平惟仲(たいらのこれなか)|佐古井隆之
生年 | 944年 |
---|
没年 | 1005年 |
---|
氏族 | 桓武平氏高棟流 |
---|
官位 | 従二位・中納言 |
---|
職業 | 公卿 |
---|
法名 | なし |
---|
別名 | なし |
---|
平惟仲の家族構成
父 | 平珍材 |
---|
母 | 貞氏(備中国青河郡郡司の娘) |
---|
兄弟 | 惟仲、生昌 |
---|
配偶者 | 藤原繁子(藤原師輔の娘)、藤原忠信の娘 |
---|
子 | 大和宣旨、道行、五節の弁 養子:忠貞、藤原忠信の娘 |
---|
平惟仲の概要
平惟仲の逸話
- 藤原兼家の家司として藤原有国と共に左右の眼といわれた
- 左京の三条高倉にあった邸宅には、藤原定子が脩子内親王を出産する際の行啓先となり、清少納言も滞在し、また藤原詮子も居住しここで死去した
平惟仲の生涯
- 944年、生誕
- 967年、文章生となる
- 同年、冷泉天皇が即位すると六位蔵人として天皇に仕える
- 968年、右衛門少尉に任じられる
- 969年、冷泉天皇が円融天皇に譲位すると判官代に任じられ、院司として引き続き冷泉上皇に仕える
- 972年、従五位下に叙任されるとその後、美作国・筑後国・相模国・肥後国と10年以上にわたって受領を歴任する
- 980年、これまでの功績で従五位上に叙任されると、国司としての勤勉振りを摂政・藤原兼家に気に入られてその家司となる
- 987年、正五位上に叙任され、右少弁、続いて右中弁、弁官に任官され同じく弁官を務めた藤原有国と共に藤原兼家の耳目となって活躍する
- 989年、正四位下に叙任され左中弁に任じられる
- 990年、右大弁に任じられる
- 991年、蔵人頭に任じられる
- 992年、参議に任じられる
- 993年、従三位に叙任されて公卿に列する
- 995年、藤原道隆が死去すると中関白家衰退を感じ取り、藤原道長に近づく
- 996年、藤原道長の閣員として権中納言に任じられる
- 998年、中納言に任じられる
- 999年、藤原定子の中宮大夫を兼務するが、凋落しつつある中関白家との関りを懸念して僅か半年で辞任する
- 1000年、正三位に叙任される
- 1001年、つての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後任として、中納言兼務のまま大宰帥として大宰府に赴任する
- 1003年、従二位に叙任される
- 1004年、宇佐大宮司・大神邦利ら宇佐神宮の神職・神人ら数百名が上京して陽明門前で惟仲の過酷な統治を訴訟する事件が起きる。権中納言・源俊賢の擁護もあったが神宮側の訴えは認められ、大宰帥を解任される
- 1005年、厠で倒れ腰を痛めたことがきっかけで病に倒れ、死去する。享年61
光る君への平惟仲