清原元輔(きよはらのもとすけ)|大森博史
生年 | 908年 |
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没年 | 990年 |
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氏族 | 清原真人 |
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官位 | 従五位上・肥後守 |
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職業 | 殿上人 |
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法名 | |
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別名 | 梨壺の五人 |
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清原元輔の家族構成
父 | 清原春光 |
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母 | 高向利生の娘 |
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兄弟 | 元輔、元真 |
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配偶者 | 不明 |
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子 | 為成、戒秀、致信、正高、清少納言、藤原理能室 |
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清原元輔の概要
清原元輔の逸話
- ひょうきんな一面があり、賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、冠が脱げて禿げ頭をさらし皆に笑われるが冠を落とした人々の例を挙げながら悠々と弁解したという
清原元輔の生涯
- 908年、生誕
- 951年、河内権少掾に任じられる
- 同年、勅撰和歌集撰集の命令で撰和歌所寄人に任じられ、梨壺の五人の一人として万葉集の訓読作業や後撰和歌集の編纂に当たる
- 961年、少監物に任じられる
- 962年、中監物に昇進する
- 967年、民部卿・藤原在衡の要請によって民部少丞に任じられ、続いて民部大丞に昇進する
- 969年、従五位下・河内権守に叙任される
- 974年、周防守に任じられ受領となる。当時の周防は長門・河内と共に鋳銭司がおかれて貨幣の鋳造が行われており、鋳銭長官も兼任する。また周防守在任中に遊郭の造営も担当する
- 980年、周防守の功績で従五位上に叙任される
- 986年、肥後守に任じられ、再度受領として九州へ赴く
- 990年、赴任5年目で肥後で死去する。享年83
光る君への清原元輔