丹羽 長秀(にわ ながひで)

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    丹羽長秀の肖像画
    出典:Wikipedia:丹羽長秀像、東京大学史料編纂所蔵
    生年1535年
    没年1585年
    主君織田信長→織田秀信→豊臣秀吉
    拠点・知行若狭
    官位・役職越前守
    幼名万千代
    法名
    別名惟任長秀、五郎左衛門尉、鬼五郎左、米五郎左

    丹羽長秀の家族構成

    丹羽長政
    能呂氏の娘
    兄弟長忠、長秀、秀重
    正室桂峯院(織田信広の娘、織田信長の養女)
    側室杉若無心の娘
    長重、長正、藤堂高吉、蜂屋直政、長俊、長紹(長次)
    親族

    丹羽長秀の逸話

    丹羽長秀の生涯

    • 1535年、生誕
    • 1550年、織田信長に仕える
    • 1553年、梅津表の合戦で初陣を飾る
    • 1556年、稲生の戦いに従軍する
    • 1560年、桶狭間の戦いでも従軍しているが、今川義元攻撃には参加しなかった
    • 1568年、織田信長と近江守護・六角義賢・義治父子との間に起きた観音寺城の戦いでは箕作城を攻めるなどの戦功を挙げる
    • 1571年、佐和山城主・磯野員昌が開城勧告を受けて開城すると代わって城主となる
    • 1573年、一乗谷城の戦いで朝倉義景が討伐されると戦後、義景の母・光徳院と子・愛王丸を処刑する
    • 同年、若狭一国を与えられ、織田家臣で初の国持大名となる
    • 1575年、三好康永・石山本願寺との間に起こった高屋城の戦い、甲斐・武田勝頼との間に起こった長篠の戦いにも従軍し、軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなどの功績を挙げる
    • 1579年、羽柴秀吉と共に丹波を攻め、氷上城・波多野宗長を討ち破る
    • 1581年、織田信長の命令で越中木舟城主・石黒成綱を近江で謀殺する
    • 同年、同じく信長の命令で越中願海寺城主・寺崎盛永父子も城主を務める佐和山城に幽閉後、切腹させる
    • 同年、天正伊賀の乱にも従軍し、比自山城を攻める
    • 1582年、 織田信孝の四国攻めでは三好康長・蜂屋頼隆と共に副将を任じられるが、出陣直前に本能寺の変が起きる。信孝を補佐し、謀反人・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみて殺害する。その後、山崎の戦いで羽柴秀吉の軍に信孝と共に加わり、光秀を討つ
    • 本能寺の変後の清州会議では羽柴秀吉が織田信長の後継者に信長の嫡孫・三法師を推挙すると池田恒興と共に支持する
    • 1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に付き、戦後に若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前及び加賀江沼・能美二郡を与えられる
    • 1585年、寄生虫による病で死去する。享年51
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