |
親族 |
逸話
- 切腹を命じられた際、切腹の作法を知らなかったため、家臣の小宮崎久兵衛が手本を見せると右近大夫は笑って「心得たり」と潔く腹を斬った
生涯
- 生年不明
- 1600年、兄・長宗我部盛親が改易されると肥後・加藤清正のもとに身を寄せる
- 1615年、大坂の陣で兄・長宗我部盛親が豊臣方に付いたため、伏見に送られて切腹を命じられる
長宗我部 康豊(ちょうそかべ やすとよ)
生年 | 1599年? |
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没年 | 不明 |
主君 | 長宗我部盛親→酒井忠利 |
拠点・知行 | 武蔵河越 |
官位・役職 | 民部 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 足立七左衛門、信九郎 |
家族構成
父 | 長宗我部元親 |
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母 | |
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、右近大夫、康豊 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
- 「落穂雑談一言集」によると、長宗我部盛親の弟であるとされており、東に向かう道中の様子が描かれている
生涯
- 1599年頃、生誕
- 1615年、大坂の陣では兄・長宗我部盛親に従うが、大阪城が落ちると脱出する。
- 後に酒井忠利に足立七左衛門と名乗って仕え1500石を与えられる
- 没年不明