
生年 | 1496年 |
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没年 | 1555年 |
主君 | 今川義元 |
拠点・知行 | 駿河 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | 九英承菊(きゅうえいしょうぎく)、太原雪斎 |
別名 | 九英承菊、太原 崇孚(たいげん そうふ)、黒衣の宰相 |
太原雪斎の家族構成
父 | 庵原政盛 |
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母 | 興津正信の娘 |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
太原雪斎の逸話
- 庵原家は今川家譜代家臣の家柄
- 雪斎が存命であれば、桶狭間での敗戦も今川家の没落もなかっただろうと、今も昔もよく言われている
- 徳川家康が師事していたとされることがあるが、真偽は定かではない
- 甲相駿三国同盟の際の善得院での大名3名の会合は、創作との説が強い
- 僧侶としての活動も積極的に行っている
- 武田家臣、山本勘助と親戚関係であった可能性がある
太原雪斎の生涯
- 1496年、生誕
- 1522年頃、義元と出会ったと伝わる
- 1525年、義元とともに修行のため上洛する
- 1533年、再度、義元とともに修行のため上洛する
- 1536年、花倉の乱では、玄広恵探を攻め自刃に追い込む。当主に就いた義元から、今川家の最高顧問として重用される
- 1537年、武田家と甲駿同盟を成立させる
- 1543年、建仁寺派から妙心寺派へ転じ、法名を太原崇孚に改める
- 1546年、第二次小豆坂の戦いでは、総大将として織田信秀と戦い大勝する
- 1553年、今川仮名目録の追加21箇条の制定に尽力する
- 1554年、甲相駿三国同盟を成立させる
- 1555年、駿河にて死去。享年60