佐々 成政(さっさ なりまさ)
生年 | 1536年? |
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没年 | 1588年 |
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主君 | 織田信長→織田秀信→豊臣秀吉 |
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拠点・知行 | 越前府中 |
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官位・役職 | 従五位上陸奥守、従四位下侍従 |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 内蔵助 |
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佐々成政の家族構成
父 | 佐々成宗 |
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母 | 堀場宗氏の娘? |
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兄弟 | 政次、孫介、成政、長穐、信宗 |
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正室 | 慈光院(村井貞勝の娘) |
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側室 | 早川主水の娘 |
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子 | 松千代丸、早川雄介 養子:佐久間勝之(佐久間盛次の子)、成光、信宗? |
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親族 | |
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佐々成政の逸話
佐々成政の生涯
- 1536年から1539年頃、生誕
- 1550年、織田信長に仕える
- 1560年、兄弟が相次いで亡くなったため、父・佐々成宗から家督を継ぎ、比良城主となる
- 1561年、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門を池田恒興と共に討ち取る戦功を挙げる
- 1567年、黒母衣衆の10人の筆頭となる
- 1570年、八相山の退口で簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿を務め戦功を挙げる
- 1574年、長島一向一揆攻めで長男・松千代丸を失う
- 1575年、長篠の戦いでは前田利家らと共に鉄砲隊を指揮する
- 1577年、能登へ進軍した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に進軍するが、手取川の戦いで七尾城が落城し撤退する
- 1580年、織田信長と石山本願寺に講和が結ばれると柴田勝家が一向一揆を制圧し、それに従軍して能登や越中にも向かう
- 同年、神保長住に協力して一向一揆及び上杉景勝に対する最前線だった越中平定に関わ
- る
- 同年、富山城下を水害から守るために現在の富山市内を流れる常願寺川沿いに佐々堤と呼ばれる堤防を築く
- 1581年、富山城に入城し、この頃、神保長住を指揮下に入れる
- 1582年、神保長住が旧臣の小島職鎮・唐人親広らに富山城にいたところを急襲され、捕らえられるものの、織田軍の反攻で助けられたが、長住は失脚する
- 長住が失脚したことにより越中国守護となり、富山城を居城として大規模な改修を行う
- 1582年、上杉軍の魚津城を攻め落とした頃、本能寺の変が起きる。上杉景勝の本城である春日山城にも迫っていたが、北陸方面の諸将は動揺し足並みが乱れ、上杉軍の反撃にも遭い身動きが取れなかった。その一方で毛利輝元と講和し一早く中国大返しで戻った羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで討ち倒す
- 同年、清州会議で羽柴秀吉と柴田勝家の対立が顕著になると勝家側に付き、領地再配分では越中を安堵される
- 1583年、羽柴秀吉と柴田勝家の間に起きた賤ヶ岳の戦いでも勝家方に味方するが、上杉景勝への対応のため越中を動けなかったので、叔父の佐々平左衛門を援軍に送るが柴田勝家は北ノ庄城に敗走し、正室のお市の方共々自害する。直接従軍しなかったものの勝家方だった成政は娘を人質に出し、剃髪する事で秀吉に降伏し、越中一国を安堵される
- 1584年、小牧・長久手の戦いが起こると羽柴秀吉に反旗を翻し徳側家康側へ寝返り、秀吉側の朝日山城・前田利家を攻撃するが前田家臣の村井長頼に撃退される
- 同年、前田利家の領国である加賀と能登の分断を狙い、末森城の戦いを起こす。末森城を包囲するが、金沢城から急行した利家に末森城に迫ったところを背後から攻撃され敗走する
- 1585年、富山の役で羽柴秀吉に富山城を包囲され、織田信雄の仲介で降伏する
- その後、羽柴秀吉により越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられると御伽衆として秀吉に仕える
- 1587年、羽柴姓を与えられる
- 同年、九州攻めで戦功を挙げると肥後一国を与えられる。羽柴秀吉から慎重な行動を支持されていたが病に罹っていたこともあり早急に検知を行おうとし、それに国人が蜂起し肥後国人一揆を起こし、自力で鎮圧が出来なかった
- 1588年、肥後国人一揆の謝罪のため大坂に出向いたものの、豊臣秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉されると切腹を命じられる。切腹の際、内臓をつかみ出し天井に投げつけたとされる。享年53~56