織田 信雄(おだ のぶかつ)

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    織田信雄の肖像画
    出典:Wikipedia:織田信雄像(總見寺蔵)
    生年1558年
    没年1630年
    主君織田信長→織田秀信→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠
    拠点・知行伊勢大河内城
    官位・役職従五位下侍従、正五位下左近衛権中将、従四位下、正三位権中納言、従二位、正二位、内大臣
    幼名茶筅丸
    法名常真
    別名北畠具豊、北畠信意、北畠信勝、北畠信雄、信具、三介、北畠三介、北畠中将、尾張内府、御本所

    織田信雄の家族構成

    織田信長
    養父:北畠具教または北畠具房
    生駒吉乃(生駒家宗の娘)
    兄弟信正、信忠、信雄、信孝、羽柴秀勝、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次
    正室千代御前(雪姫。北畠具教の娘)
    継室:木造具政の娘
    側室津田長利の娘、久保三右衛門の娘、小玉氏ほか
    秀雄、加爾、高雄、信良、高長、信為、良雄、長雄
    親族

    織田信雄の逸話

    織田信雄の生涯

    • 1558年、生誕
    • 1569年、宣教師ルイス・フロイスと従者ロレンソ了斎がキリスト教の布教許可状を得るために美濃岐阜城の父・織田信長を訪ねた際、フロイスを馳走する膳を信長が運ぶとロレンスへの膳を運ぶ役割を果たす
    • 同年、大河内城の戦いの和睦の条件で伊勢北畠氏の養子となる
    • 1571年、北畠具教の娘・千代御前を正室に迎える
    • 1572年頃、岐阜城で元服して北畠具豊と名乗る
    • 1573年、父・織田信長より伊勢長島・一向宗門徒を攻撃するために大湊・惣に船を出すように命じられる
    • 1574年、岐阜城で父・織田信長の茶会に出席して御通衆を務める
    • 同年、南伊勢衆を率いて長島攻めに従軍し、大船に乗って戦い初陣を飾る
    • 1575年、長篠の戦いに従軍し、御堂山に北畠勢は陣取る
    • 同年、正五位下に叙任され北畠家の家督を継ぎ、信意に名を改める。また大河内城を廃城し、田丸城を居城とする
    • 同年、越前一向一揆討伐に従軍し、柴田勝家・羽柴秀吉らと共に各地を転戦する
    • 同年、左近衞権中将に任じられる
    • 1576年、伊勢度会郡国人・赤羽新之丞が紀伊熊野への侵攻を願い出たので、大将として派兵させ、志摩・長島城を家臣・加藤甚五郎に与えて熊野侵攻を支援させる。甚五郎は三木城を攻め落とすが、熊野衆大将・堀内氏善の反撃で城を奪還され自害する。氏善は志摩・長島城まで攻め寄せ落城させると、新之丞が熊野側に寝返り、手痛い敗北を喫する
    • 同年、父・織田信長が北畠一族の粛清を決断しそれに協力する。正室・千代御前は父と兄弟が夫によって謀殺されたと知ると自害する
    • 1577年、雑賀攻めに従軍する
    • 1578年、兄・織田信忠を総大将とする石山本願寺攻めに従軍する
    • 同年、荒木村重が謀反を起こし、兄・織田信忠と共に小野原に陣取る
    • 1579年、父・織田信長や兄・信忠に無断で柘植保重に兵を率いらせ伊賀に攻め込むが、
    • 伊賀惣国一揆勢に保重は討ち取られ、大敗を喫する。この報せは信長の逆鱗に触れ、親子の縁を切るとまでしたためた御内書を突きつけられる
    • 1580年、同朋衆だった玄智が盗みを企み、田丸城の火薬庫に火をつけ全焼させる。玄智は捕らえ処刑するが、田丸城を失ったため伊勢・細頸に松ヶ島城を築城する。この頃、信勝と改名する
    • 1581年、安土城で父・織田信長が左義長を開催し参加する
    • 同年、伊賀・柘植宗能が信長に従属すると伊賀平定の総大将として出陣する
    • 1582年、甲州攻めに従軍する。
    • 同年、本能寺の変が起き、父・織田信長と兄・信忠が討たれたのを知るとすぐに近江甲賀郡土山まで進軍するが、伊賀の国人衆が不穏な動きを見せたためそれ以上の進軍はかなわなかった
