佐久間 信盛(さくま のぶもり)

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    佐久間信盛の肖像画
    出典:Wikipedia:『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛)
    生年1528年
    没年1582年
    主君織田信秀→織田信長
    拠点・知行三河刈谷城
    官位・役職
    幼名牛助
    法名夢斎定盛、洞無桂巌、宗祐
    別名半羽介、半介、右衛門尉、退き佐久間

    佐久間信盛の家族構成

    佐久間信晴
    兄弟信盛、信辰、明嶽
    正室前田種利の娘
    側室
    信栄、兵衛介、信実
    親族

    佐久間信盛の逸話

    佐久間信盛の生涯

    • 1528年、生誕
    • 1556年、仕えていた織田信長とその弟・信行の間に起きた稲生の戦いで戦功を挙げ、以後織田家臣団の筆頭格として扱われる
    • 1560年、桶狭間の戦いでは善照寺砦を守り、戦後に鳴海城を与えられる
    • 1567年、徳川家康の長男・松平信康に織田信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで護衛し、家康の領地と接する西三河を任される
    • 1568年、近江・六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とす戦功を挙げる
    • 同年、大和・松永久秀と交渉し、織田信長の味方につける
    • 1570年、織田信長と六角義賢・義治父子との野洲河原の戦いでは近江永原城に配置され、柴田勝家と共に六角父子を破り、南近江を平定する
    • 同年、姉川の戦い、志賀の陣にも従軍する
    • 1571年、白井河原の戦いで敗北し、死去した和田惟政の居城・高槻城を松永久秀が手に入れようとしたが、交渉し退却させる
    • 同年、比叡山焼き討ちで戦功を挙げ近江栗太郡を与えられる
    • 同年、松永久秀と筒井順慶の和睦交渉を仲介し、成功させる
    • 1572年、三好義継と松永久秀・久通父子が畠山昭高の交野城を包囲したため、交野城に援軍として送られ撤退させる
    • 同年、三方ヶ原の戦いでは勝機が無いと判断しほぼ戦わずに浜名湖・今切まで撤退する
    • 1573年、織田信長の代理として織田信広・細川藤孝と共に二条御所に送られ、将軍・足利義昭と和睦交渉を行う
    • 同年、六角義治が籠城する鯰江城の攻撃を命じられ柴田勝家・丹羽長秀・蒲生賢秀と共に城を包囲する
    • 同年、一乗谷城の戦いの直前、戦線から離脱する朝倉義景の追撃を怠り、織田家臣団は信長の怒りを買うがその際に口答えをし、それが信長の逆鱗に触れ所領を没収されそうになる。他の家臣団が必死に取り成し信長の怒りは収まる。その後、若江城の戦いで河内若江城主・三好義継を自害に追い込むなど戦功を挙げる
    • 1574年、武田勝頼が明知城を包囲した際には、尾張・美濃衆を率いて援軍に送られる
    • 同年、六角義賢の石部城を攻め落とし城に入る
    • 同年、長島一向一揆攻めにも従軍する
    • 1575年、徳川家康の元へ派遣され、長篠城等の武田・徳川領国の検分を行う
    • 同年、高屋城の戦いではて三好康長が籠城する高屋城・新堀城を攻め、降伏させる
    • 同年、長篠の戦いでは武田勢を設楽原に誘導し織田勢の勝利に貢献する
    • 同年、織田信忠の岩村城攻めや越前一向一揆攻めにも従軍する
    • 同年、水野信元が武田方の秋山虎繁と内通し兵糧を虎繁が籠城する岩村城に流していたとして信長に訴える。信長は怒り、信元の甥である徳川家康に信元を殺すように命じ、信元は養子の信政と三河大樹寺に誘い出され平岩親吉によって暗殺される
    • 1576年、石山本願寺との天王寺の戦いで塙直政が戦死する。救援に向かった織田軍と本願寺勢の戦いは織田信長が負傷するほどの激戦となるがこの戦いで先鋒を務めるなど奮戦し、本願寺勢を打ち破る
    • 1577年、雑賀攻めに。羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗・堀秀政と共に従軍する
    • 1578年、毛利氏が大軍で播磨へ攻め込んだ報せを知り、直接出陣しようとした織田信長を明智光秀、丹羽長秀らと共に必死に言い聞かせて、代わりに一同が出陣することで考えを改めさせる
    • 同年、神吉城の戦いでは織田信忠・林秀貞・細川藤孝と共に城を包囲する
    • 同年、荒木村重が信長に対して謀反を起こした際には、村重に与した高山右近の切り崩しを行う
    • 同年、三木城攻めを行う羽柴秀吉の援軍に明智光秀・筒井順慶と共に播磨へ出陣する
    • 同年、与力の若江三人衆・多羅尾綱知が三箇城主の三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じて信長に対し、謀反を企んでいると吹聴する。信長は激怒し頼連を殺すよう命じるが、信長を直接説得して翻意にさせたため頼連は救われる
    • 1580年、朝廷から本願寺へ派遣された講和の勅使の目付として松井友閑と共に同行を命じられ、信長と本願寺は講和する
    • 同年、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、畿内方面軍団長と筆頭家老の地位を捨て織田家から離れ、嫡男の信栄と少数の郎党達らと共に高野山へ入る
    • 1582年、紀伊熊野あるいは高野山にて死去する。享年55
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