前田 利家(まえだ としいえ)
生年 | 1539年 |
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没年 | 1599年 |
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主君 | 林秀貞→織田信長→織田秀信→柴田勝家→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
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拠点・知行 | 越前府中 |
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官位・役職 | 従四位下・左近衛権少将兼筑前守、右近衛権中将、正四位下・参議、従三位・権中納言、従二位・権大納言 |
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幼名 | 犬千代 |
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法名 | |
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別名 | 又左衞門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将、加賀大納言、槍の又左衞門、槍の又左 |
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前田利家の家族構成
父 | 前田利昌 |
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母 | 長齢院 |
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兄弟 | 利久、利玄、安勝、利家、佐脇良之、秀継 |
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正室 | まつ(篠原一計の娘) |
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側室 | 寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院 |
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子 | 利長、利政、知好、利常、利孝、利貞 |
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親族 | |
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前田利家の逸話
前田利家の生涯
- 1539年、生誕
- 1551年、それまで織田家筆頭家老・林秀貞の与力だったがこの頃から、織田信長に小姓として仕える
- 1552年、織田信長との清洲城主・織田信友との間に起こった萱津の戦いで初陣を飾り戦功を挙げるとその後元服し、前田又左衞門利家と名乗る
- 1556年、織田信長と織田信勝による稲生の戦いでは、小姓頭・宮井勘兵衛を討ち取る
- 1558年、織田信長と守護代岩倉城主・織田信安の息子・織田信賢による浮野の戦いにも参戦し戦功を挙げる
- 同年、まつを正室に迎える
- 1559年、同朋衆の拾阿弥と言い争い、斬り殺しそのまま出奔する。処刑は免れない状況だったが、柴田勝家や森可成らが織田信長に取り成し、出仕停止処分に減罰され、浪人となる
- 1560年、出仕停止中にも関わらず、織田信長に無断で桶狭間の戦いに加わり、戦功を挙げるが帰参は許されなかった
- 1561年、森部の戦いでも織田信長に無断で参戦し、足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取るなど戦功を挙げ遂に帰参を許される
- 1569年、浪人中に亡くなった父・前田利春から兄・前田利久が家督を継いでいたが、織田信長から兄に代わり前田家の家督を継ぐように命じられる
- 1570年、浅井氏・朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは退却する織田信長の警護を担う
- 同年、姉川の戦いにも従軍する
- 同年、石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いでは味方が撤退する中、踏みとどまって敵を倒し続ける
- 1573年、織田信長と朝倉義景の一乗谷城の戦いに従軍する
- 1574年、長嶋一向一揆攻めに従軍する
- 同年、柴田勝家の与力となり、越前一向一揆攻めに従軍する
- 1575年、武田勝頼との長篠の戦いでは佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲奉行として従軍する
- 1582年、織田信長から能登を与えられ、七尾城主となり23万石を有する大名となり翌年、難攻不落ではあったが港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港が近い小山に小丸山城を築城する
- 同年、本能寺の変が起きた時は上杉景勝の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いには参戦出来なかった
- 同年、清州会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると勝家の与力だったこともあり、勝家側に付くが、親交があった秀吉との関係にも思い悩む
- 1583年、賤ヶ岳の戦いには柴田軍として陣を構えるが、戦わずに撤退し羽柴秀吉が勝利する。戦後に佐久間盛政の旧領・加賀のうち二郡を羽柴秀吉から加増され、本拠地を能登・小丸山城から加賀・金沢城に移す
- 1584年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄による小牧・長久手の戦いでは末森城の戦いで佐々成正を討ち破りる
- 1585年、羽柴秀吉の佐々攻めでは先導役を果たし、佐々成正は秀吉に降伏する
- 1586年、豊臣秀吉から羽柴姓を与えられ、筑前守・左近衛権少将に任官される
- 1588年、豊臣秀吉から豊臣姓を与えられる
- 1590年、参議に任官される
- 同年、奥州・伊達政宗に上洛を求める交渉役を担う
- 同年、小田原攻めでは松井田城を攻め落とした後、鉢形城・八王子城を続いて攻略する
- 1592年、文禄の役がでは名護屋で政務を行うが渡海はしなかった
- 1594年、従三位に叙任される
- 1598年、徳川家康らと共に五大老に任じられる
- 1599年、豊臣秀吉の遺言により、豊臣秀頼の傅役として大坂城に入る
- 同年、徳川家康が秀吉との約束を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めるとこれに反発するが家康を訪問し、家康が伏見城から向島城へ移ること等で和解する
- 同年、病死する。享年62
- 没後に徳川家康が加賀攻めを行おうとするがまつが人質となり撤回される