蜂屋 頼隆(はちや よりたか)

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    蜂屋頼隆の肖像画
    出典:Wikipedia:蜂屋頼隆像(崇徳寺蔵)
    生年1534年
    没年1589年
    主君織田信長→豊臣秀吉
    拠点・知行和泉岸和田城
    官位・役職出羽守、従四位下・侍従
    幼名
    法名
    別名羽柴頼隆、豊臣頼隆、兵庫助、兵庫頭、出羽守、侍従、羽柴敦賀侍従

    蜂屋頼隆の家族構成

    兄弟
    正室丹羽長政の娘
    側室
    梅南丸
    養子:直政
    親族

    蜂屋頼隆の逸話

    蜂屋頼隆の生涯

    • 1534年、生誕
    • 1559年、織田信長が初めて上洛した際に同行する
    • 1568年、岩成友通の籠もる勝竜寺城攻めの際、柴田勝家・森可成・坂井政尚と共に先陣を担い戦功を挙げる
    • 1569年、大河内城の戦いに従軍する
    • 1570年、織田信長の江北出陣に従軍し、浅井長政の小谷城を攻める
    • 1572年、三好義継が松永久秀父子と共謀して畠山昭高と対立すると、久秀は畠山部将・安見新七郎を攻めて交野に砦を築く。織田信長の命令で他の織田家臣及び第15代将軍・足利義昭配下の諸将と共に三好・松永方の交野城を包囲するが敵軍は風雨を隠れ蓑に逃げ出す
    • 同年、再度江北出陣に従軍し、織田信長嫡男・織田信忠初陣の小谷城攻めに加わる
    • 1573年、織田信長と第15代将軍・足利義昭が対立したことで柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀と共に近江石山城・今堅田城の攻撃を命じられ、今堅田城を光秀と長秀とともに急襲し攻め落とす
    • 同年、義昭が再度挙兵すると信長に従って出陣し、義昭を追放する
    • 同年、織田信長と朝倉義景の一乗谷城の戦いに従軍するが、他の諸将と共に朝倉方の撤退を見逃してしまい、信長の逆鱗に触れる
    • 同年、北伊勢攻めに従軍し、抵抗を続けた白山の中島将監を攻めて降伏させる
    • 1574年、織田信長・信忠父子が伊勢長島に進軍するとこれに従う。
    • 1575年、越前一向一揆攻めに従軍する
    • 1576年、石山本願寺が挙兵して起きた天王寺の戦いに従軍する
    • 1577年、雑賀攻めの際、織田信忠に近江愛智郡肥田城を宿として提供する
    • 1578年、織田信忠に従い大阪へ進軍し、石山本願寺攻めに加わる
    • 同年、織田信長に対し、荒木村重が謀反を起こすと荒木方・茨木城に対抗する出城・太田郷砦の普請を諸将と共に命じられ、普請が完了すると有岡城の戦いの先鋒を担う
    • 1579年、荒木村重が伊丹城を抜け出し尼崎城へ向かうと、伊丹城への猛攻が始まり結果、集められた人質が尼崎で処刑された
    • この頃、高槻城で病死した大津長治の正室・丹羽長政の娘を妻に迎える
    • 1580年、佐久間信盛・信栄父子が高野山に追放されると和泉の支配権を与えられる
    • 1581年、京都御馬揃えにおいて、丹羽長秀に次ぐ二番手で登場し、河内衆・和泉衆・根来衆の一部・佐野衆を指揮する
    • 1582年、甲州攻めでは織田信忠が高遠城を落とすと、信長が出陣しこれに従うが武田勝頼・信勝父子が自害したため、上諏訪に陣を敷いただけで終わった
    • 同年、本能寺の変が起きた際は岸和田城におり、山崎の戦いでは織田信孝の配下として出陣する
    • 同年、清州会議後に羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると秀吉側に付く
    • 1583年、賤ヶ岳の戦いでは織田信孝の居城・ 岐阜城を攻撃し、戦功を挙げると戦後、和泉から越前敦賀郡へと移封となり、敦賀5万石を与えられる
    • 1584年、小牧の役に従軍する
    • 1585年、羽柴秀吉の関白宣下の際に従四位・侍従に叙任され秀吉より羽柴の姓を与えられ羽柴敦賀侍従を名乗る
    • 同年、羽柴秀吉が佐々成正を攻める前に秀吉から領国の道路・橋梁の整備を命じられる
    • 1587年、九州攻めに従軍する
    • 1588年、豊臣秀吉から豊臣姓を与えられ、後陽成天皇の聚楽第行幸では秀吉に忠誠を誓う起請文に敦賀侍従豊臣頼隆と署名する
    • 1589年、死去する。享年56
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