    • 同年、清州会議では弟・織田信孝と信長の後継を激しく争うが、織田家督は信忠の遺児・三法師と定められ、信孝は美濃国と岐阜城を手にして三法師に後見役となるが、自身は尾張を与えられるのみに留まった
    • 1582年、弟・織田信孝と柴田勝家が清州会議後に親密になると清洲会議の反故を目的に羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興と結託する
    • 同年、秀吉が三法師を奪還を名目に挙兵し、それに加わると信孝の籠もる岐阜城を包囲し、降伏させる
    • 1583年、父・織田信長の死を知った北畠具親が立てこもる五箇篠山城攻めを、南方衆・津川義冬・田丸直昌・日置大膳亮に命じ、落城させる。脱出した具親は伊賀でも一揆を扇動するが滝川雄利を伊賀に派遣し鎮圧させる
    • 同年、三河を訪れ岡崎城下で徳川家康と会談する
    • 同年、三法師の後見役として安土に入る
    • 同年、弟・織田信孝が挙兵するが、柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ自害し、信孝は岐阜城へ籠城する。岐阜城を包囲すると和議を申し出る振りをして城からおびき出し、内海大御堂寺に落ち延びたところで中川定成に切腹を進めるよう命令し、信孝を切腹させる
    • 1584年、羽柴秀吉との関係は悪化しており、池田恒興・蒲生氏郷らの仲介で三井寺で会見するが、物別れに終わる
    • 同年、徳川家康と連合を組み、羽柴秀吉との間に小牧・長久手の戦いを起こす。各地で戦闘が繰り広げられるが半年以上経ったころ、秀吉から伊賀と伊勢半国の割譲を条件に講和の申し出があり、これに応じる
    • 1585年、羽柴秀吉の推挙もあり権大納言に任じられ、正三位に叙任される
    • 同年、紀州攻めでは家臣・吉村氏吉らを派兵し、在陣中の秀吉を陣中見舞する
    • 同年、富山の役では秀吉と共に進軍する
    • 1586年、天正大地震が起こり、長島城が倒壊したため、清洲城を改修して新たな居城とする
    • 同年、豊臣秀吉と徳川家康の和睦に奔走し、岡崎城を訪れ、秀吉の妹・朝日姫と婚姻するよう家康を説得する。なかなか家康は応じなかったが秀吉の母・大政所を人質に出すことでようやく応じる
    • 同年、従二位へ昇進する
    • 1587年、長女・小姫を豊臣秀吉に養女として送る
    • 同年、正二位に昇進する
    • 1590年、徳川秀忠と長女・小姫が京都・浅野長政邸で祝言をあげる
    • 同年、豊臣秀吉の小田原攻めに従軍し、韮山城の戦いで大将を務める
    • 同年、小田原の役の論功行賞で徳川家康の旧領119万石を与えられるがこれを辞退して所領である伊勢・尾張をこのまま領していたいと願い出るが秀吉はこれに激怒して下野那須烏山へ追放され次いで出羽秋田へ移る
    • 1591年、徳川家康の尽力で赦免され、秋田から帰還し、伊予・石手寺に入り、剃髪して常真と名乗る
    • 1592年、文禄の役では豊臣秀吉の命令で肥前名護屋城に参陣する
    • 1595年、豊臣秀次の切腹事件が起きると諸大名と共に豊臣秀頼に忠誠を誓う誓書を提出する
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に所属し、西軍が敗北すると改易され浪人となる
    • 1614年、大坂冬の陣では豊臣秀頼から大阪城へ入るよう打診があったがすでに徳側家康と通じていたため、応じず家康から知行地の給付を約束される
    • 1615年、駿府で徳川家康に謁見し大久保長安の旧邸を与えられる
    • 同年、二条城での禁中並公家諸法度の発布が行われた際、大御所・徳川家康と将軍・将軍秀忠と公家衆が揃った祝宴がありこれに参加する
    • 1616年、徳川家康に猿楽の催しに招かれる
    • 1626年、亡くなった嫡男・秀雄、次男・高雄に続き、家督を継いだ信良も亡くなる。孫の信昌が家督を継ぐが、2歳だったため、将軍・徳川秀忠の許しを得て加賀藩主前田利常に仕えていた四男・高長を信昌の後見役として呼び戻す
    • 1630年、京都北野邸で死去する。享年73
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