織田 信孝(おだ のぶたか)

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    織田信孝の肖像画
    出典:Wikipedia:太平記英勇傳:丹部侍従平春高(歌川国芳作)
    生年1558年
    没年1583年
    主君織田信長→織田秀信
    拠点・知行伊勢
    官位・役職従五位下・侍従
    幼名勘八?
    法名
    別名神戸三七郎、神戸信孝、三七、三七郎

    織田信孝の家族構成

    織田信長
    養父:神戸具盛
    坂氏
    兄弟信正、信忠、信雄、信孝、羽柴秀勝、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次
    正室鈴与姫(神戸具盛の娘)
    側室
    親族

    織田信孝の逸話

    織田信孝の生涯

    • 1558年、生誕
    • 1568年、父・織田信長が伊勢国北部に攻め込み、神戸城主・神戸具盛を降伏させると具盛の養子となり、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役となる。具盛の娘・鈴与姫は、関盛信の子・一利とすでに婚約していたが、これを破談にして信孝の正室とした
    • 1570年頃、この頃から義父・神戸具盛と不仲になり、織田信長は具盛を伊勢沢城に強制的に隠居させると蒲生賢秀に命じて近江・日野城に幽閉する
    • 1571年、神戸氏の家督を継ぎ、家督相続に反対した旧臣を粛清する
    • 1574年、、第三次長島一向一揆攻めに従軍する
    • 1575年、越前一向一揆攻めに従軍し、織田信包・信雄と共に残党狩りで戦功を挙げる
    • 1576年、兄・織田信雄が家臣を謀殺した三瀬の変の事後処理に出陣する
    • 1577年、雑賀攻めに兄・織田信忠の指揮下で従軍する
    • 同年、従五位下侍従に叙任される
    • 1578年、荒木村重が父・織田信長に対して謀反を起こすと、当初は安土城の留守役として残される。しかし兄・織田信忠が出陣するとこれに従って出陣して高槻城包囲に参加する
    • 1580年、しばしば京都に滞在し、村井貞勝を補佐して禁裏との交渉にあたる
    • 同年、神戸城の拡張工事を行う
    • 1581年、正月に行われた左義長・馬揃えに参加する
    • 同年、父・織田信長の高野山攻めに従軍する
    • 1582年、父・織田信長が長曾我部元親討伐のために四国攻めを行うと総大将として従軍する
    • 同年、本能寺の変後に丹羽長秀・蜂屋頼隆と共に明智光秀の娘婿であることを理由に大坂城・千貫櫓を急襲し津田信澄を殺害する
    • 同年、羽柴秀吉が中国大返しで備中高松城から摂津国尼崎に着陣すると出向いて面会する
    • 同年、山崎の戦いで明智光秀を討ち破る
    • 同年、清州会議で織田家督は信長の嫡孫・三法師が継ぐと決められ、自身は兄・信忠の領地であった美濃一国と岐阜城を与えられることになり、同城で三法師の後見役を務めることになる
    • 同年、清洲会議で三法師は安土城へ移ることが決まっていたが信孝は三法師を岐阜城から離さなかったので、これを謀反の口実として羽柴秀吉と兄・織田信雄は三法師奪還を名目に挙兵し、岐阜城を包囲する。追い詰められ降伏せざるを得ず、三法師を秀吉に引き渡し、母・坂氏や乳母、娘も人質に出して和睦する
    • 1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、自害すると続いて秀吉に命令された兄・織田信雄に岐阜城を包囲される。勝家を失い、すでに反抗する余力は残っておらず、開城に応じる。その後、長良川を下って尾張知多郡に移り、野間・内海大御堂寺に入ると信雄の命令で自害する。享年26
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