源俊賢(みなもとのとしかた)|本田大輔
生年 | 960年 |
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没年 | 1027年 |
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氏族 | 醍醐源氏 |
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官位 | 正二位・権大納言 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 一条朝の四納言 |
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源俊賢の家族構成
父 | 源高明 |
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母 | 藤原師輔の娘 |
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兄弟 | 為平親王妃、忠賢、惟賢、俊賢、明子、経房、致賢、藤原正光室、源重信室、藤原相尹室 |
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配偶者 | 中納言の君(藤原忠君の娘) |
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子 | 成尋阿闍梨母、顕基、隆国、隆縁、源朝任室 |
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源俊賢の概要
源俊賢の逸話
- 常に時の最高権力者に接して、事と次第によっては恩人を追い落とすこともためらわなかったといわれる
源俊賢の生涯
- 960年、生誕
- 969年、父・藤原高明が安和の変で大宰権帥に左遷される
- 975年、従五位下に叙任される
- 977年、侍従に任じられる
- 984年、従五位上・左兵衛権佐に叙任される
- 986年、左近衛権少将に任じられる
- 988年、右少弁兼五位蔵人に任じられる
- 990年、正五位下・右中弁に叙任される
- 992年、蔵人頭に任じられる
- この人事には本来、従四位上・左近衛中将の藤原斉信が適任だったが藤原道隆の恩遇があったとされ、俊賢はこの恩偶を忘れずに、道隆の死去や長徳の変を通して中関白家が没落する中でも好意的に接する
- 993年、従四位下に叙任される
- 994年、権左中弁に任じられる
- 995年、参議に任じられ公卿に列する
- 同年、参議に昇進するに際、後任の蔵人頭の人選について一条天皇の諮問を受け、藤原行成を推挙し、行成は以後順調に出世し、2人は年齢を超えた親友となる
- 同年、藤原道長に対する内覧宣旨が発せられるが、父・藤原道隆の後を継げなかった藤原伊周に同情して、空眠りをしてこの宣旨を聞かなかったふりをする
- 996年、長徳の変が起き、藤原伊周・隆家兄弟の断罪を間近に控えて、内裏を退出した中宮・藤原定子の二条北宮行啓の際に中宮大夫・平惟仲以外の公卿が不参加の中、敢えて従う
- 同年、藤原道長主催の藤原在国・大宰大弐赴任の宴において夕刻に催された和歌会へ参加する
- 997年、従四位上に叙任される
- 同年、藤原伊周・隆家兄弟の恩赦・召還することの詮議においては藤原実資・藤原公任・平惟仲と共に最も温厚な意見を採択する
- 999年、藤原道長・倫子夫妻の春日詣に従う
- 同年、道長の長女・彰子入内屏風和歌を詠む
- 1000年、正四位下に叙任される
- 1001年、従三位に叙任される
- 1002年、中宮・藤原彰子の中宮権大夫を務める
- 1003年、藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔を超えて正三位に昇叙される
- 1017年、権大納言に昇進する
- 1019年、権大納言を辞任し、治部卿と太皇太后宮大夫を務める
- 1026年、官職を辞任する
- 1027年、病に倒れ出家し、翌日に死去する。享年69
光る君への源俊賢